第11話 冒険者ギルドかたはね
かざはな亭に住人が増えて、早くも一週間が過ぎた。
通り魔事件も無事解決し、滅茶苦茶になった店内もスッキリと元通り。
新しいアルバイトとして、ロザリンもこの店で働くこととなり、心機一転、新たな日常の始まりは、晴れやかにスタートしたかに思われたのだが。
「…………むぅ」
どんよりと不景気な顔をしたアルトが、カウンターの上に突っ伏していた。
原因は言うまでも無く、ロザリンのこと。
流石に宿の部屋を二つもただ同然で貸し出すことはできず、ロザリンは以前と同じようにアルトの部屋に転がり込んで来たのだが、実に不思議な話だと、アルトは今でも納得がいっていない。
確かに勝手にしろとは言ったし、困った時は頼れとも言った。
しかし、保護者として面倒を見るとまでは、言った覚えは無い。
住む家や仕事くらいは探してやっても良いかと思っていたが、気がつけば当然のよう一緒に暮らす流れになっていたどころか、誰もそれに反対や疑問の声を上げはくれなかった。
いくらアルトが拒否の姿勢を示そうとも、全ての意見は黙殺されてしまう始末。
特に納得がいかないのは、カトレアの態度だ。
自分は一言も、何も意見を述べず、外堀から埋められたのにも関わらず、カトレアから向けられる視線には明らかに「このロリコン野郎」と、蔑んだ色がありありと浮かんでいた。
別にアルトは子供に欲情するような、特殊性癖は持ち合わせてないし、好みのタイプは年上お姉さん系だ。
事実を声高に叫んでみても、世論というモノは、都合の良い状況だけを切り出して、それをさも真実のように思い込んでしまう。
側にいるカトレアでもこれなのだから、詳しい事情を知らない通りの連中も、似たような感想を抱いていることだろう。
死にたくなるほどの不名誉。事実無根だと激しく抗議したい。
表情の変化が薄い癖に、妙にお茶目な部分があるせいか、かざはな亭の客受けも悪くは無く、能天気通りの連中にも可愛がられ始めている。
ここでロザリンを部屋から追い出そうモノなら、逆にアルトの方がかざはな亭から、いや、東街から追い出されてしまうだろう。
やっぱり故郷へ返せばよかったと、後悔の入り混じる湿ったため息を漏らす。
その姿を見兼ねたのか、店長のランドルフが声を掛けてきた。
「お疲れだねぇアルト。同棲生活は、そんなにしんどいかい?」
「共同生活な。胃に穴が開きそうだぜ。俺ぁそもそも、集団行動が駄目で、騎士を止めたようなモンだからな」
「おや。ロザリン君は君に懐いているから、気兼ねしないと思ったけど」
「そりゃ逆だ」
突っ伏したまま、眉間に皺が寄る。
「あの馬鹿が遠慮とか恥じらいに欠けてっから、俺が余計に気を使わなきゃなんねぇんだよ……朝起きたら横で寝てるとか、アイツの頭ん中はどうなってんだ」
「はは、難儀なモンだね」
二人の視線が、店の中を忙しく立ち回るロザリンに集まる。
森の奥であまり人と接しない暮らしをしていたので、当初はどうなるモンかと心配していたが、中々 どうして上手く立ち回っている。
頭は良いので物覚えが早いし、素材も悪く無いので、ウエイトレス姿も見栄えが良く、早くも店の人気者だ。
後は人見知りで愛想が無い部分が治れば、カトレアと並ぶ看板娘になれるだろう。
ちなみに本日、カトレアはお休み。
今頃は、家でたまっている家事と、自己鍛錬に勤しんでいるはず。
「そういえばアルト。今日、頭取のところに行くんだろう。いいのかい、こんなにのんびりしていて」
言われてアルトは、ハッとした顔で跳ね起きる。
「いっけねぇ!? 忘れてた!?」
ランドルフはやれやれと、呆れた表情をする。
