第8話 塗りつぶされそうに...... ☆☆
小さなケーキ皿に乗った苺のショートケーキが、冷えた皿の上でひっそりと甘い香りを放っていた。
「はい、フォーク。ちゃんと持てる?」
九条さんが微笑みながら差し出してくるフォークを、私は無言で受け取る。
けれど、指先に微かに力が入らない。
震える手ではフォークの重さすら不安定で、ケーキを持ち上げたつもりが、ぽとりと皿の端に落としてしまった。
「あ〜あ、やっぱりまだ回復してないよね〜」
「…………」
嫌味じゃない。責めてもいない。
ただ、当然のように残念がる声が、妙に胸をざわつかせる。
「しょうがないなぁ。仕方ないから私が食べさせてあげる」
「嫌です。そんな……屈辱的な真似、絶対に……」
抗議の言葉は最後まで言い切れなかった。
九条さんはすでにケーキの一片をフォークに載せ、私の目の前へと差し出していた。
「はい、お口あ〜ん」
その調子で言われると、もう反論するのも疲れてしまう。
私は観念して、ゆっくりと口を開いた。
……情けない。惨めだ。
けれど、口に入った一口のケーキは驚くほどやさしい味がした。
ふわりとしたスポンジに、冷えた生クリームの甘さが舌の上に広がる。
それは確かに、少しだけ身体の芯をほぐすような感覚をもたらしてくれた。
「どう? 美味しい?」
九条さんは期待を込めた瞳で、私の顔を覗き込んでくる。
「……普通」
「えぇ、素直じゃないなぁ。顔はちょっと嬉しそうなのに」
「……生理的な反応です」
私は顔を背けながら、言葉で繕うように冷たく返した。
なのに彼女は、まったく応えず、緩やかに笑うだけ。
「そろそろ私の“食事"の話をしても良い?」
「……どうぞ、私が食べてる間に話して下さい」
「じゃあ言うんだけど、次は血を貰おうかなって」
「えぇ……それだと前とやってること同じじゃないですか」
てっきり痛みが無い提案をされるものと思っていたけど、結局これに戻るのか。
「やる事は全然違うよ。一花は前回、私の話も聞かずにカッターで切っちゃったけど、効率よく血を吸うには他の方法があるの」
「他の方法ですか?」
「うん。……吸血鬼の王道スタイルって知ってる?首筋を咬んで血を吸うってやつ。このやり方なら多分痛くないと思う。私の本能がそう言ってる」
……なんで本能が判断基準なんだろう。
九条さんの話は時々、要領を得なくて困る。
思わずツッコミたくなるのを堪えながら、私は彼女の言葉を反芻する。
たしかに、毎回自分の手首を切るのは正直しんどい。
前回は勢いと、ちょっとした意地の悪さでやったけど――あれをこの先も繰り返すのは、さすがに現実的じゃない。
というか、普通に出血多量で倒れる。
――そう考えれば、選択肢は一つしかないのかもしれない。
私は静かに息を吸い、テーブル越しにじっと彼女の目を見つめた。
九条さんは、何も言わずににこりと微笑む。その笑顔が、何故かこの場にそぐわないほど無垢で、だからこそ少しだけ怖い。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……分かりました、痛くないのならそれで構いません。さっさとやっちゃってください」
そう言い切った瞬間、自分の声がわずかに震えていたことに気づいて、舌打ちしそうになる。
でも、九条さんはそれに触れなかった。
ただ、静かに立ち上がって私の隣に腰を下ろす。
「ならちょっとだけ、首を傾けてくれる?」
私は言われるままに、無言で首をわずかに露出させるように顔を横に向けた。
冷房でひんやりした空気が、むき出しになった肌に触れるたび、なんだか背中がむず痒くなる。
次の瞬間、九条さんの顔がゆっくりと近づいてくる。
彼女の吐息が肌にかかる距離――そこで、ぴたりと止まった。
