第一話【少年の夢】
第一話【少年の夢】
――少年は、この日常を退屈だと感じていた。
鉱石のような赤い髪をした少年は、そよそよと吹く風を浴びていた。
「ご子息様! どこですか⁉︎」
侍女の声だ。母と同じくらいの歳で、明るい人だが厳しい侍女でもあった。こうしてひっそりと抜け出していることもお見通しという目ざとさだ。
「ここにいるよ、ファーバス」
少年が返事をすると、それを聞きつけた侍女はスカートを持ち上げて、少年の元へ一目散に走ってきた。
「はあ、はあ……ソル様! また授業を抜け出しましたね! お司祭様に言いつけてしまいますよ!」
「ええっ。抜け出したって言っても、たった一、二分じゃない。少し休憩させてよ」
「ダメです! 休憩まであと三十二分ございます」
「やだよ! 僕そんなに勉強したくない!」
少年は眉根を寄せて顔を背ける。だが侍女はその態度が慣れているかのように、口酸っぱく言いつける。
「何をおっしゃいます! お母様のように立派な司祭になられるんですよ! そのためのお勉強です!」
侍女の声が少年の頭の中を反響する。
母はこの街の司祭だ。父はその補佐を務めている。誰よりも優しく誠実で、街の人々からとても信頼されている。少年もそんな二人が大好きだった。
だから小さい頃はそんな両親のようになれるなら、司祭の勉強だって苦ではなかった。
だからこそ、小さい頃は大人になれば司祭になるものだと思っていたし、そう言われてもきた。
――それでも。自分が将来への道をまっすぐ見据えているときに、他の子たちは「ケーキ屋さんになりたい」「獣医さんになりたい」「門兵になりたい」と様々な夢を語る。そうやって笑い合っている姿が、とても羨ましかった。
自分は、本当に司祭になりたいのだろうか。ふとそんなことを考えたことがある。
ケーキを作る自分、動物たちを治療している自分、門兵としてこの街を守っている自分、色々な自分を想像した。
――ああ、なんて、楽しいんだろう。
自分の将来を自分で考える、一本だった自分の道に色々な道が生えたような感覚だった。この感覚を忘れてはいけない。少年はなぜだかそう感じた。
だからこうして、再び自分の道を一つにしてしまいそうな言葉を、少年は聞きたくはなかった。
「司祭、司祭って――僕は司祭になんてなりたくないよ‼︎」
少年は走り出した。背後から聞こえる侍女の金切り声を振り切って。
――もう、なんだよみんなして! 父さんも、母さんも、ファーバスだって、みんな僕が司祭になりたいと思ってる。僕にだってやりたいことくらいあるんだ。そうだ、僕にだってやりたいことくらい……
幾らか走った場所で、立ち止まった。もう知っている声は聞こえない。
――やりたいこと? 僕の、やりたいこと……?
勢いで口走った言葉。だが、その言葉に少年は思い至る。やりたいことはあるのだろうか、と。
今までの自分の人生。母からも父からもあまり怒られたことはなく、逆にいつも自分を叱るのは侍女のファーバスだった。やる事といえば、この国についての勉強や司祭としての心得を学ぶことだった。
『大昔、この世界には十人の神がいた。神は各々が収める街を作り、住まう人々に星神力という加護を与えた。その恩恵は世界を発展させ、人々に恵みをもたらした。』
どの街の教典にもそう記されている。だがそれは知識だ。国の歴史も、街ごとの特色も、星神力についても。
――何も知らない僕は、一体何になりたいんだろう。
この国に十の街があることや、その中で自身の住む街が【地の街】と呼ばれること。この国を大きく発展させている力、星神力の存在。それを操る星神術者という存在を、文字の羅列としては知っている。だが実際に見たことはない。星神術者はこの国の矛であり、盾であり、技術そのもの。彼らはいろいろな街を駆け巡っては人々を助け、技術を国の発展に活かし続けている。街の中心で育てられた少年は、世界の本当の姿について何も知らなかった。
――このまま、何も知らないまま生き続けるのかな。
司祭として街を統治し、人々に笑顔と祝福をもたらしている母を少年は尊敬している。決して司祭としての仕事を担うのが、嫌なわけではない。
――でも、退屈だ。
毎日同じ時間に、似たような勉強をする。だがふと空を見た時、優雅に飛んでいく鳥が、なぜだかとても羨ましく思えてしまう。
それでも、母のように人々を笑顔にしたいと思い続けてきたのは本当だ。両親やファーバスのためにも、司祭になった方がいいのではないか?
