第25話 行儀の悪いお猿さんとサンタクロース
学校から帰り、外が少し暗くなり始めた頃。
キッチンからは、やけに陽気な鼻歌が聞こえていた。
それは何故か。
兄がサンタクロースの格好で、ケーキを作っているからである。
しかも、ただの一台ではない。
台所には、生クリームにまみれたスポンジがすでに三台分ほど並べられていて、
まだ焼き上がっていない生地がオーブンの中で回っていた。
少し不思議な光景だったもので、テレビの前で毛布にくるまったまま、私はぼんやりと兄に質問した。
「そんなにいっぱい作って、1人で全部食べるつもりですか」
「俺一人で食う量じゃないだろこれ。もう少ししたらこれ持って友達の顔に投げに行く予定。サプライズだからな」
「……兄さんの友人達も災難ですね」
「ちなみにお前の分は無い」
「聞いてません」
内心、ほんの少しだけ期待していた分の落胆をこらえる。
すると兄は満足げに頷いて、ふざけた口調で付け足した。
「な〜んて、冗談だよ。試食くらいはさせてやる。ほら、そこ置いといた」
「……はぁ」
テーブルに向かうと、小皿に一切れのケーキが置かれていた。
屑のくせにこういう妙なところで無駄に高い技術力があるのも、兄に集まる人達からすればギャップだったりするのだろうか。
私は椅子に座り、スプーンを手に取る。
そして目の前のケーキを一口すくい、口に運ぼうとしたその瞬間、ポケットの中でスマホが振動した。
「飯食ってる最中にスマホを見るとか、行儀悪すぎだろ」
「今の価値観ではテレビを見ながら食べるのと、そこまで変わらないそうですよ」
――というか、人にケーキをぶつけようとしてる人間が“行儀”を語らないでほしい。
スマホの画面には、九条さんからのメッセージが届いていた。
『今日、待ってるね』
……今日? 待ってる?
何のことだろう。と一瞬考えて――すぐに思い当たる。
もしかして、村上が言っていたあのクリスマスパーティーのことだろうか。
けれど私は行くなんて一言も言っていない。
しっかりと拒否したのだから……とは思うけど、一応、チラッとWowで九条さんの位置を確認する。
すると兄がぬるっと私のスマホを覗き込んできた。
「ありゃりゃ、ここ例の子の家じゃん。化物ちゃんもここにいるみたいだけど、二人でクリスマスパーティーかな〜?」
「そうかも、しれませんね」
本当に村上の家に入ってしまったのか。
……いや、最近は確かに不穏なことが多いとはいえ、村上がすぐに九条さんに手を出すかは分からない。
私が思案に沈んでいると、隣で兄が軽い調子で言った。
「ちなみにビッグニュースで〜す!」
「…………」
「監視から今入った情報によると、化物ちゃんが丁度、男子生徒に囲まれてしまいましたぁ!」
兄はどこかの実況風に大きな声で語る。
私は言葉にならない焦燥感を覚え、息が浅くなる。
「それが事実だとして……その場合、兄さんの出番なんじゃないですか? 九条さんが下手な事をすると兄さん達が困るんですよね?」
口を尖らせてそう言えば、兄は肩をすくめて笑った。
「人ってのはね、痛みを通して学ぶもんなの。これは俺の信条。だから、そこそこヤバくなるまでは出番なしってことで。いやー、仕事しなくて済むに越したことはないよねー」
「…………つまり、兄さんは動く気が無いって事ですね」
「そゆこと! うちのてっぺんもいまめちゃくちゃ忙しいみたいだから、状況は違えどヤバくなるまで動かないかなぁ」
兄の無責任な一言に、私は小さく舌打ちをしてからスマホの画面に視線を戻した。
この兄のことだ、悪質な冗談の可能性は高い。
いや、むしろ意味もなく嘘を吐くのが日常なので、動いたところで無駄足になる予感すらある。
それ以前に、私は九条さんを助けに行く義理などない。
彼女に恩があるわけでも、友人でも家族でもない。
私が彼女と繋がっているのは、弱みを握られているというただ一点のみ。
そもそも彼女は、私の生命力を啜って生きる異形の存在なのだ。
そんな相手を助けに行く理由なんて、どこにある?