普段は約束の時間など気にしないアルトだが、相手があの『頭取』となれば話は別だ。
ご機嫌を損ねれば、冗談でなくこの街で暮らせなくなるかもしれない。
「やべぇ。さっき昼の鐘が鳴ったから、移動時間を考えてもう出ないと間に合わねぇ!」
「全く、忙しないね……お~い、ロザリン君! 後は任せていいから、上がっておくれ!」
慌てるアルトに嘆息しつつ、気を聞かせて仕事中のロザリンに声を掛ける。
状況を理解していないロザリンは、まるで大道芸人のような器用さで、両手と頭の上の計三か所に食器の重なったトレイを乗せて、不思議そうな顔で振り向いていた。
★☆★☆★☆
東街の能天気通りには、頭取と呼ばれる顔役がいる。
実際に頭取という役職があるわけでは無く、いつの頃か自然と呼ばれるようになった、あだ名のようなモノ。
能天気通りの相談役として色々な物事に精通する人物で、長年に渡り多くの困り事や面倒事を仲裁、解決してきたことから、この通りの住人達誰もが厚い信頼を置いている大物だ。
自由気ままな風来坊、アルトですら一目を置き、この王都で彼が頭の上がらない数少ない人物の一人でもある。
今回、頭取を訪ねる理由は、ずばりロザリンに関してのこと。
シエロや騎士団のバックアップがあるので、表だって魔女であるロザリンを狙う輩は出てこないだろうが、完全な安全を確保できたわけでは無いし、下手をすれば通りの住人に被害が出る恐れもある。
頭取に事情を説明し、協力を取り付けることができれば、何かと心強い。
それでなくても頭取は能天気通りの顔役。
ここで暮らして行くなら、一度くらいはちゃんと顔を出して挨拶しなくてはいけないだろう。
頭取は多忙な人物なので、事前のアポイントは必須だ。
ランドルフを通して約束を取り付けたのに、忘れたの一言でぶっちぎってしまっては、後で何を言われるかわからない。
なので、自由人のアルトには珍しく、遅刻してはならぬとロザリンを連れ、大急ぎで目的の場所まで走って行った。
冒険者ギルドかたはね。
能天気通りの最奥に拠点を構えるギルドの、ギルドマスターを務めるのが、今から会いに行く頭取だ。
扉を開いて中に足を踏み入れると、正面に待合室と受付が視界に入る。
入ってすぐ横の一番目立つ場所には、大きな掲示板が。
盤面には隙間無く紙切れが貼られており、興味を惹かれたロザリンが覗き込むと、どうやら紙切れは依頼書らしく、内容と金額が詳細に書かれていた。
「魔物退治に、商隊の護衛。街のゴミ拾いや、崩れた石垣の修理……お仕事、色々」
「世の中不景気だからな。地味な仕事もこなさにゃ、大所帯は飯を食っていけんのさ……ところで、誰もいねぇな」
普段だったら依頼に来た一般人や、掲示板で仕事を探すギルドメンバーやらで、広い待合室は賑わっているのだが、今日は人っ子一人いやしない。
それどころか、受付すら空っぽだ。
「おいおい、人が慌てて時間通り来たってのに、鍵もかけないで留守とか物騒すぎんだろ」
「……お~い」
口元に両手を添えて、ロザリンは呼びかけるが、全く音量が足りていない。
困り顔でアルトが、受付の中などを覗いていると、奥にある階段からパタパタと軽い足音が聞こえてきた。
「お待たせして申し訳ありません!」
慌てた様子で待合室に飛び込んで来たのは、ロザリンと同じかそれより小さい、黒いスーツを着た女の子だった。
軽くウェーブのかかった茶色い髪を揺らし、女の子は滑り込むようアルトの前に立つ。
「すすす、済みませんアルト兄様! 少し、準備に手間取りまして、お出迎えできずに、失礼いたしました!」