少年が眉根を寄せて立ち止まっていた時、遠くから自分を呼ぶ声がした。
「――ご子息様! どうしたんですか、こんなところで」
少年がパッと顔を上げると、数メートル離れた場所で大きな木箱を担いだ男性が手を振っていた。
「ジルバトおじさん!」
少年はその姿を見つけると、一目散に走り出した。
「よう! ソルの坊ちゃん。元気にしてたか?」
コーヒー豆のような茶髪に、無精髭を生やした男は少年の頭を乱暴に撫でる。だが少年はそれを嫌がることもせず、嬉しそうだ。
「おじさんこそ何してるの? その木箱は何?」
「今な、食料やら何やらの支給物資が来たところでな。その荷運びをしてんだ。ちなみにこれは生活雑貨だな」
男は木箱を両手に持ち替えると、側面に貼ってある用紙をまじまじと見つめる。
「こりゃあいい! 【水の街】からの仕入れ物だ。きっといいもんが入ってんだろうなぁ」
「盗んじゃダメだからね、おじさん!」
「ばっ、馬鹿野郎! んなことするか! 滅多なこと言うんじゃねぇ。支給物資にゃ、この街の命がかかってんだからな」
男は周囲を見渡した。この街に住むいろいろな人々が行き交っている光景を、男は大切そうに見つめていた。
彼は少年の叔父であり、【地の街】の門兵をしている。門兵の仕事は街への入国者の管理や、こうした支給物資の荷運びだ。
「ところでソル。お前こんなところで何してんだ? ファーバスは一緒じゃねぇのか」
「うっ、それは……」
少年が気まずさに視線を背けると、ジルバトはニヤリと笑った。
「あいつと喧嘩でもしたかぁ? それか、勉強が嫌になったか」
「喧嘩したわけじゃないんだ。僕が一方的に逃げちゃっただけで」
「珍しいこともあるもんだな。どうした?」
「ファーバスが、いつもいつも司祭になれって言うから、躍起になっちゃってつい『司祭なんてなりたくない』って言っちゃったんだ……」
「なるほどなあ……反射的に言っちまったことは仕方ねぇ。素直に謝るしかないな。だが、俺にはどうにもそんなことで悩んでいるようには見えなかったぜ?」
「……僕、思ったんだ。僕は何がしたいんだろうって。何にも知らない僕じゃ、やりたいことも見つけられないんだって」
少年は肩を落とした。
するとジルバトは木箱を地面に置き、その場にしゃがみ込んだ。ジルバトは少年と目が合うと、今度は優しく少年の頭に手を置いた。
「何も知らないって言うがな、お前は別に無知なわけじゃない。下手すりゃ、俺より色々知ってるだろうよ。でもお前はそれでも自分が無知だと思ったんだろ? だったら、知りたいことを知ればいい。揚げ足を取るような言い方だが、やりたいことを見つけるって言うのも、やりたいことだ。もしお前が少しでも心残りや罪悪感があるってんなら、面と向かって話すといい。必ずちゃんと聞いてくれるはずだ」
「ファーバスや母さん、父さんと?」
「ああ」
「……うん、話してみる」
少年は小さく頷いた。だがその瞳にはまだ不安が残っていたのを、ジルバトは見逃さなかった。
「よっし、そうと決まれば第一歩だ! 手始めに、この辺りでも見歩いてこい! 何かしら興味の湧くもんがあるかもしれねぇ」
「えっ……でも、いいの?」
「ああ。ご子息とあらば、みんな快く見せてくれるだろうさ。俺はこの木箱を運ばなくちゃいけねぇし。いろんなもんがあるから気をつけろよ」
「うん! ありがとうジルバトおじさん!」
少年は嬉しそうに再び走り出した。その背は振り返りながら手を振っていた。
――とは言っても、何から見回ろうかな。
多くの門兵が木箱を運んでは、積み重ねていた。その中でも、近くで多くの木箱が積み重なっている場所へと向かう。
「……えっと『【金の街】発:医療器具』」
少年は木箱のそばでしゃがむと、側面の貼紙に書かれた文字を読み上げる。どうやらこれはこの街唯一の病院宛の支給物資のようだ。その上の木箱も【金の街】発と書かれていて、何やら長い薬品名のようなものが記されている。
【金の街】は医療施設が多く、優れた医者が多く住んでいる。そのため、薬や医療器具なども【金の街】から取り寄せている。
――お医者さんも立派な仕事だけど、あんまり興味は湧かないな。
皆を笑顔にしたいとは思うが、何かが少し違うような気がした。
門兵の邪魔にならないようにできるだけ隅を歩きながら、少年は他の木箱が置かれている場所へ移動した。
今度は『【水の街】発:生活雑貨(アクセサリー小物)』と記されている木箱だ。
「そういえば、さっきジルバドおじさんが持ってたのも【水の街】のやつだったっけ」
【水の街】に住まう多くの人々が商人で、多くの物資が揃っている。観光地としても人気のある街だ。
――【水の街】かあ、母さんたちと遊びに行ってみたいな。いつも忙しそうだけど、たまには仕事をお休みできたらいいのに。
分厚い本を抱えて司祭の仕事をする両親の背を思い出しながら、少年は密かに思う。彼とてまだ12歳、街の子供達のように両親と遊びたいと思うのは当然だった。
――だめだ、だめだ! 今は僕のやりたいことを見つけに来たんだ!
