第26話 クリスマスにするキスは恋の味?!☆☆☆(九条桃音:視点)
翌日。
私は一花の兄、大空太陽さんに連れられ、病院の廊下にいた。
無機質な照明の下、殺菌されたような白い匂いが微かに鼻を刺す。
入院病棟の空気は静かで、私の足音だけが不自然に響いていた。
「なぁやばくね? 俺、あの後メチャクチャ怒られたんだけど。しっかり助けたのにな?」
「……ごめんなさい」
「しかも当主様的には『原因療法をしろ』だってさ!……いや、だったらお前がやれよって話なんよ。どうせあっちは、こうなる事をとっくの昔に予想してたんだからさ」
「…………本当にごめんなさい」
何度謝っても、足りない気がした。
太陽さんは私のことなど気にせず、むしろ飄々と続ける。
「にしても桃音ちゃんは怪我が治るの凄く早いね、見た目の割に傷はって感じだったけど、やっぱり純人間じゃない影響かな〜?」
「そうかも……しれません」
私は昨日、一花とは同じ救急車ではなく、太陽さんの車で病院に運ばれ、治療を受けた。
出血は多かったけれど、浅い傷だったらしい。
すぐに縫合してもらい、今日すぐ診てもらった時も経過は良好だと診断された。
家に戻ったのは夜遅く。
玄関で出迎えた家族は、私の姿を見て硬直していた。
けれど紀玲が手を回してくれたらしく、大事にはならなかった。
ただお父さんとお母さんには、こっぴどく叱られた。
当然だ。全て私の責任なのだから。
そして昼頃――紀玲経由で太陽さんから一花のお見舞いに誘われ、今に至る。
「そういえば一花が寝てる部屋は、どこって言ってたっけ?」
「105号室……です」
「あぁそうだった、そうだった」
足取りが自然と重くなるのを自覚していた。
病院の白い廊下を進むほどに、胸の内側がざわついていく。
一花に……ちゃんと謝らなければならない。
正面から、目を見て。
全部、私が悪かったと伝えなければ。
薄々感じていたことだけど、もし彼女がその気になってしまえば、私は太陽さんや紀玲に処分されてもおかしくない立場だ。
けれどそれ以前に、私は人として謝罪をしなければならない。
頬を打ったこと。
一花が指摘したここ最近の私の態度や、私自身が気づいていない他の悪かった部分も、すべて。
謝って許されるとは思っていない。けれどそれでも。
おそらくこの入院費も一花のお母さんや太陽さんが払うわけではなく、一花が自分で支払うことになるだろうし、それを肩代わりして、金銭で償うつもりはあると伝えなければ。
……だけどやっぱり、彼女に会うのが少しだけ怖かった。
病室の前で立ち止まり、太陽さんはそっと扉に手をかけた。
けれど――
――――――ぷるるっ。
不意に太陽さんのポケットから、スマホのバイブ音が鳴る。
彼はディスプレイを一瞥すると、眉をひそめた。
「……わりぃ、用事できた。ちょっと行ってくるわ」
「えっ?」
あまりに唐突すぎて、声が裏返る。
私は思わず一歩引いて、戸惑いをそのまま口にした。
「……か、関係者がいないと、お見舞いは無理なんじゃ……」
私は助けを求めるように彼を見上げた。
でも太陽さんは、無遠慮な笑みを浮かべたまま、スマホを片手に肩をすくめる。
「知るかよ。妹の見舞いよりこっち優先だわ。顔出すなら勝手にやってくれ」
それだけ言い捨てて、彼は廊下の向こうへと軽い足取りで去っていった。
静寂が戻る。
病室の扉の前には、私ひとりだけが取り残された。
心臓の音が大きくなる。
自分の足音すら響かせたくなくて、息を浅くした。
……私は、盾を失った。
でも、それでも。
一花に謝るためにここへ来たんだ。
震える手で、扉の取っ手に触れる。
その冷たさが、少しだけ意識をはっきりさせた。
ごくり、と唾を飲む。
そして、意を決して――私は病室の扉を開けた。
中に足を踏み入れた瞬間、柔らかい陽射しに包まれた病室が目に入る。
静かな空間に漂う、消毒液のにおい。
一花はベッドに横になっていた。
こちらに視線を向けて、微かに眉を上げる。
「誰も見舞いになんて来ないものと思ってましたが……まさかの九条さんが来るんですね」
落ち着いた声。
だけど、その言葉には明確な棘が含まれている。
「あ、うん。一応、太陽さんも……来ようとしてたけど……なんか用事で、どこかに……」
自分でも情けないと思うくらい、声がかすれる。
そんな私を見て、一花はわずかに目を細めた。
「それで、貴女は何をしにここに来たんですか?」
「えっと……お見舞いと、それから……その……謝りたくて……」
ようやく絞り出した言葉。
