第20話 猫に触りたい少女
車がアスファルトの上で揺れを止めた。
視界の正面には、真新しい木目調の看板――《大原野ヴァンディ》と金色の立体文字。
……勘違いでなければ、家からかなりの近所にある施設だ。
私は無言でドアを開け、兄の友人たちに続いて車を降りる。
そして、ひときわ浮かれた様子でアロハシャツに短パン姿の兄に歩み寄った。
「私のスマホは?」
「ある」
「財布は?」
「ある〜」
「だったら今すぐそれを返してください。私はバスで帰ります」
「だめーーっ!」
即答。それも笑顔で。
思わず舌打ちが漏れた。かなり大きめに。
……この馬鹿兄。
本当に一回くらい、死んだ方が良いのかもしれない。
「太陽くん、私たち先に受付行ってるね〜」
「おっけー!」
兄の友人たちは空気を読んだようで、さっさと建物の中へ消えていく。
残されたのは、私とこの軽薄な男だけ。
「…………」
「おいおい、怠いってー。俺達も行こうぜ」
「で、いつ返してくれるんですか? スマホと財布」
「うーん、そうだなあ……お前もプールに浸かったら返してやるよ。スマホと財布は友達に預けてあるし」
「………………はぁ」
無性に大きなため息が出た。
深く、長く、地面に沈んでいきそうなくらい。
「水着代と入場料は、兄さんが払ってくれるんですよね?」
「ま、そんくらいはね〜」
……もう。なんなんだこの人は。
イライラは募る一方だが、私が今ここでゴネても、兄だけでなく、友人たちにまで迷惑がかかる。
どうせ着いてしまったのだし、プールなんて久しぶり。
最後にこの場所に来たのは、何年も前の夏。
家族全員で来たとき以来だ。
家に籠もってばかりの生活。
たまの休みに、こういう場所で気を抜くのも悪くない――そう思うことにした。
「……分かりました。さっさと行きましょう」
「うぃー!!!」
うるさい。
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受付で兄が代金を支払い、水着とタオルを一式そろえてロッカールームへ。
手際よく着替えを済ませ、私は一人でプールエリアを抜け、バーデゾーンへと足を運んだ。
施設の構造は変わっていない。
流れるプールにスライダー、子ども用の浅い水場。
それらを横目に、落ち着いた雰囲気の温泉ゾーンへ向かう。
土曜の昼間とはいえ閑散期。
やっぱり夏と比べれば、人はそんなに多くなかった。
静かに湯に身を沈める。
柔らかな浮力が、背中を優しく支えてくれる。
仰向けの姿勢で、寝湯に体を預けると、天井の間接照明が白くぼやけて見えた。
「……ふぅ……」
自然と息が漏れた。
身体から抜け出ていく緊張が、湯けむりに溶けていくのを感じる。
遠くから、兄たちの声が聞こえる。
「うぇーい!」とか、「やばくね!?」とか、しょうもない雄叫びが反響して届いてくる。
耳障りではあるが、距離があるぶん実害はない。
――が、流石に年齢に見合った振る舞いをしてほしかった。
久しぶりの温水。
じんわりと全身が温まっていく。
肩から力が抜けて、まぶたが少しずつ重くなる。
もう、こうしてずっと寝ていたい。
そんな考えが浮かんで消えかけた頃、不意に。
ずし、と頭に何か重みが乗った。
「……?」
眉をひそめて、首をすくめる。
天井を見上げる目線のまま、違和感を確かめようと両手を動かす。
指先に触れたのは、ふわりとした毛。
丸みのある胴体。
思わず両手でしっかりと抱き上げてみると、それは――
「にゃ〜」
――猫だった。
「……え?」
私の胸元で、黒と白の毛が混じった猫がゆるく丸くなって、のんびりと瞬きをしている。
温泉の湯気の中で、猫と目が合った。
全く意味が分からない。
ここ、温泉施設だったはずでは……?