少年は首を左右に動かし、余計な考えを振り払う。勢いよく立ち上がり、再び木箱のある方へと足を進める。だが。
――衝撃。
突然として、少年の体は爆発のような轟音と振動によって吹き飛ばされた。
「……う」
何が起きたのか分からなかった。ただ、自身は木箱と共に吹き飛ばされて、地面に寝そべっていると言うことだけが理解できた。
「なにが、起きて……」
少年は体を起こそうとするが、どうしてか。体は鉛のように重くなって動かない。数秒を要して上半身を起き上がらせると、パラパラと木屑や土埃が舞う中で、何人かの門兵が倒れている光景が目に入った。その中で、砂埃の膜が薄くなった一点で、見慣れた顔が横たわっていた。
「ジルバトおじさん‼︎」
鉛のような体が嘘のように、少年の体は軽々しく起き上がった。
ジルバトの元へ駆け寄ると、彼の額から首筋を辿るように血が流れていた。まさか、まさか。少年の脳裏には嫌な想像が過ぎる。
「……ゔ、うぅ」
「ジルバトおじさん! おじさん!」
ジルバトの眉間がぴくりと動く。気づけば、目の淵に涙が滲んでいたようだった。少年は目の淵を手で拭った。
「ジルバトおじさん! 大丈夫⁉︎」
「ソルか……お前、怪我は……ないか」
「僕は大丈夫だよ! おじさんの方がひどい怪我じゃないか!」
ジルバトは少年に支えられながら、上半身を起こす。
「はは……お前が無事なら、それでいいんだよ」
肩を寄せて身を小さくする少年の頭を、ジルバトは優しく撫でる。
「ねえ、おじさん。一体なにがあったの?」
「俺も、よく分かっちゃいねぇんだが……急に何かに吹き飛ばされたんだ」
「それって木箱が爆発したってこと?」
「いや、そんなんじゃねえ。ありゃあ――」
ジルバトが言葉を言いかけた時だ。土煙の中から、一つの咆哮が聞こえた。――狼だ。
「くそっ、そういうことか。おいソル! お前は今すぐ――ソル‼︎」
「え――?」
ジルバトは目を見開き、驚愕の表情で少年を見ていた。
――いや、違う。少年は直感で感じた。自身の背後に何かがいると。そしてゆっくり、ゆっくりと頭だけを動かして背後を見た。
土煙の中から、二つの黒い前足が見え隠れする。鋭く尖った白い爪、光沢のある漆黒の毛並み。土煙から聞こえる荒い吐息。それらは全て、目の前の獲物を捉えんとする意思そのものだった。
「なんで、狼が……」
動けなかった。少しでも逃げようという意思を表せば、すぐさま狼が自身を切り裂いてくるのだと悟ってしまった。
「ソル、合図をしたら逃げろ。俺が狼の注意を引きつける」
「だ、だめだよ。そんなの!」
「なあに、何年門兵やってると思ってんだ。獣退治なんざ、星神術者様に頼らずともやってきたんだ」
その言葉に嘘はない。だが、狼や熊の被害から街を守ために何人もの門兵が大怪我を負っているのもまた事実。最悪、死もありうる。
ジルバトが立ち上がると、低い狼の唸り声が臓腑の奥にまで響く。
「星神術が使えなくたってなぁ、戦えんだよ! 人間は‼︎」
駆け出すのと同時に、近くに転がっていた槍を手にとって狼に向かっていく。
「――行け‼︎」
少年はジルバトの声に押されるように駆け出した。
背後では狼の唸り声と、地面が抉れる音と、勇ましい声が聞こえる。
――もし、星神術が使えたら。
脳裏に過ぎる願望。だがそれは願望に過ぎない。星神術はただ星神力を放出する事とはわけが違う。その術一つで状況を一変することができる。だがそれを習得するにはプロの星神術者が何年も、もしくは何十年も研鑽を重ねなけらばならない。最悪、習得できずに一生を終える術者さえいる。だが、それでも。
――この状況を変えられるなら、ジルバトおじさんだって助けられるかもしれない。
時折聞こえる狼の咆哮や、色々な人の叫び声。おそらくは群れでやってきた狼を門兵が対処しているのだ。
