第34話 嫌いじゃ......なくなりました ☆☆☆
しんとした空気の中、雪が風に流れていた。
空から落ちてくる白は、やわらかく、触れたら消えてしまいそうなほど儚い。
ある程度、家から距離をとったところで、私達は立ち止まった。
そして、ゆっくり口を開く。
「……その、ちょっと聞いてもらってもいいですか」
小さくうなずいた彼女を横目に見て、私は話し始めた。
最初は、ごく軽い気持ちだったこと。
百合園さんと琴音さんと、何でもない雑談の延長で、女子会のような空気に流されていたこと。
その中で、軽率に、九条さんとの出会いややりとりを口にしてしまったこと。
本当に軽い気持ちだった。
人付き合いの距離感が分からず、その話題がどれほど踏み込んでいたのかも、すぐには気づけなかった。
でも、あれは違った。私が黙っていなければならなかったこと。守らなければならなかった線だった。
今さら遅いと分かっていても、それでも、どうしても伝えたかった。
「……全部、私のせいです。
言うべきじゃないことを、言ってしまった。
本当に……ごめんなさい」
肩を落とし、深く頭を下げる。
この雪の中で、彼女が何も返さなくても仕方がないと思っていた。
けれど、たった一言でも――声が返ってくれば、それで。
「……全部、私のせいです」
頭を下げる。
首筋にかかる雪が、静かに解けていくのがわかった。
「言うべきじゃなかった。本当に、ごめんなさい」
長く、何も返ってこない時間が続く。
その沈黙は冷たい風よりも堪えたけれど、当然の報いだとも思えた。
私は、ほんのわずかに顔を上げ、視線を彼女に向ける。
「頬、叩かれて痛かったですよね。その──気分が晴れるかどうか分かりませんが、代わりに私の頬を思いっきり叩いてもらって大丈夫ですので」
本心だった。
どこかで、自分を罰したい気持ちもあったのかもしれない。
せめて、償える形があるのならと。
九条さんはゆっくりと手を持ち上げた。
私は目を閉じる。緊張で肩に力が入り、指先までこわばる。
これで許されるとは思っていない。ただ、何かが終わる音がする気がした。
けれど、痛みは来なかった。
代わりに、柔らかな温度が頬を包んだ。
びくりと身をすくめて目を開けると、すぐ近くに彼女の顔があった。
両手が、私の頬を包んでいる。
叩くでも、突き放すでもなく、ただ、そっと触れている。
「……一回、頬を叩い事があるからって、私の気分がそれで晴れると思ったの?」
静かな声だった。咎めるようでいて、どこかに疲れも滲んでいる。
「…………ごめんなさい」
声がかすれた。喉の奥がきゅっと締まる感覚。
けれど彼女は手を離さず、むしろそっと、私の顔の角度を変えた。
目と目が、まっすぐ合うように。
逃げ道を断たれるような、けれど不思議と不快ではない強制だった。
「一つ聞きたいんだけど──一花は、私のこと、嫌い?」
その質問に、即答できなかった。
胸の奥に、まだ言葉にならないものが澱のように沈んでいたから。
「……それは」
「二、三ヶ月前は、嫌いって言ってたよね。今は、どう?」
あの頃の記憶が蘇る。
無理やり精を吸われて、写真を撮られて、何度も傷つけられて──嫌わない方がおかしかった。
実際、あのときの私は本気で彼女を憎んでいたと思う。
でも今は。
それでもなお、あのときとは違う感情が、確かに胸の内側に根を張っている。
「…………嫌いじゃ……なくなりました」
ぎこちなく、それでも精一杯の言葉だった。
「そう。……なら、いい」
九条さんの指が少しだけ力を込めて、私の頬を包み直した。
「ねえ、一花。ひとつ提案があるの。もしそれを受けてくれたら──今回のこと、全部水に流してあげる」
「……わかりました。何でも言ってください。今回は完全に、私の責任ですから」
何を求められても、受け入れる覚悟はあった。
それで赦されるのなら。
九条さんは、ほんの少しだけ唇の端を動かした。笑っているようにも見える、けれど何かを押し隠しているような表情だった。
「じゃあ、これから十秒間──目を瞑って。その間、私が何をしても、文句は言わない。いい?」
「……はい。全然、大丈夫です」
十秒。短いようで、果てしなく長い時間。
けれど、それだけで許されるのなら、構わない。
私は静かにまぶたを閉じ、世界が闇に沈む。
視界を遮られたことで、皮膚と空気が触れ合う感覚がやけに鮮明に思える。
時間が止まったような静けさの中、九条さんの気配がすっと近づいてくる。
呼吸の音が耳元で重なり、温かい吐息が頬を撫でた。
そして――唇が触れた。
柔らかな感触が、そっと押し当てられる。
それはまるで、許しを乞うような優しさで、拒絶とは無縁の、慎重すぎるほどの接触だった。
けれど、それはほんの始まりにすぎなかった。
重ねられた唇が、ゆっくりと動く。
静かに、けれど逃げ場をなくすように、ぴたりと密着していく。
唇の隙間がわずかに開き、息が混じる。その流れに乗って、熱を帯びた舌先が迷いなく入り込んできた。
静かに、でも確かに、絡み合う。
濡れた熱が私の意識を溶かしながら、互いの息が混ざり合う。
……それだけで終われば、きっと夢のような一瞬だったのかもしれない。
でも、違った。
唐突に、舌の動きが止まる。
そして次の瞬間――
柔らかな牙が、私の舌の端を優しく、でも確かに挟み込んだ。
「っ……」
痛みというにはあまりにも微細な、けれど明らかに“咬まれた”と分かる感触が、そこにあった。
舌先がわずかに熱くなる。
血が滲んだのかもしれない。
けれど、それ以上に強く刻まれたのは――忘れようのない感覚だった。
まるで言われているようだった。
「この事を、絶対に忘れないで」と。
離れ際、九条さんの唇が、名残惜しそうに私の唇を撫でていく。
頬に添えられた手は、最後まで温かく、そして震えていた。
目を開けたとき、九条さんは何も言わずに私の顔を見ていた。
私はそっと目を開ける。
視界の中で、九条さんがじっと私を見つめていた。
言葉も表情もなく、ただ静かに。
「……どうだった?」
問いかけられた言葉に、私は目を逸らす。
「…………文句、言ったらダメなんですよね?」
「うん」
「……じゃあ、特に言うことはありません」
嘆息まじりに言うと、九条さんはふっと目を細めた。
「一花、すごく美味しかったよ」
「……そうですか。満足していただけたなら、何よりです」
努めて淡々と返す私に、彼女は少しだけ笑みを見せる。
けれどその笑みには、どこか寂しさが滲んでいた。
「……毒も使ってないのに、こんなに美味しいなんて思わなかった」
言葉の端に、思いがけない真実が含まれている気がして――私は言葉を継げなかった。
そして九条さんは、ぽつりと呟く。
「でも……やっぱり、あのことは謝っておくね。結果として、私が一花を襲ったのは事実だから」
「……もういいですよ。それは……仕方のないことですから」
その言葉にどれだけの感情が込められていたのか、私自身も分からない。
ただ、心の奥で何かがじんわりと疼いていた。
許す、というにはあまりにも生々しく、
責める、というにはあまりにも遅すぎる感情だった。




