第21話 バス代とアイス代......貸してください
「えっ、一花ちゃんとお姉ちゃんって、知り合いだったの〜!?」
琴音が声を跳ねさせ、目をぱちくりさせてこちらを交互に見比べている。
肩口に残った水滴が、滑るように鎖骨をつたっていた。
「……うん、まあ」
九条さんは隣で、少し言いづらそうに言葉をつなぐ。
「紀玲と同じで……その、私のことを助けてくれた人の、ひとり……みたいな」
語尾が曖昧に濁される。
説明する気がないのか、それとも――説明できないほど厄介な関係性なせいか。
どちらにせよ、私は言葉を挟むことをやめた。
沈黙。湯気と水音。
九条さんがゆっくりと琴音に視線を移す。
「……琴音。私はこれから、一花と話したいことがあるの。だから、お母さんたちと先にご飯行ってて」
「えっ……いいな〜、私も一花ちゃんともっと話したいのに〜」
ぷくっと頬を膨らませた琴音。
その横顔に、私は思わず口を開いていた。
「別に、九条さんと話すことなんて――」
「あるよ」
かぶせるように返されたその声と同時に、彼女がスッとスマホを差し出してくる。
画面は真っ黒。
……またこれだ。
ぞくり、と首筋をなぞるような既視感。
私は無言で口を閉ざす。
顔が引きつっていくのが自分でも分かった。
「……わかりました」
トーンは、諦めと、微かな呆れ。
琴音が目を丸くして、私の顔を覗き込んでくる。
「ねえ、なに見せられたの? 一花ちゃん、なんかすごくおとなしくなったんだけど……」
「なにも見てない。なにもなかった。いいですね?」
「えぇ〜……? こわ〜い」
琴音は肩をすくめ、にこにこしながら首をかしげた。
だがその無邪気な表情はすぐに、別の好奇心へと切り替わり……
「じゃあ、やっぱり私も一緒に――」
言葉の途中、九条さんが私の手首をつかんだ。
そのまま、ためらいのない力で引かれる。
湯から引き上げられた体に、外気がひやりとまとわりつく。
濡れた髪の先から、しずくが床に落ちていった。
「琴音。お母さんたちに言っといてねー!」
背中越しに九条さんが呼びかける。
私は振り返ることもできず、ただ黙ってその場を後にした。
「ちょっと待ってよ〜……!」
琴音の声が背後から追いかけてくる。
けれど九条さんは振り向かず、私の手を離すことなく、ロッカーへとまっすぐ歩を進めていた。
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私たちはバーデゾーンを後にして、着替えを済ませると、館内の休憩スペースにあるソフトクリームのカウンター席へ向かった。
涼しい風が吹き抜けるテラス寄りの席に腰を下ろし、私は目の前のガラス越しに並ぶフレーバーを眺めながら、店員にバニラをひとつ注文する。
その横で、九条さんは少しだけ髪をタオルで拭きながら、ぼんやりと外を見ていた。
ふと気になって、私は尋ねる。
「……あの、九条さんたちはなんで、こんな場所に来てるんですか?」
彼女は少し考える素振りを見せたあと、肩をすくめて苦笑する。
「妹がね。『猫がいる温泉に行きたい』って言い出したの」
ぽつりと呆れたような、でもどこか甘やかな口調だった。
受け取ったソフトクリームをひと舐めしながら、私は小さく笑う。
「……妹さん、可愛いんですね」
「ううん、生意気なだけ。でも……思わぬ収穫もあったかも」
「収穫?」
「うん、プールに浸かってる間に、じわじわお腹が膨れてく感覚があってね、あれって――」
「ちょっと待って。そこから先はいいです。私の中の施設のイメージが壊れるので」
「……やっぱり分かるよね」
アレだ。
プールは人から垂れ流される汚れがあり、それが微量ながらも九条さんの栄養源となるわけだ。
まさに脱法。
私はこの事実に、気づきたくなかったかもしれない。
今度からプールに来るのはやめよう……
「もうこの話やめましょう……そういえば九条さんはアイス食べないんですか?」
「え〜、私はいいかなあ。今はそんなにお腹空いてないし」
それはもったいない。