だが、それと同時に聞こえる悲鳴。視界の端では赤色の液体と共に地面に伏せる門兵の姿が目に入った。途端に、逃げろと言われた足が止まる。
倒れた門兵のそばに駆け寄ってゆっくりと頭を起こす。額からはおびただしい量の血が流れている。
「しっかり‼︎ 門兵のおじさん‼︎」
必死に呼びかけるが応答はない。こうしている間にも呼吸はか細くなり、体が冷えていく。
「だめだよ。死んじゃだめだ……っ!」
涙が溢れた。今の自分には彼の傷を治す術も、命を繋ぎ止める術もない。自身の無力さを恨んだ。
腕の中で生き絶えていく彼も、血を流して地面に伏している彼らも。いつも自分に温かい笑みを浮かべて「ご子息様」と手を振ってくれる、温かいこの街の人々なのだ。本来なら、母や父の代わりに自分がこの者たちを守らなければならないというのに。
ぎゅっと瞼を閉じた。途端に、溜まっていた涙が頬を伝う。
――どうして、僕はこんなにも弱いんだ……‼︎
再び瞼を開け、門兵を見る。だがすでにその顔は青白く、温もりを失っていた。
「どうして……こんな」
そっと、門兵を地面に伏せる。言いようもない喪失感に苛まれながら、周囲を見渡す。鎧の断片や、木箱の破片、そして――人の死体が転がっている。
一瞬にして起こった悪夢のような光景。土埃の隙間から、狼たちの唸り声が先ほどより大きく聞こえる。
「――ぐああぁっ‼︎」
心臓が大きく鼓動した。臓腑が冷えるような、恐ろしい感覚もした。
――まさか、まさか、まさか。
嫌な予感が脳をよぎった。
「ジルバト、おじさん……?」
振り返った先には、腕を噛まれながらも必死に抵抗するジルバトの姿があった。腕からはドクドクと血が流れていた。
「おじさん‼︎」
空っぽになった頭で、必死に走った。だがその距離は遠く、今にも狼はジルバトに覆い被さりそうだった。
――だめだ! だめだ‼︎
あの光景を、もう二度と繰り返したくはない。そう願っても、この距離が縮まることもない。
必死に手を伸ばす。数十センチの距離が縮まったところで、意味はない。
「うわあああああ‼︎」
意味のない叫びも、虚しく響くだけ。
――どうして! どうして僕の腕は届かない‼︎
苦しげな表情で、狼に抵抗するジルバトの姿がスローモーションで見えた。
届かない腕も、早く走れない足も、無力な自分も――意味はない。この場で意味を成すのは、きっと。
――この世界に神様がいるなら、僕の大切な街を守ってよ‼︎ 僕に、そのための力を……‼︎
伸ばした手は届かない。だが、彼の願いが彼の延長となったら? 伸ばした手の先から、新たな繋ぎが芽生えたとしたら? その掌は願いに届くだろう。そしてきっと、世界はそれを奇跡と呼ぶ。
伸ばした手の先から、温かい光が伸びる。それは瞬きするよりも早く、走る足が地面に着くよりも早く――光は、狼を貫いた。
パラパラと、塵が舞う。一帯の土埃は晴れ、地面は一直線に抉れていた。そして狼は両手足と頭部だけを残して、塵となっていた。
「はっ、はっ……‼︎」
少年はその場に尻餅をついた。手のひらがジンジンと熱い。
「な、なにが起きた……?」
唐突に今まで覆い被さっていた重みがなくなり、ジルバトはよろめく。だが倒れ込むこともなく、その光景を理解できないまま棒立ちしていた。
「……ソル‼︎ お、おい! 大丈夫か⁉︎」
我に帰ったジルバトは、その場に座り込むソルの元に駆け寄った。ソルは尚も変わらぬまま、自身の手のひらを見つめていた。
「おい、どうした! ……って、その傷。お前がやったのか?」
「……え、いや、僕は……」
手のひらを覗き込まれたソルは、咄嗟にその手を閉じる。まるで、いたずらをしてしまった子供のように。
――今の、僕がやったの……?