「何やってんのお前。ケーキの前でスマホ構えて……イソスタ映えか?」
「ちょっと黙ってて下さい。今、真剣に悩んでるので」
「あっそ、んじゃ俺はケーキ配りに行ってくるから〜!!」
「はい、いってらっしゃい……」
私は深呼吸をひとつ置き、頭の中で自問自答を始める。
――まず、メリットを挙げてみよう。
一つ、九条さんが健在でいれば、私の副収入は継続される。
二つ目、彼女の指導によって、テストの点数が確実に上がる。
三つ目、美味しいご飯が食べられる。特に冬はあったかい味噌汁と煮物が強い。
……だが、そこまでしてわざわざ外出し、他人の家に不法侵入してまで、あの子を助けに行く価値があるか?
冷静に考えれば、ない。
この程度のリターンでは、私の重い腰は上がらない。
ならば、吸収のたびに発生する報酬――生命力の摂取料金を引き上げる案はどうか。
……いや、それもダメだ。
収入が増えても、あの気持ち悪さを経験するだけでむしろ損。できることなら回数を減らしたいくらいだ。
では、彼女に過去一ヶ月の数々の不快行為を謝罪させ、そのうえで冬休み期間中はタダで毎日三食、家事すべてを担当してもらう契約を結ぶというのは……?
――これは、ありだ。
課題さえ終えてしまえば、あとはゴロゴロして過ごせる冬休みが手に入る。
ストーブの前で猫のように丸くなり、鍋とこたつを享受する怠惰な日々。
ギリギリのギリで釣り合っていると、言えなくもない。
……うん、有りだ。
なんて私は現実的で、賢くて、冷静なんだろう。
「よし!……行くとしましょう!」
私は上着を羽織り、さっさと家を出る支度を整える。
実際のところ兄の話が本当なら、誰かしらが動くはずだ。
状況が本当に危険なら、それを管理する団体もあるし――最悪、兄自身が何とかするだろう。
私が動く必要は、本来どこにもない。
けれどこれは、今後の生活の質を上げるための投資。
九条さんに恩を売り、一時的に全ての面倒を押し付けるチャンスであり。
ついでに、あの村上の顔面に正当な理由で一発入れられるかもしれない、という副産物まである。
……そう。だから全て、理に適っている。
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私はスマホで現在地を確認しながら、兄の自転車を無断で借用して街路を走る。
中学校のすぐ隣に村上の家があるのは、以前に聞かされていた通り。
一応、九条さんが途中で移動していないか確認しつつ、ペダルを踏み込む。
やがて、件の家に到着した。
不法侵入の可能性は頭をよぎったが、よく思い出せば、私はクリスマスパーティーに招かれていた。
建前は成立している。問題ない。
鍵は掛かっていなかった。
躊躇せず土足のまま上がり込み、音のする二階へと駆け上がる。
一拍ごとに心音が強くなり、息が少し荒くなる。
ある一室の前に立ち止まる。
扉の向こうから複数の男の声がする。
深呼吸もせず、私はドアノブを捻った。
勢いよく開け放った扉の向こうで、最初に視界に飛び込んできたのは――
九条さんの首根っこを掴み、今まさに部屋から連れ出そうとしている男の姿だった。
兄の話は嘘じゃなく、私の行動は正しかったようだ。
「なっ、誰だおま――ぶっ」
男の台詞が終わるより早く。
私はためらいなく、その腹に真っ直ぐ蹴りを叩き込んだ。
振り抜く衝撃と、崩れる男の呻き声だけが、部屋に響いた。
「どうも皆さん。ご招待に応じて、クリスマスパーティーに参加させていただきました――大空一花です。本日はよろしくお願いします」
蹴り飛ばされた男が呻き声を漏らしながら倒れ込むと、室内にいた他の連中もようやく異変に気づいたらしい。
「っ……なんだテメェ……!」
「誰やねんお前」
声を上げながら詰め寄ってくる。
私は無言のまま身構える。
迷いも、躊躇もなかった。
次に飛びかかってきた男の手首を払い、勢いのまま足払いで崩し、その胸元に爪先を叩き込む。