あわあわとそう捲し立てると、少女は膝におでこが付く勢いで、馬鹿丁寧に頭を下げた。
舌足らずな口調で謝られると、なんだかアルトの方が、苛めている気分になってしまう。
「いや、別に今来たところだから、構わねぇけど……」
「いえ。お待たせしてしまったことは、事実ですから、キチンと謝罪させて下さい」
キリっと表情を引き締めて言うと、少女は再び腰を曲げアルトに頭頂部を見せる。
「はいはい、わかったよ。これでいいか? ……それにしても、久しぶりだなプリシア。暫く見ない間に、随分と板についてきたじゃねぇか」
「えへへ。兄様にそう言って貰えると、嬉しいです。兄様もお元気そうで、私も安心しました」
花の咲いたような、年相応の可愛らしい顔でプリシアは微笑む。
兄様などと呼ばれているが、当然、彼女と血縁関係があるわけじゃない。以前に、ちょっとした困り事を手助けしたのを切っ掛けに、こうして懐かれてしまったのだ。
ちみっ娘は守備範囲外だが、慕われていること自体は悪い気はしない。
コートがツンツンと引っ張られたので、顔を向けると、ロザリンが何やら軽く眉を潜めてこちらを見上げていた。
突然、親しげに話しかけてきた、見知らぬ少女に戸惑い、人見知りを炸裂させているのだろう。
苦笑しながら、アルトは親指でプリシアを指す。
「こいつはプリシア。このギルドのサブリーダーみたいなモンだ」
「……この子、が?」
不思議そうに、ロザリンは首を傾げる。
普通に考えて当然の反応だろうが、当の本人は舐められているとでも思ったのか、興味深げなロザリンの視線に、プリシアは頬を膨らませて、表情に不機嫌の色を浮かべた。
「兄様。こちらの方は?」
何だか棘のある口調で、三角にした目をロザリンに向けている。
「ん~、同居人?」
「どうも、愛玩動物です」
「物騒な冗談を言うんじゃねぇ!?」
と、軽いノリをかましてみるが、プリシアは目を三角にしたまま、ピクリとも表情を変えない。
ロザリンはちょっと残念そうな顔をする。
「うけなかった」
「……私は大人の女ですから、それくらい冗談だとわかります」
コホンと咳払いをして、表情を元に戻すと、ちょっとだけ拗ねるような視線をアルトに移した。
「つまり、兄様がまた、面倒事に首を突っ込んだ。ということでよろしいですか?」
「……お前は賢い娘だよ」
「えへへ……では、ギルドマスターがお待ちですので、ご案内します」
軽く照れ笑いを浮かべてから、態度を業務用へと切り替える。
プリシアに導かれ、アルトたちは建物の二階に上がった。
かざはな亭より広い廊下を真っ直ぐ進み、一番奥のドアに辿り着くと、プリシアは足を止めノックをする。
『どうぞ』
入室を許可する声を聞いてから、プリシアは「失礼します」とドアを開いた。
「アルト兄様をお連れしました」
ドアを開くプリシアに促され、二人は室内に足を踏み入れた。
執務室になっているらしい部屋は、思いのほか質素で、応接用のソファーとテーブルの他には、難しそうな書物が並んだ本棚が並んでいるだけ。
部屋の奥にはデスクがあり、そこにこの建物の主、頭取と呼ばれる人物が座っていた。
ロザリンは目を見開いて驚く。
てっきり男だと思っていた頭取は、白髪の老婆だった。
足が悪いのだろう。座っているのは、椅子では無く車椅子。
頭取はアルトを視界に止めると、皺の深い顔に微笑を浮かべた。
「ようこそ。お久しぶりね、アルト」
「うっす」
アルトは軽く頭を下げた。
老婆と表現したが、見た目以上に精力に溢れ若々しさを感じる。
雰囲気にも上品さが滲み出ていて、貴婦人だと紹介されても、疑う余地なく信じてしまうだろう。
