第9話 面倒くさい人が帰ってきた
あれから何週間か経つ。
私はできる限り目立たないように、静かに学校へ通い、九条さんとも必要最低限しか関わらないようにしていた。
何も考えない。
命令に従い、与えられた役目をこなすだけ。
感情を遠ざけていれば、痛みも曖昧になる。
そう信じて、私は日々を消化していった。
ただ最近は、食事の頻度が増え始めてるのがとても辛い。
この生活ではいつか限界が来てしまう。
これだけはどうにかしたかった。
そんなある放課後のことだった。
いつも通り、誰にも気づかれないように下を向いて帰宅した私は、鍵を回して自宅の玄関を開ける。
――その瞬間。ポケットの中のスマホが震えた。
着信表示に浮かぶ名前を見た途端、私は一瞬だけ目を細める。
『大空 太陽』。
……このタイミングで帰ってきたのか、はぁ……鬱陶しい。
この人は、基本的に電話をかけてこない。
普段の連絡はすべてメール。それがルールのようになっている。
だから、こうして突然かかってくる電話は、必ず“それ”だ。
いたずら。
本当にしょうもない。
今では慣れきった兄の習性。
――けれど、今日の私は、それすら受け流す気力がなかった。
扉を開けたまま、私はただ突っ立っていた。
電話越しに兄の、どこか楽しげな声が響く前に。
「……っ」
パシュッ――
次の瞬間、冷たい衝撃が顔面を包んだ。
白いクリームが目元を覆い、鼻をかすめ、口元にまでべっとりと垂れた。
「……うわ、マジで当たったのか」
階段の上から、呆れたような兄の声が落ちてくる。姿は見えないけれど、声だけで苦笑しているのが分かる。
「なんで避けなかったんだ? 当たると思ってなかったんだが」
私はケーキまみれの顔のまま、じっとその声の方向を見上げた。
「……動くのも億劫だったので」
「ああ」
どこか気の抜けたような声が階段の上から落ちてくる。
それから、きしり、と古びた階段が軋む音がして、足音がゆっくりと近づいてきた。
やがて視界の端に、スリッパの先が映る。
そして数秒後――ようやく、兄が玄関の上がり框に姿を現した。
「久しぶり」
それは、変わらないようでいて、少しだけ違って見えた。
無造作に伸ばした髪が、いつの間にか真っ白に染まっている。
「髪、染めたんですね……」
私がクリームをぬぐいながら問いかけると、兄は軽く肩をすくめて笑った。
「いや、ちょっとした気分転換? こんなんでも俺はモテる」
冗談めかして言いながら、兄は私の顔をちらりと見た。
「にしても避ける元気もないとはな。何かあったのか? 話くらいきくけど?」
「兄さんに話すことなんて何もありませんよ」
「話さなかったら、一花のスマホは没収」
「……何の権利があってそんな」
「だって買い与えたの、俺じゃん」
「…………」
……怠い。
顔を汚されただけで止まらず、この馬鹿に時間を割かないといけないとは。
「……うわ、めっちゃ嫌そうな顔してる」
「えぇ、嫌です。とりあえず兄さんは、妹に悪戯をするという馬鹿すぎる習慣をやめて下さい。もう社会人ですよね」
数年ぶりに帰ってきた兄。
久しぶりに帰ってきたと思ったらこれだ。
中身は昔と何も変わらないクソガキらしい。
「小さい頃はまだ、殴る蹴るエアガンの的にしてくる、なんて行動にも理解できましたが」
「いやいや、それは可愛い妹が虐められないように鍛えてただけだ。元に中学時代役に――」
私は兄に被せるように、割って言葉を入れる。
昔の話なんて特にしたくなかった。
「……いまだに、こんな幼稚な事をするなんて。自分の年齢を思い浮かべてくださいよ。25歳社会人――」
「一花が話を逸らしたいのはよく分かった」
「…………」
「じゃあマジで全部話してもらうとしよう。話さなかったらスマホ没収で」
……あぁもう、なんでコイツは今帰ってきたんだ。
実家に戻ってきて暇で仕方ないくらいなら、帰ってくるな、と言いたい。
まぁでも、最近は本当に精神的に辛かった。
……九条さんと関わるのが。
状況打破とはいかないだろうけど、まぁ相談くらいしても良いかもしれない。
「分かりました。でも私はその前にシャワーしてきます」
「あいよ〜」