咄嗟に防御しようとした腕ごと、男の身体が後方へと吹き飛ぶ。
その勢いに他の男たちも顔を引きつらせ、だが止まりはしなかった。
「っの、やんのかオラッ!!」
「ガキのくせに、調子乗ってんじゃねぇぞ!」
声と怒気が交錯するなか、次々と伸びてくる手と腕。
私は一歩も引かず、むしろその流れに乗るように動いた。
肩を掴みに来た男の足を踏みつけ、もう一人が後ろから抱きついてくる前に肘で顎を打ち、続けざまに膝蹴りを喰らわせる。
腰が沈む感覚。相手の肺から空気が漏れる音。
正確に、効率的に。力なんか必要ない。
こいつらの油断と、驚愕が全てを鈍らせている。
私はそれを利用して、ただ、蹴り飛ばす。
けれど――それでも。
見落としていた。
身体が動くほど、視界が狭くなる。
耳に入るのは目の前の足音と、重なり合う呼吸音ばかり。
私の意識は、いつのまにか前方にしか向いていなかった。
だから――それは、完全な死角だった。
「……あんたさぁ。ほんと、調子に乗ってるよね」
背後から聞こえた声に、はっとして振り向く。
その瞬間にはもう遅かった。
ぬるり、と腹部に生温い感覚。
「っ……が……」
体が痙攣する。足元が、抜けるような感覚に陥った。
視線を落とせば、横腹に突き立てられた細い刃。
刃渡りこそ短いが、肌を裂くには十分すぎた。
手元には、無表情のまま包丁を握る村上。
その口元に、微かに笑みすら浮かんでいる。
私は力なく、その場に崩れ落ちた。
「男子が抑えきれないなら、女の私がやるしかないじゃん。勝手に家の中に入ってきて暴力を働いてるんだから、これも正当防衛だよね」
「……何言ってるんですか。……貴方達全員、立派に犯罪者してますよ」
「犯罪者はそっちでしょ。不法侵入者。みんなも何見てるの?黙って見てないで早く大空さんを取り押さえて」
村上はそう言うが、何故か男達は動かない。
私が殴り倒したせいで動けないのか、それとも凶器を取り出した村上に驚いているのか。
空気が、濁った沈黙で満たされていた。
「何やってんのよ! 早くやってってば!!」
二度目の怒声で、男たちがようやく重い腰を上げる。
その手が私の腕を、肩を、強引に締めつけていく。
「……全く、羨ましいですね。その人望は」
「そうでしょ。私はモテモテ、だもんっ!!」
村上は包丁を放り捨てると、その手で私の頬を殴った。
乾いた音が響く。
痛みよりも、どこか現実感の方が強かった。
「えぇ、本当に羨ましいです。どうやったらそこまで良い性格になれるんでしょう。私も村上さんくらい、我儘せずに生きれたら良かったのに」
「それは残念だけど無理ね。だって大空さんがこれから住む場所は――刑務所だもん。私みたいになりたいなら、服役後にでも必死に努力すれば? できるものならね!」
吐き捨てるような声の直後、再び拳が頬に叩き込まれる。
――ああ、ほんと。
どこまでも、救いようがない。
どうしてこの状況で、私が「捕まる」前提なのか。
あの人の中では、自分以外の全員が「悪」か「道具」でしかない。
極端な自己愛に至った人間は、ここまで現実を捻じ曲げて認識できるのか――
やっぱりそう思うと、少し羨ましさもあるかもしれない。
自分勝手に生きることが出来る――許されていると信じ込む事ができているのだから。
私は視線を、床に倒れている九条さんへと移した。
彼女もこちらを見ている。顔は痛みに歪んでいたが、意識はある。
「九条さん……絶対に、死んでも手を出しちゃ駄目ですよ」
弱々しくもはっきりと、私は言った。
「……いち、か……」
「私は全然平気ですから」
もちろん、嘘だ。
お腹に走る痛みは鋭く、確実に深く刺さっている。
体は熱に浮かされているようで、痛みを理性が誤魔化しているだけだ。
殴り合いで高揚ししてしまったこの体が冷めた時、激痛でのたうち回るのが眼に見えている。
「どこ見てんのっ!」
また拳が飛んできた。顔が横に弾かれる。
「……すみません。貴女との会話中でしたね」