「……もしかして怖い?」
「違います。貴女の唇が肩に触れると思うと、ゾッとして嫌なだけです」
「そう」
九条さんは、それを聞いて少しだけ目を細めたあと、ふわりとした声で囁く。
「なら、いくね――」
そして――微かに、歯が肌に触れた。
それは、痛みではなかった。
鋭くもない、熱もない。
ただ、ほんの少しだけひんやりした感触と共に、皮膚の下へと何かが入り込んでくるような、不思議な違和感が生まれる。
「っ……」
息を詰める。
どくん、と心臓が早く脈打った気がした。
九条さんの唇と、肌の接触面に集中するように、じわじわと体温が持っていかれる感覚がある。
まるで、熱が少しずつ溶かされて、吸い取られていくような――そんな奇妙な心地よさと、緊張の混ざった感覚。
「……早く、してください……」
口にした言葉は弱々しく、命令というより懇願に近かった。
やがて、九条さんはそっと口を離す。
指で丁寧に首筋を拭うと、彼女は満足そうに微笑んで――
「……ごちそうさまでした」
その仕草が、やけに綺麗で不気味だった。
そして、ぽつりと問いかけてくる。
「そういえば一花はさ、今のこの状況……私との縁って、切りたい?」
唐突すぎて、反応に詰まる。
なぜこのタイミングでそんな話を?
「……当たり前です。こんな行為を強制されて、貴女といたいなんて思える人間が、いるわけないでしょう」
答える声は低く、乾いていた。
怒りも呆れも、もう出てこない。
ただ、ひたすらに疲れていた。
少しで良いから黙っていて欲しかった。
「へぇ〜……」
九条さんは楽しげに口角を上げると、わずかに身を前へ乗り出してくる。
「じゃあさ、私の顔……一回、叩いてみてよ」
言葉の意味がわからず、私は目を瞬いた。
「……は?」
「一花が本当にそう思ってるなら、きっと殴れるでしょ。全力で。……できたら、もう二度と近づかないって約束してあげる」
その一言で、心の中に電流が走った。
――いま、叩けば終わる。
この女と関わることも、血を吸われることも、無理やり巻き込まれる日々も。
全部、終わるかもしれない。
たとえ冗談だとしても、ここでやらないという選択肢は、断じて無い。
私は、迷わなかった。
条件反射のように、体を動かしていた。
けれど――
腕が、上がらない。
肩から先が重い。力が入らない。
「……っ」
それでも振り上げた手は、まるで子どもが触れるような、かすかな力で彼女の頬に触れただけだった。
叩いたというより、撫でただけ。
自分でも、驚いた。
これはさっきまでの“疲れ”とは違う。
じんわりと筋肉が鈍く、指先がしびれたように反応しない。
「……動かない……」
九条さんがゆっくりと目を細める。
「ごめんね。私の力でどれだけ出来るか試してみたかったの」
「…………」
「でも残念だな〜。一花がそんな反抗的な態度を取ってくると思わなかった!」
彼女は楽しげに、思ってもないだろう事を口にした。
「だから、ご主人様に歯向かう悪い仔猫は――しっかりと躾をしないとね」
そのまま私はソファに押し倒され、上着が静かに剥がされていく。
冷たい空気が素肌に触れ、ぞくりと背筋が震える。
「……何してるんですか……性的な事はしないって…………」
「エッチな事をするわけじゃないよ。これはお仕置きだから、それとも……写真をばら撒かれる方が良い?」
囁かれた瞬間、心臓が一拍飛んだような気がした。
抵抗しようにも、腕も脚もまるで自分のものじゃないみたいに動かない。
彼女は私の背中に手を伸ばし、迷いのない手つきでホックに指をかけた。
「っ……」
かちゃり、と小さな音が響き、留め具はあっさりと外れる。
ゆるんだブラが、体にそっと沿うように滑り落ち、心が羞恥で焼かれていく。
九条さんはゆっくりと私の上に覆いかぶさってきた。