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「ってことは何だ。お前、同性にレ◯プされたのか? しかも土砂降りの公園で?」
兄が、突然の核心に踏み込むような言葉を口にした。
その声音には、深刻さなど欠片もなく、ただ面白がるような調子が混じっている。
「はっ……マジかよ! お前、男子だけじゃなくて女子にもモテモテとはな! ははっ、どんだけモテ期来てんだよ」
思わず、私はソファのクッションを投げつけた。
「違います。そんなこと言ってません!」
「言ってるようなもんだろ。隠さなくても分かる」
「違います!!」
「あぁ分かった分かった。別にそんくらい大丈夫だって。俺も男性器の一本や二本、しゃぶった事くらいある」
「…………(絶句)」
私は兄に高校へ入学してから、今までのことを話した。
中学でいじめてきた相手と、同じ高校に入ってしまったこと。
九条さんとの出会いのこと。
そして彼女が人間じゃないことも……
兄は、ふざけた態度を引っ込め、珍しく黙って耳を傾けていた。
「……っていうかさ。お前、それ――ちょっとおかしくね?」
「……何がですか?」
「いや、だからさ。中学の時にお前をいじめてた奴って、あれだろ? 一花が昔、ボッコボコにしたやつじゃん。何で今さら、その手の嫌がらせに黙って耐えてんのかなって、普通に疑問なんだけど」
「……何を言い出すかと思えば。そんなの、当たり前じゃないですか」
私は溜め息混じりに返す。
「もう高校生なんです。暴力で物事を解決するなんて、そんな子供じみた真似、今の私がするわけないでしょう」
言いながら、自分でもその言葉に少しだけ違和感を覚えた。
あの頃――中学の私は、今とはまるで別人だった。
何かといえば難癖をつけてくる相手に手を上げて、黙らせ、
兄に半ば強引に教え込まれた体術を、私はためらいなく使っていた。
そのことで助かったこともあったけれど、当然、後悔もある。
「……あの頃は、兄さんの影響で少し乱暴だっただけです」
というか中学時代含めたこの話題は、正直置いておいて良い話だ。
大事なのはこれじゃない。
「兄さん……私の話をちゃんと聞いてましたよね?」
「聞いてる聞いてる、本当に災難だったな〜。でも俺だって嫌いな奴と、同じ高校に入学した経験あるし」
「そっちの話じゃないです。九条さん……亜人の話です」
「ああ……」
その言葉に、兄の動きがふと止まった。
彼は深く息を吐いて、背中をソファに預けると、天井を見上げた。
まるで、その視線の先に何かがいるかのように。
きっと、亜人の存在を信じてないから、聞き流したのだろう。
妹がイカれたことを喋ってる程度にしか、耳に入れていない。
「やっぱり、私の頭がおかしいと思ってるんですよね?! でも本当なんです!確かに彼女は亜人でした!!」
「分かってるって。その話を今したくないから流したんだよ」
「ほら!またそうやって――」
「いやだから、俺も亜人とは何人か面識あんの」
「…………え?」
兄の声が、ふざけた調子をかなぐり捨てていた。
「それを踏まえて俺からは何も言えないし、アドバイスする事も殆ど出来ない。……下手を言ったら首が物理的に飛ぶ」
そう言って兄は指で首を切るジェスチャーをした。
間違いなく冗談でモノを言っていない。
あの兄が、真面目に何かに対してうんざりしているような声音だった。
「まぁその話は、俺より適任なやつがお前の学校にいる。どうせ気が向いたら一花の方に顔を出すだろうし、もう少しだけこの生活に耐える事だな」
翌朝。
眠気を引きずる体を無理やり動かして、私はいつも通りの時間に家を出た。
玄関を出ると、兄の姿はすでになかった。
「明日は神社へお参りに行ってくる」と言っていた通り、リビングには飲みかけのコーヒーカップが残されているだけだった。
昨夜の話――意味の分からない兄の発言云々。
それについて深く考える余裕は、今の私には無い。
今日もおそらく昼頃か、放課後あたりに九条さんと顔を合わせなければいけないし……
まずは、学校を乗り越えること。
それだけで精一杯なのだから。