途端に、自身が恐ろしくなった。地面を抉り、狼の胴体を塵にした。そんな力に目覚めた自分を、彼は……彼らは受け入れてくれるのだろうか。
「――ありがとうなァ‼︎」
温かい抱擁が、彼を包んだ。苦しいくらいに抱きしめられた温もりは、彼にとって心地よいものだった。
「ありがとう、本当に! ありがとう‼︎」
「おじさん……でも、僕」
「お前は俺の命の恩人だ。誰になんと言われようと、それはかわらねぇ!」
もう一度、己の手のひらを見る。やはり、そこには火傷のような跡が残っている。
「やっぱ、お前は義姉さんと兄貴の子供だ! すげぇなあ。本当にすげぇよ‼︎」
抱擁が止み、ジルバトは少年を見た。だが少年はその目を見ることはできなかった。そして今度は震える右手を掴まれ、その大きくゴツゴツとした手で包まれた。
「ソル」
名を呼ばれた。恐る恐る視線を上げると、やはりジルバトと視線が合った。
「大丈夫だ、ソル。大丈夫だ」
瞳に映る自分は、眉根を寄せて暗い顔をしていた。だが彼は自分を慰めるかのように、まっすぐな瞳をしていた。
「お前は優しいやつだ。だからきっと、その力を誰かを傷つけるものにはしないはずだ。大丈夫、お前はその力で俺の命を救ってくれた。それが何よりの証拠だ」
再び、抱きしめられた。温かかった。
「う、うぅ……うあああ!」
涙が溢れた。それは安心感からか、この先の未来への不安からか、分からない。ただそれでも、その温もりを感じている間は大丈夫だと安心できた。
――それから数十分後。騒ぎを聞きつけた近隣の星神術者が狼たちを追い出し、【地の街】の人々の手当てを行った。
負傷者三十二名、死亡者十八名。その被害のほとんどは門兵に留まり、怪我をした一部の庶民はかすり傷などの軽傷であった。これは一重に、命からがら被害を食い止めていた門兵たちのおかげと言えた。
また、掃討された狼は約二十匹ほどいたとされ、どうして狼たちが【地の街】を襲ったのかは判明していない。
数日後、多くの負傷者が運ばれた病院の一室をソルは訪れていた。
「おじさん、もう怪我は大丈夫なの?」
「おう! まだ復帰するなとは言われてるが、長くじっとしてると体が鈍っていけねぇ」
上半身を起こしてベットに座っているジルバトは、左腕を包帯で固定されていた。
「ったく、そんな顔すんなって! 俺はこうして生きてんだからよ!」
「う、うん」
ジルバトは右手でソルの頭を撫でる。その温もりは、やはりあの時と変わらない。
「そういや、あのことは言ったのか? まさか、まだなんてことねぇだろうな?」
「いやあ、それが……」
「――あのこと、とは何のことかしら?」
病室のドアが開く。凛とした優しい声が病室に響く。
「母さん!」
「し、司祭様⁉︎」
扉の向こうから、うねりのある茶髪を腰まで伸ばした女性が入ってきた。彼女こそが、ソルの母であり、この街の司祭を務める――レヴィーナだ。
「あらあら、そんなに慌ててどうしたのかしら。それとも、私には言えないお話でもしていたの?」
「いやあ、それは……ははは」
ジルバトは明後日の方向に視線を逸らす。すると、遅れてもう一人男性が入ってきた。
「おいおい、俺もいるんだけどな」
「おー、兄貴。また老けたか?」
「お前と歳は二つしか変わらないはずだぞ」
「この歳になると、二つってのはだいぶデカいからな!」
ジルバトと他愛もない冗談を言い合うのは、彼の兄でありソルの父でもある、ジルベイヤだ。
「ソル、大丈夫だったか?」
ジルベイヤは愛しむ表情で少年を優しく撫でる。その少年の頬にも、吹き飛んだ際にできた擦り傷による手当てがされていた。
「大丈夫だよ、父さん。ジルバトおじさんが守ってくれたから」