「そうだよ。あんたの教育の為にわざわざ私が時間を使ってあげてるんだから、感謝しなさいよっ!」
この場が「教育」だというのなら、どれだけの腐敗がその頭に詰まっているのだろう。
「……私の教育、ですか。それなら、村上さんの方こそ……大丈夫なんですか?」
抑えていたものが堰を切る。
私は、ずっと、ずっと飲み込んでいた言葉を吐いた。
「は?何言ってんの?私は頭も良いし人望も厚くて、なんでも出来るんだけど、大空さんは私に何か足りないって言いたいの?」
「はい、全然足りないですね。もう修復不可能の――お猿さんです。全く本当に、どこの時代から送り込まれてきた類人猿さんですか?」
「…………ッ?!……」
村上の顔が、みるみる紅潮し、怒りに歪んでいく。
そして勢いよく、床に放っていた包丁を拾いにかかった。
「とりあえず、そこで倒れている働き猿と一緒に、山へ帰っ――」
振り上げられた刃を、わずかに頭を逸らして避ける――が、頬に薄く切り傷が走る。
「一言二言返された程度でそれとか……私はまだまだ言い足りないくらいなんですけど」
「もう、本当に許せない!!」
「……そうですか」
「みんな、コイツをこのままここで犯し尽くして!私はそれを撮って、刑務所から出た後、二度と元の顔で社会に出られないようにするから!!」
嗤いながら、叫びながら、村上は本気だった。
もはや狂気の淵に、何の自覚もなく立っている。
「……全く、つくづくお猿さんしてますね。そんなに交尾がしたいなら、自分だけ腰を振ってれば良いのに」
「それが最後の言葉で良いの?」
にじり寄る村上の声に、私はわずかに首を振った。
「…………九条さん、私がどうなっても絶対に動いちゃダメですよ」
私はもう一度、九条さんに念押しをした。
彼女が動いてしまうと、おそらく殺されてしまうのだろうから。
…………はぁ。
それにしても、この状況は家から出るまでに挙げた物だけでは釣り合わない。
こんな事になるなら更に条件を上げて、毎月30万を手に入ると言われても、絶対に断るだろう。
一度、九条さんに犯された身。
男相手に二度目のそれをされる事になるのか。
本当にツイてない人生だ。
男たちが私の服に手をかけ始めたとき、不意にポケットの中でスマホが震えた。
誰からの着信か、自分で確認する術はない。
だが、彼女が反応した。
「ちょっと大空さんのスマホが鳴ってるみたいだから、それ取って」
男は命令されて私のポケットからスマホを抜き取り、村上に手渡した。
「へえ、大空さんってお兄さんいたんだ? どうする? 一秒くらいなら通話、許してあげてもいいけど?」
ふざけた調子の村上の声が、空気を汚す。
でも、私はそれに答えず――代わりに、笑った。
この後に起きる事の全てを察して。
「……ふふ、くふふっ、あっはははは!!」
「な、なに笑ってるの?!とうとう頭がおかしくなちゃった?」
「いえ……すみません。どうやらこの騒動、残念ながら引き分けに終わるみたいですね」
「……は?」
その瞬間だった。
2階の窓ガラスが、炸裂音とともに弾け飛ぶ。
冷たい風とガラスの破片が室内に吹き込み――その中から、サンタクロースの格好をした男が乱入した。
「はい!皆さんメリークリスマス!!良い子のみんなに美味しいケーキを届けにきたよ〜!!」
その声。そのテンション。その恥ずかしいコスチューム。
間違いない。あれは――私の兄だ。
「な、ここ2階だぞ!どうやって来――」
「さっ、サン――」
兄は、私と九条さんには一切目もくれず、
次の瞬間、人間の視認速度を明らかに超えたスピードで、部屋にいる男たち全員の顔にケーキを叩きつけていった。
――――――パァン、パシュッ、グシャッ。
甘ったるいクリームの匂いと、鈍い悲鳴が交錯する。
「丹生込めて作ったケーキだ。美味しく召し上がれ」
彼がそう言ったのを最後に――
私は、すっと糸が切れるように、意識を手放した。
◇
あとがきです。
次回は九条桃音視点、入院した大空一花のお見舞いに行くところから