その仕草に迷いはなく、まるで当然のことのように私の視界をすべて埋める。
「今回は……手加減しないから。ちゃんと覚悟しててね」
低く囁かれた言葉が、肌を撫でるように首元へ落ちた。
彼女の顔がさらに近づく。
髪が頬に触れ、吐息が首筋をかすめた瞬間、全身がひやりと緊張で固まる。
「……やめ、て……」
抵抗の声はか細く、空気に吸われていくように消えた。
その直後――さっきとは違った、鋭い痛みが走る。
浅く、しかしはっきりと皮膚を割ってくる感触。
痛みが首元から弾け、次いで温かい液体がじわりと流れ落ちるのが分かる。
胸の奥に残っていたわずかな反抗心すら、そこで一気に削られてしまった。
身体はまだ熱をもっているのに、意識のどこかが静かに冷えていくような……
曖昧に霞む視界の中で、九条さんがそっと歯を引き抜く音だけが、くっきりと響いた。
そのまま耳元に近づいて……
「一花は公園でのこと、覚えてる?」
「…………あんまり。……頭の中に入れておきたくないことなので…………」
「……そうなんだ、それなら仕方ないかもね。私と関係を切りたいって思っちゃうのも」
「…………」
その時、細くしなやかな何かが、足に絡みつく感触が伝わってきた。
おそらく九条さんの尻尾。
冷たく滑らかに足首からゆっくりと這い上がり、私の体を気持ち悪いくらい、ねっとりと撫でていく。
「じゃあもう一度思い出させてあげよっか? 次は忘れちゃわないよう、念入りに体に刻んであげる」
「……っ……ぁぁ……」
脳の奥深くをじわりと撫でられるような、細やかで確かな感触。
彼女の尻尾が、まるで記憶の扉をそっと開けるかのように、私の意識の芯をなぞっていく。
あの日の光景が、鮮明に浮かび上がる。
――凍りついた時間、声にならない叫び、逃げ場のない感覚。
その触れ方は巧妙で、拒もうとすればするほど、深く刻まれてしまうような。
痛みと恐怖と、ほんの少しの甘さが混じり合い、私の心の奥底で絡み合って解けない結び目を作り上げていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私が、悪かったです………………。お願いします……私をこれ以上、おかしくしないでください……」
両腕で顔を隠し、涙を零しながら必死に懇願した。
恐怖が喉元に張りつき、息を吸うことさえ苦しくて、もうこれ以上壊れてしまいそうで――私は、自分を守ろうとした。
変わりたくなかった。
快楽に溺れて、輪郭を失って、誰かの都合のいい形に流されていく――そんな自分にだけは、なりたくなかった。
どれだけ情けなくて、惨めな姿をさらしても……私は私でいることだけは、どうしても諦めたくなくて……
「……泣かせてごめん」
九条さんは、私の首からゆっくりと顔を離した。
唇の端に、赤い雫を一滴だけ残したまま。
何を考えているか分からない微笑みを浮かべると、すっと立ち上がり、ポケットからスマートフォンを取り出す。
ピッ、とシャッター音。
抵抗する間もなく、カメラがこちらを向いていた。
乱れた服、火照った頬、ソファに崩れたままの私。
「でも、忘れちゃダメだよ」
「…………」
「次、関係を切ろうとしたり、どこかに逃げようとしたり……警察に通報しようなんて考えてるのが分かったら、その時は一つの隙間もなく塗りつぶすから」
「…………はい」
九条さんはその後、私に目もくれず、お金を置いてすぐに帰ってしまった。
……もう彼女と、どうやって関わっていけば良いか分からない。
いや、最初から私は利用されるだけの存在。
今までは九条さんの気まぐれで、私の行動が許されていただけで、今日はラインを超えてしまっただけ。
次の失敗は許されない。
これからはもう少し静かに接しよう。
ただ、ものを言わぬ食べ物として。