「そうか……すまなかったな、ジルバト」
「いいってことよ。それに、守られたのは俺の方だ」
「……どういうこと?」
彼女は持ってきた花を花瓶に生けると、ジルバトたちの方へ向き直った。
「ソル、見せてやれ」
ジルバトの言葉の直後、ソルは父と母に見せるように自身の左手に巻かれた包帯を外した。
「火傷の後……?」
ジルベイヤは不思議そうに呟く。
「まあ見とけって」
ジルバトが言うように、二人は揃って少年の掌を凝視する。すると、次第に掌から白い光のようなものがふわふわと浮き上がり、発光した。
「これは――!」
その光は数秒留まった後、フッと霧散した。ソルは恐る恐る見上げる。
「おじさが狼に襲われた時、咄嗟に手を伸ばしたら、手のひらが熱くなったんだ。気づいたら狼の胴体が無くなってて、地面も抉れてて……」
「一瞬しか見えなかったが、俺にはソルの手から光が一直線に放出してるように見えた。なあ兄貴、これって……」
「ああ。おそらく、それは――星神力だ」
ジルベイヤは確信した様子で言う。レヴィーナも同様に頷く。
二人の目は真剣だった。それは司祭としての勤めを果たしている時と似た雰囲気があった。
「母さん、父さん。僕……」
突如として発現した強大な力。その使い方すら分からない少年は、自身の行先を案じた。
だが、そんな少年の不安など杞憂であるかのように、両親は少年の方に触れた。
「すごいわね、ソル。その力でジルバトを守ったの? えらいわ」
「ああ。まだ15歳だっていうのに、星神力を扱えるようになるなんてすごいじゃないか!」
「え……?」
柔らかい二人の声音に、少年は肩の荷が降りた気がした。
「きっと、神様があなたの願いを叶えてくれたのね」
「ああ、ソルは優しい子だから」
まるで少年を誇るかのように言い合う二人の様子に、少年は呆気に取られた。
「ソル、あなたはその力をどうしたいの?」
「えっ……」
唐突な質問に、少年は戸惑った。この数日間、この力の正体について考えてきた。だが、その使い道について考えたことはなかった。
星神術者や司祭が、人々の暮らしを豊かにするために使う力の源たる、星神力。それは誰しもが扱えるわけでもなく、人によっては一生扱うこともない。
――そんな力を、僕はどうしたい? 大切な人を、大切な街を守るための力を手に入れた。きっとこのまま星神力を学んでいけば、母さんのような司祭になれる。このまま……このまま。
「母さん、父さん。あのね」
息を吸う。肺に空気が入っていくのを感じる。悩んでいることを打ち明けるというのは、とても勇気のいることだった。
「僕、ずっと考えてたんだ。いろんな世界を見てみたいって……僕のやりたいことを探してみたいって!」
少年はまっすぐな瞳で両親を見た。その瞳には、迷いや戸惑いはなく、ただひたすらの好奇心が宿っていた。
「僕はこの力を、僕のためだけじゃなくて、いろんな人のために使いたい。でも僕はまだ世界を知らないから、まずは知ってみようと思うんだ。そしたらきっと、この力の使い道も……僕のやりたいことも、見つかると思うから!」
少年のまっすぐな言葉に、両親は互いに顔を見つめ合わせた。そして、笑った。ああ、自分の子供はこんな立派に考え、悩み、学んでいたのかと。
「そう、そうなのね。あなたが本当にやりたいと思うことなら、やってみなさい」
「何事も、自分で見て自分で考えるのが一番だ」
――嬉しかった。自分の悩みも、葛藤も無駄ではなかったと、全てが肯定されたような気がした。
「ありがとう……父さん、母さん」
――星歴1056年。齢15歳の少年であるソルが、己の夢を見つけるための運命が始まる。