震えそうになる声を必死に押さえながら言った。
だけど一花は黙ったまま、こちらを見つめるだけ。
沈黙が、妙に長く感じられた。
そして、ふと彼女の口元がわずかに歪んだ。
――それは笑みだった。
でも、どこか鋭くて、皮肉めいていて、私の胸に突き刺さる。
「へぇ。謝罪、ですか。私には何も心当たりがありませんが」
少しだけ、声に熱が乗る。
「……謝りたいっていうなら、せっかくですし。もっと近くに来てくださいよ。ベッドのそばまで」
そう言われ、私は躊躇いながら一歩、また一歩と彼女のそばへ近づく。
この距離で見る一花は、少し痩せた気がしたけれど、目の奥はまるで燃えているようだった。
「もっと近く。そう、顔の位置が私と同じくらいになるように、屈んでください」
「えっ……?」
戸惑いが口から漏れる。
でも彼女の目は真剣そのもの。
断れなかった。
私は言われるままに、ベッドの前で膝をつき、身体をかがめた。
次の瞬間――
「……っ!? ちょっ――!」
両手が、私の顔を包むようにして伸びてくる。
驚いて言葉が出る前に、一花はそのまま私の頭を固定し――
「っっ~~~~!!??」
ゴンッ!という鈍い音とともに、衝撃が額を直撃した。
――頭突き。
「い、いったぁぁああい!!?」
思わず叫んでしまった。
目の前がジンジンする。涙すらにじむ。
「……謝罪をしに来たと、貴女はそう言いましたよね?」
一花の声が、さっきまでとは違っていた。
明らかに怒気が混じっている。声の底が震えている。
感情が、限界まで抑え込まれていたものが、ついに吹き出したかのように。
「結構なことです! だったらその前にまず、私の文句を全部聞いてください! 今ここで全部ぶちまけてやりますから!! そこに正座して、黙って聞きなさい!!」
「……は、はいぃぃ……」
言い返す余裕など、あるはずもなかった。
痛む頭を押さえながら、私は病室の床に正座し、一花の怒りを受け止めるしかなかった。
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私はそこから1時間以上説教じみた一花の怒りを受け止めた。
最初に槍玉に挙げられたのは、ここ一ヶ月の私の態度。
アレが本当に不快で仕方なかったと指摘された。
そして次に頬打った件や、綾香の人となりを見抜けなかった点。
一花が私を助けに来てくれたけど、そのせいで包丁でお腹を刺された事についても。
これらに対する文句は、思った以上に、重く、鋭かった。
そして怒りの流れは、ついにどうでもいい方向へと流れ込み始める。
「というか、病院食がほんとまずくて! 味薄いし、ごはん固いし! こんなのじゃ回復するものも回復しません!」
「そ、そうだよね……ごめん……?」
「しかも、家じゃないから眠れないんですよ! ナースコールの音とか、夜中に廊下歩く音とか、全部聞こえるんです! 枕も合わないし!!」
もはや完全な八つ当たりだったけど、私は文句ひとつ言えなかった。
何を言われても当然だと思った。痛む額を手で擦りながら、ただひたすら「はい」と「ごめんなさい」を繰り返すしかなかった。
「分かりましたか、九条さん!!」
「はい、本当にごめんなさい……」
「……はぁ。まぁ見舞いに来てくれたという相手に、これ以上文句を言うのもアレなので、ここまでにしておいてあげます」
「ごめん……」
「で、要件はそれだけですか?」
実はあるにはあるけど、流石に怪我人の彼女――それもまぁまぁ機嫌が悪そうに見える一花にこれを言うのは、あまりに忍びなかった。
「何をモジモジしてるんですか。言いたい事があるんだったら早く言ってください」
「うん……その、えっと……」
「早く!して下さい!」
「お腹が空いたから、食事したい……食事をお願いしたいです……」
私はしどろもどろに頼みながら、申し訳なさそうに彼女の様子をうかがった。
そして次の瞬間、一花は思いきり眉をひそめる。
「はぁぁぁああああ!?!? この状態の私にそれを頼むんですか!? ほんっっっっっっとうに……っ」
天井に向かって、思い切りため息。
額に手を当てて、憤りを通り越して呆れているのだと思う。
それでも、しばらくして彼女は静かに目を伏せ、深く一つ息を吐いた。
「分かりました。良いでしょう」
「えっ、本当に良いの!?」
「百合園さんにしっかりやると言い切っちゃいましたからね。とりあえずはつきあってあげますよ」
「ありがとう」
「ただし……」
一花はピシッと片手を前に突き出して、言葉を遮った。