何より理知的な顔立ちを見て、ロザリンは迷わず格好良いと思ってしまった。
頭取はロザリンに顔を向けると、視線を細めて微笑んだ。
「初めましてお嬢さん。私がこのギルドのマスターよ。皆からは頭取なんて、呼ばれているわ……貴女は?」
「ろ、ロザリン、です」
ピン、と背筋を伸ばして緊張気味に答える姿に、頭取は微笑ましい視線を向ける。
そんなロザリンの緊張を解すかのよう、ニコリと笑った頭取は車椅子を動かす。
プリシアは素早く後ろに回り、車椅子を押してロザリンの前まで頭取を連れてきた。
頭取は、そっとロザリンの手を取る。
「硬くなることは無いのよ。頭取なんて呼ばれているけど、私はただのお婆ちゃんなのだから。畏まったりせず、楽にしてちょうだい」
優しい言葉に、強張っていた表情からスッと緊張感が抜け、ロザリンは小さく頷いた。
もう一度微笑んでから手を離すと、今度はアルトの方へ身体を向ける。
「さて、アルト。今日はなんの御用かしら」
「なんの用って、シエロやランドルフ辺りから事情は聞いてんだろ?」
「それでもきちんと、当事者が自分で説明しなければ駄目でしょう? これからこの娘の保護者になるのだから、その程度の自覚は持たなければ」
軽く説教をされてしまい、アルトは面倒臭そうに顔を顰めたが、言い返すこともできず仕方なしに今までの経緯を簡単にまとめる。
「あ~。こいつ、魔女だから。シエロを通して騎士団と話はつけてあるけど、面倒事が起こる可能性もあるから、そんときゃよろしく」
乱暴な説明に、頭取はこめかみを押さえて嘆息する。
「……まぁ、よろしいでしょう。その辺りの躾けは、また追々ということで」
躾って俺は犬か何かか。
口元をへの字に曲げるアルトに構わず、頭取は背後にいるプリシアに目配せを送ると、車椅子を動かしてデスクの方へと戻った。
「委細承知しました。ロザリンちゃんが他の皆と変わらぬ生活が送れるよう、私も微力ながら協力しましょう……じゃ、アルト」
名前を呼ばれて、何事かとデスクの近くまで寄ると、頭取は引き出しから数枚の書類を取り出し上に置いた。
「ん? なんだよこれ」
「これから王都で暮らしていくのに必要な、法的手続きをまとめた書類よ。必要項目を全て記入したら、サインをして私に渡してくれれば、後は全てやっておくわ」
「おいおい、随分と手回しがいいじゃねぇか。もしかして、なんか怪しい書類でも混じってんじゃねぇのか?」
「疑うのなら、この場で確かめればよろしいじゃない」
前に押し出された書類を手に取ると、パラパラと捲り中身に目を通す。
住民登録や、税金の支払いその他諸々。別段、怪しい部分は無い。
「ふぅん……なんか、色々面倒臭そうだな。俺、ここに住み始めた時、こんな書類書いた覚えねぇぞ」
「この街でただ暮らすだけなら、渡した書類を全て提出する必要は無いのだけれど、ロザリンちゃんには事情があるでしょう?」
そう言って頭取は、読み終えた書類を一枚ずつ受け取り、文章を細かくチェックするロザリンに視線を向ける。
「この手の法的手続きを確りやっておかないと、何処で何を突っ込まれるか、わからないわ。ただでさえ、ロザリンちゃんは未成年で、アルトとは血縁関係が無いのだから。面倒だとは思うけど、ちゃんと記入してちょうだいね」
「ほ~う。法律の細かいことはわからねぇが、つまるところ、コイツを提出すれば事前に面倒事を回避できるって寸法だな」
「そこまで大袈裟な話では無く、ただのリスクカットなのだけれど、少なくとも、正攻法でロザリンちゃんをどうこうする。という事態には、ならないと思うわ」