ぽかんとしたまま固まっていると、すぐ隣から声がした。
「いいなぁ、猫ちゃん」
のんびりとした声。
顔を向けると、私と同じくらいの年に見える女の子が湯に浸かりながら、こちらを見ていた。
見知らぬ子だった。
「もしかして、貴女が連れてきた猫ですか?」
「ちがうよ〜。たしか、この施設で飼ってる猫だって、どっかに書いてあった気がする」
「……ああ、そういえば」
そう言われて、うっすらと思い出す。
受付の横にいた張り紙に、「猫がいます」とか「何匹かいる」とか書いてあったような、なかったような……
とはいえ、このエリアに普通に入ってくるのはどう考えても危ない。
私は抱えていた猫を、水のかからない場所にそっと下ろした。
だが猫はすぐに跳ね戻り、ぴょんと私の頭の上に乗ってくる。
「……邪魔ですね。どこかへ行ってくれませんか」
「ふふ、いいなぁ。ねぇ、触っていい?」
「私の猫じゃないので、どうぞ……」
彼女が手を伸ばしかけた瞬間――
「にゃあああ!!」
猫がまるで全力で拒否するかのような声を上げた。
「えーっ、だめなのぉ?それはちょっとひどい……」
「……はぁ」
癒されに来たはずの温泉で、なぜか猫が私の上でリラックスしているせいで、こちらは一向に落ち着けない。
とはいえ、動物に触れる機会なんてめったに無いし……今日くらいは、我慢してやってもいい。
私は頭の上に猫を乗せたまま、深く前を向いて息をついた。
そのタイミングで、再び彼女が話しかけてくる。
「そういえば、君のこと見かけたことないけど……どこの小学――中学、なの?」
……ん?
今、さらっと、かなりの歳下と勘違いされなかっただろうか。
私、高校生なんだけど。
というか……
「……学校の話はやめてください。久々の非日常を満喫してるんです」
「あっ、ごめん」
「…………」
話題を振ってくれたのに、ピシャリと返してしまったのは、さすがに感じが悪かったか。
気まずい空気が漂う。
普段なら気まずさからすぐ席を立つけど、今日は猫が頭に居座っていて、それもできない。
……仕方ない。
私から話しかけるか。
「学校の話はしませんが……少しだけ、愚痴を聞いてもらってもいいですか?」
「いいよ〜。面白い愚痴なら特に!」
「面白いかは分かりませんけど……私が今日ここに来たのには理由があってですね、朝起きたら兄の車に無理やり乗せられていて……」
そうして私は、兄への恨み言をたっぷり吐き出す。
彼女の名前は琴音というらしく、彼女も姉に対する愚痴をこぼし始めた。
気がつけば、お互いの家庭内ストレスをぶつけ合う、愚痴の応酬大会になっていた。
どうやら、どこの家でも兄弟姉妹への不満は尽きないようだ。
---
時間がどれくらい過ぎたころか、私の頭の上から猫がふいに飛び降りて、どこかへ駆けていった。
「あ、猫ちゃんいなくなっちゃった」
「う〜ん、お腹でも空いたのかも――ごぼっ!?!」
突然、猫の比じゃない重量が頭にのしかかってきた。
そのまま耐えきれず、体が湯の中に沈む。
おそらく、兄の足だ。
慌ててその足を掴んで、力いっぱい払いのける。
「ちょっと!何するんですか、兄さん!!」
「お前、いつまで湯に浸かってんだよ。飯行くぞ!」
視線を向けると、兄はすでに水着から服に着替え、やる気満々の顔をしていた。
どうやら、プールには飽きたらしい。
時計を見ると、まだ十一時二十分。
昼食には少し早い。
「貴方のせいで、琴音がドン引きしてるじゃないですか!」
「他人の顔なんてどうでもいいっつうの。さっさと着替えてくれ。んで昼飯終わった後はカラオケ、次がボーリング、最後に焼肉に行って帰宅だ」
……うわぁ。
土曜日という休日が、この馬鹿のせいでまるまる消えそうだ。
流石にそこまで付き合う気にはなれない。
「行きませんよ。家も近いですし、私だけバスで帰ります」
「ったく、仕方ない妹だなぁ」
「それはこっちの台詞ですよ……」
「じゃあ友達にスマホと財布を、一花の服の中に差し込んどくよう言っとくから〜!」
それだけ言い残して、兄は湯気の向こうに消えていった。
「……一花ちゃんのお兄さんって、本当にヤバい人なんだね」
「『ヤバい』って言葉、ぬるま湯みたいに聞こえるのがとても悲しいですね……」
はぁ、と肩の力を抜いたそのとき――
「琴音〜。お母さんたちがご飯食べに行こって〜!」
呼びかける声と共に、別の誰かの足音が近づいてきた。
「貴女も呼ばれてるみたいですね」
「うん……」
琴音は湯から立ち上がる。
体を軽く拭いて、手を振る。
「また、縁があったら会おうね。一花ちゃん」
「はい。こちらこそ」
そう言って去っていこうとした琴音が、なぜか再び立ち止まり、連れの人物と共にこちらへ戻ってきた。
誰かと思って顔を上げた瞬間、私は目を見開いた。
「あれ……もしかして、一花?」
「え、えぇ……?」
そこに立っていたのは――九条さんだった。