「吸血はダメです。こんな怪我をしたばかりなのに、血なんて渡せるわけないので」
「じゃあ……」
「尻尾も禁止。あれを使われたら、さすがに体が反応して大きく動いてしまいます。もしかしたら傷口が開くかもしれません」
「……それじゃ、どうすればいいの?」
尋ねると、一花はひどく気乗りしない様子で、しぶしぶ口を開いた。
「……キ、キス……して、やっても……いいです」
「なんて?」
「だからっ! キスしてやるって言ってるんですよっ!」
「えぇっ!? いいの!? 本当に!?」
「九条さん的には、それくらいしか効率よく生命力を摂取できないんでしょ? だったら……やってやりますよ」
一花は顔をそむけたまま、身をベッドに預けた。
頬はほんのり赤く、腕は力なく投げ出されている。
「……どうぞ。私の上に乗って、さっさと済ませてください」
あの一花が、キスを許すなんて――
正直、予想の遥か上だった。
けれど、それだけ彼女を追い詰めてしまった証拠でもあり、そう思うと罪悪感も出てくる。
でも彼女の言う通り、効率を求めるならそうするしかない。
私は静かに呼吸を整えて、ゆっくりと姿を変える。
亜人化し、彼女の上に覆いかぶさるようにして、顔を近づけた。
「本当に、いいんだよね? ……一応尻尾のやつよりは、だいぶ効き目の弱い毒を流すつもりだけど……」
私の問いかけに、彼女はわずかに頷きながら、唇の端を固く結ぶ。
「大丈夫なので。私の気が変わらないうちに、早く」
「……じゃあ、いくよ」
その一言のあと、私は顔をさらに近づけ――唇を、重ねた。
最初はほんのわずかな接触だった。
触れたか触れないか、柔らかな皮膚の感覚を確かめ合うように。
一度触れてしまえば、もう引き返せなかった。
私の舌が、静かに唇を割って侵入していく。
一花の唇が一瞬、反射的に閉じようとするけど、それもすぐに解ける。
彼女の舌が戸惑いがちに触れてきたのを感じて、私はそこへ自分の毒を、ほんの少しだけ流し込んだ。
「……ん、ふっ……ぁ……」
わずかに、一花の喉が震え、声が洩れる。
舌の奥から、熱が溢れるような感触が伝わってきた。
そしてそのとき――彼女の脚が、不規則に動こうとした。
毒の作用だ。
私はすぐに尻尾を伸ばし、足首を絡めるように縛った。
さらに両手で彼女の手首を掴み、シーツに押さえつける。
抵抗というほどの力ではなかったが、それでも私は離せなかった。
まるで、壊れ物に触れるように優しく、それでも離さないように。
舌と舌が、息の中で絡み合う。
ぬるりとした熱の交換。
一花の唇は徐々に柔らかくなり、吐息は甘く乱れていく。
喉の奥から洩れる声が、私の耳に届くたびに、胸がざわついた。
「……ん、ふ、ぁ……っ……く、九条……さん……」
耳元でかすれた声を聞いた瞬間、私は思わず動きを止めかけた。
けれど躊躇は一拍だけ。
唇を重ね直し、舌先をそっと絡めて深く吸い寄せる。
――毒ではない、もっとぬくもりの濃い熱を、今は伝えたくなってしまっていた。
呼吸が次第に浅くなり、首筋で互いの息が溶けあう。
苦しさとは違う。胸の奥がじんわり疼くだけだ。
やがて名残を惜しむように唇を離すと、一花の睫毛に微かな涙の粒が光っていた。
見つめながら言葉を探す。
それなのに、喉からは何も出てこない。
――久しぶりに交わした、たった一度のキス。
以前、衝動のまま奪ったそれとは違う。
どうしてだろう、胸が痛むほど苦しいのに、同時にこの上なく満たされている。
淡く濡れた唇が、まだ私の熱を映している。
もう一度触れたい――ただそれだけで鼓動が速くなる。
「……はぁ、はぁ……九条さん……満足、できましたか?」
一花が途切れ途切れに、腕で顔を隠しながら尋ねる。
私は小さく息を整え、正直に頷いた。
「うん。いままでで、一番良かった」
その瞬間、自分の中で何かが決定的に変わったと分かった。
彼女にもう一度キスをせがみたい。もっと求めてほしい。いっそ私だけのものになってほしい――
そんな感情、過去の私が聞けばきっと眉をひそめるだろう感覚。
けれど胸の奥で芽生えた熱はいまさら引き返せない。甘くて、どうしようもなく危うい。
味わってはいけなかった禁忌の果実。
それでも私は、今のキスを境に――どうしようもないほど、一花に恋をしてしまった。
◇
あとがきです。
次回からしばらく大空一花視点。
病院に関する話は10年ほど前に、何度も入退院を繰り返していた頃をもとに書いてるので、知識が正しいか怪しいところです。
とりあえず本当に病院食が不味かったのは覚えています。