ここのソフトクリームは地元びいき抜きで本当に美味しいのだ。
一口だけでもいいから、味わってほしい。
私はそう思って、少し食べかけたソフトクリームを差し出す。
「どうぞ。すごく美味しいですよ」
九条さんは、ほんの一瞬だけ反応が遅れた。
「……私はいいけど、一花は?」
「?……食べるんだったら早くしてください。溶けちゃうので」
「じゃあ……遠慮なく」
彼女は静かにソフトクリームに口を寄せ、ひと舐め。
その表情がふわりとほどける。
「……おいしい」
目を細めるその笑みに、私もつられて顔の筋肉が緩んでしまう。
けれど彼女はそのまま、一口、また一口と食べ進め――
気づけば、手元のコーンは空になっていた。
「何してるんですか……」
「あはは、ごめんごめん。私がもう一個頼むから」
「いいですって。アイスの一つや二つ、どうってことないですから」
そう言って、私がもう一つ注文しようとしかけた、その時だった。
ふと、時間を確認したくなってスマホに手を伸ばし――そこで気づく。
ない。
スマホがない。財布も。
……着替えのとき、九条さんと話していたせいで、気づかなかった。
兄が、あのまま私物を返さずにどこかへ行ってしまったことを。
「…………」
何故ここに座る前に確認しなかったのか。
言葉を失い、しばらく動けなかった私に、九条さんが不思議そうに声をかける。
「……一花? どうかした?」
視線を落としたまま、私は小さく息を吸って、ゆっくりと顔を上げる。
「……その……あの、ですね」
言い出しにくさが声ににじむ。
唇を少し噛んでから、意を決したように言葉を絞り出した。
「……ほんと、すみません。バス代と……アイス代、貸してください」
「え、えぇ……?」
その後、九条さんに事情を話して、お金を借りることができた。
ついでに「なんでそんな格好してたの?」という質問にも正直に答え、話しているうちに彼女はおかしそうに笑って、「じゃあ一緒に帰ろっか」と言ってくれた。
私たちは連れ立ってバス停へ向かい、帰り道にマ○クに寄って、軽く昼食も済ませる。
なんてことない午後。
けれど、妙に印象に残る一日だった。
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季節が、少しずつ深まっていく。
朝の空気は刺すように冷たく、吐く息は白く染まった。
気づけば、校舎の窓ガラスも薄く曇りはじめていて、指先でなぞれば線が描けそうだ。
雪が降ったのは、昨日のこと。
校庭の端にうっすらと残った白が、陽の光を鈍く反射している。
そんな日々のなかで、なんとなく――九条さんのことが気にかかっていた。
明確な理由があるわけじゃない。
体調を崩している様子も、特別な変化も、表面上は見えない。
それでも、ふとした瞬間に感じる、ほんの小さな“違和感”が拭えない。
朝、廊下ですれ違ったとき。
彼女は顔を上げず、私に気づいた気配すらなく。
授業中、偶然目が合ったと思っても――その瞳は焦点が合っていないようで、まるで私を通り越して、どこか遠くを見ているようだった。
昼休み、村上たちと教室を出ていく彼女の横顔。
ほんの一瞬だけ、青白く見えた顔色が頭に焼きついて離れない。
決定的な何かがあったわけじゃない。
けれど、日が経つごとにそれは積み重なっていって、彼女の背中が前よりもずっと遠く感じる瞬間が、少しずつ増えていた。
――いつからだっただろう。
いや、ちゃんと覚えている。
はじまりは、あの土曜日。
偶然、校内のプールで出会った日。その翌週からだ。
プールでの彼女は、驚くほど自然体だった。
だから余計に、あの後に何かがあったのかもしれないと考えてしまう。
次の日曜日に、彼女の身に何かが起きたのか。
それとも、私が知らないところで、もっと前から何かが進行していたのか。
雪の降る季節だからかもしれない。
彼女の輪郭が、どこか薄れて見えるのは――
◇
あとがきです。
ちなみにスマホと財布は無事にこの後戻ってきます。
次回はシリアス回です。