流暢な語り口調に、アルトは感心したような声を上げた。
感心しすぎて、頭取の背後で何やらしょっぱい顔をしているプリシアを、見逃してしまった。
「んじゃ、後で何て言わず、この場でパパッと書いちまおうぜ。何か書く物を……」
言いかけたところで、ロザリンにコートの裾を引っ張られる。
何だよと視線を向けると、目の前に書類を突きつけてきた。
「これ」
束になった書類から、一枚抜きだしたそれを受け取ると、それは見覚えの無い契約書だった。
全部目を通したはずなのに。
訝しげな顔をして文面に目を走らせていると、見る間に眉が吊り上って行った。
「これって、不動産の契約書じゃねぇか!?」
「それ、他の紙より、薄い上に、ちょっと触っただけじゃ捲れないよう、他の書類の裏に、確りと張り付けてあった」
指で擦って確認すると、たしかにその通り。
ご丁寧に、上に重ねてあった書類に必要事項とサインを記入すると、下の書類に文字が写される仕掛けまでしてあった。
「おいおい、どういうこったッ!」
すぐさまデスクに近づいて、書類を突きつけるが、頭取に悪びれた様子は無く、
「あら、バレちゃった」
と、茶目っ気たっぷりに、軽く言い放った。
書類を叩き付けるようデスクの上に置くと、目尻を釣り上げて睨みを利かせる。
「頭取の職業は、いつの間に悪徳土地転がしにジョブチェンジしたんだぁ? 冗談にしてもちっと笑えねぇぞ」
「冗談のつもりは無いわ。だって、必要でしょ。住む場所」
ドスを利かせた睨みにも怯まず、笑みまで浮かべて頭取はデスクの上に手を組んだ。
全く言っている意味がわからず、アルトは眉間に皺を寄せた。
「住む場所って、別にかざはな亭があるじゃねぇか」
「あそこは元々宿屋、長く住む場所じゃないわ。それに、寝るだけしかできないような狭い部屋に、ロザリンちゃんを押し込めておくなんて、可哀想でしょう? 仮にも女の子なんだから」
「む、むぅ」
そう正論を言われると弱く、二の句が継げない。
当の本人は首を傾げ「別に、構わない」とでも言いたげな顔をしていたが、頭取は見ないフリをしてスルーする。
「私が所有している不動産なのだけれど、古い建物だから買い手がつかなくて困っていたのよ。ほら、家って人が住んでいないと、老朽化が早いじゃない?」
「だからってやり方が悪質すぎるだろうがッ! 気づかないでサインしてたら、どうするつもりだったんだよ!」
「あら、そんなのは気づかない方の責任じゃない」
笑顔で、ばっさり言い切った。
見た目こそ温和で人の良さそうな老婆だが、仮にも荒くれ者の集う冒険者ギルドを束ねる人間。心身共にタフネスであり、シビアであり、そして老獪な人物だ。
だからこそ頼りになるのだが、正直言って正面から相手するには、精神的に擦り減る相手だ。
「半分は冗談だけれど。かざはな亭を出るよい機会だと思えば、悪い話じゃないと思うの」
もう半分は本気なのかよ。と、言いかけて、ゴクリと言葉を飲んだ。
後ろのプリシアが気の毒にと、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
確かに今の暮らしは、二人で生活するには手狭だとランドルフとも話たばかり。新しいねぐら、それも一軒家で暮らせるなら、それにこしたことはない。
が、現実的に立ちはだかる大きな問題が、この場合は大きなネックになってくる。
「お茶目な気遣いはありがたいが、頭取。一つ大切なことを忘れちゃいないか?」
「……予想はつくのだけれど、まぁ、言ってごらんなさいな」
「金が無い」
予想通りの答えに、沈黙が流れた。
頭取が提示した物件の契約書は、騙し討ちこそされたモノの、中に書いてある条件自体は悪いモノではなかった。むしろ、建物の古ささえ除けば、二階建ての一軒家だし値段も相場より安く、激レア優良物件と言って差し支えないだろう。
だが、
「俺には引っ越す金も無ければ、ローンを組む定期的収入も無い。むしろ、明日の食事だって食える保障はねぇ!」
きっぱりと、胸を張って言い切った。
かざはな亭で食事を食わせて貰えなければ、とっくに飢え死にしている自信がある。
あまりに情けない言い分に、頭取も頭痛を堪えるよう、額を押えた。
「……甲斐性の無い男だとは知っていたけど。こんな駄目男のどこが、カトレアや家の孫、そこのお嬢ちゃんは良いんだろうねぇ」
「うっせ。俺だってガキになんか好かれたくないわッ!」
ジト目の頭取にそう反論すると、怒ったロザリンに尻をパシンと叩かれた。
頭取はため息を一つ。
「ま、想定の範囲内よ。だったらアルト。無い物は、自分で稼がなければならないわね」
口調や表情は変わらないが、明らかに室内の雰囲気が変わる。
尻を叩いたロザリンの脳天を、拳でグリグリしながら、察知した雰囲気の違いにアルトはヘッと鼻を鳴らした。
「回りくどいんだよ。大方、そっちの方がアンタにとって本題だったんだろ?」
「偶然よ」
「ふん。人払いまでしといて、よく言うぜ」
ニコリと笑って、頭取はプリシアに耳打ちをする。
するとプリシアは一度頷き、そのまま室内の外へと出て行ってしまった。
残った頭取は、正面のアルトを見つめる。
「さて、アルト。実は折り入って、頼みたいことがあるのだけれど」
「……聞くだけなら、構わないぜ」
肩を竦めると、頭取は「ありがとう」と笑みを見せた。
正直言うと、聞きたくはない。
聞くだけのつもりでいても、話を最後まで聞けば、済し崩しに頼み事を引き受けざるを得ないのは、今までの経験でよくわかっている。
アルトの心情を知ってか知らずか、頭取は流暢に話を始める。
「実は一つ、厄介な案件を抱えていてね。頭を抱えていたところなのよ」
「ふぅん。腕利きを何人も抱えるかたはねさんが、随分と弱気がことを言うじゃねぇの」
「何事にも、適材適所、というモノがあるの……その、案件というのはね」
言葉を区切り、頭取は楽しげに目を細めた。
「色恋沙汰なの」
「……はぁ?」
間を置いて、アルトが思い切り顔を顰めると、部屋のドアがノックされた。
「いいタイミングね……入ってらっしゃい」
ノックをしたのは先ほど出て行ったプリシアで、彼女は失礼しますと、ドアを開いて室内に再び姿を現す。
その後ろには同い年くらいだろう。
ハンチング帽を被った、小汚いなりの少年が居辛そうに、キョロキョロと室内を見回していた。
「紹介するわ。彼が今回のクライアント、名前は……」
「は、はじめまして! オイラ、ウェインって言います!」
視線で促され一歩前に出たウェインは、緊張気味に挨拶すると大きく頭を下げた。
薄汚れた風貌の少年を見て、アルトは何かピンと来たようで、軽く眉根を狭める。
「お前、北街のガキか」
「は、はい」
少年は素直に頷く。
北街、それもスラムで暮らす人間には、独特の雰囲気がある。
それは目の前の少年も例外ではなく、アルトは一目でそれを嗅ぎ分けた。
何となく頭の中で繋がる物があり、露骨に嫌そうな顔をする。
「おいおい。こりゃ、ちっとどころの面倒臭さじゃなさそうだなぁオイ」
「察しが良い子は好きよアルト……それじゃ」
ニコリと微笑んだ顔に、ギルドマスターとしての色が帯びる。
「ビジネスの話を始めましょうか」




