第2話 私は知らないふりをしたい
目が覚めた時には、もう夜。
雨はすでに止んでいて、路面には街灯の淡い光が滲んでいる。
見上げた先にあるのは、どこか懐かしい木の庇——バス停だ。
どうやら私は、ベンチで眠っていたらしい。
どうして、こんな場所で……?
いや、それよりも……
「うわああああああああああっ!!」
――思い出した瞬間、胸の奥から叫びがこみ上げた。
体が勝手に跳ね起きた。
胸の奥がひっくり返るような不快感に突き動かされて、頭を抱えたまま、じたばたと足を動かす。
「なんで、あんなことに……っ!」
否定したくても脳裏に焼き付いた映像は薄れず、じわりと下腹に熱が灯る。
その感覚が、たまらなく気持ち悪かった。
自分の体じゃないみたいで、どうしようもなく、怖くて、吐き気すらする。
記憶は朧げなのに、あの情事の断片だけが糸のように絡みついて離れない。
もしかして夢だったんじゃないか。そんなふうに思いたくなる。
…………そうだ、あれは夢だった……!
じゃないとおかしい。
だって私の目に間違えがなければ、あの人は亜人族だった。
教えられた歴史では、亜人なんて紀元前より前に絶滅したとされている。
確たる記録すらなく、いまでは空想の生き物扱いのはずだ。
そんな存在が、なぜ私の目の前に現れた? よりによって、あんな形で?!
「……ほんっっとうに、ありえない……! あれは、全部夢!!」
現実を打ち消すように声を張り上げ、自分に言い聞かせるように私は立ち上がる。
夢だったんだと、無理やり信じようとして。
念のため、ベンチに何か忘れていないかだけ確かめて――
「あれ……?」
すぐ隣、私が寝ていた場所に、白い封筒が落ちていた。
ぺたんと無造作に置かれたそれを、つい反射的に拾い上げる。
封筒の表には、整った筆跡で一言。
『一花へ』
「えっ……私、宛……?」
ぎこちなく封を開けてみると、出てきたのは札が数枚。
「……えっと、千円札がご――ッ?!ご、五万円?!?!」
こ、これは本当に私宛なのだろうか?
さっき見た夢に続き、本当に色々と怖くなってくる。
もしかしたら、私はまだ夢の中なのかもしれない。
現実感が薄いまま、封筒の中をもう一度覗き込む。
すると、札の下に隠れていた小さな紙片が目に入った。
丁寧に折られているそれを、震える指先でそっと広げて読む。
――『ごめんなさい。桃音より』
視線が、その名前に釘付けになった瞬間。
脳裏に、あの夜の記憶が奔流のように押し寄せてくる。
音、匂い、感触――思い出したくもない情景が、色彩を持って蘇った。
「っ……!」
胸の奥がひっくり返る。
息が詰まり、胃が逆流するような感覚。
思考が現実に留まっていられず、体が勝手に動いた。
私は封筒を落とし、足元をふらつかせながらバス停の外れにある草むらへ駆け出した。
しゃがみ込んだ瞬間、込み上げてきたものを抑えきれず、吐き出す。
「夢じゃ……なかった……」
……体に刻まれたあの感覚は、全て現実。
こんな紙切れさえなければ、全部無かった事にできたのに。
……彼女の名前は分かっている。――九条 桃音。
すぐ警察に通報してしまえば、それで終わりなのだろう。
だけど封筒の中には、馬鹿みたいな額のお金が入ってた。
五万。
高校一年生の私には、あまりに嬉しすぎる収入だ。
これをそのまま頂いて且つ、警察に突き出す事もできるが、それは流石に気が引ける。
………………同性と、なんて。
本来なら考えただけで吐き気がするほど、あり得ないことのはずなのに。
それでも。
正直に言えば――あの瞬間、私は確かに「気持ちよかった」と思ってしまった。
……人生で一番。
なら。
「…………よし、忘れよう!」
あの女には二度と近づかない。
姿を見たら、すぐ逃げる。
関わらなければ、それで終わる。
――今回のことも、全部なかったことにできるはず。
自分にそう言い聞かせながら、私はゆっくりと歩き出した。
湿った風にシャツの裾が揺れる。
その感触さえ、どこか他人事のようだった。
気づけば、“死にたい”と思っていた理由も、どこか遠くに霞んでいて。
……あの夜の、熱と混乱に、脳のどこかが塗りつぶされてしまったようだ。
---
昨日は始業式で、つい二日前までは夏休みだった。
そして今日から、いつもの退屈な授業が始まる。
……例の女の子に自殺を止められて、色々とされてしまったせいで、そんなことすっかり忘れていたけど。
気づけば、時間はもう登校の刻限。
靴を履く頃には、歩道橋のあの時と同じ、どこか空っぽな気分に戻っていた。
「……行ってきます」
誰もいない家に、小さく呟く。
返事のない沈黙が、玄関に染み込んでいた。
私は、重い足取りで学校へ向かった。
下を向いて歩いていると、いつの間にか学校に着いていた。
生徒たちの笑い声や雑談が、門の先からこぼれてくる。
その輪に入る気にはなれず、私は人並みに背を向けるようにして、そっと昇降口へ入った。
靴箱には、すでに誰かの上履きが詰め込まれている。
もちろん、私のものではない。
だからといって、誰かが入れ間違えたなんて、期待してはいけない。
乱雑に押し込まれた白いそれを、無言で床に落とし、自分の上履きを取り出す。
教室に近づくにつれ、胃の奥が冷たくなっていく。
どうせ、また何かされてる。
そう思いながら扉を開けたその瞬間──
「あっ、来た」
ひそひそ声が飛ぶ。
笑い声に混じるのは、視線と嘲り。
私の席に目をやると、机の中から紙くずや菓子の袋がはみ出していた。
椅子の背には、何かよく分からない大きなキャラクターのシールも貼られている。
……全く。
よくもまぁ反応の薄い人間相手に、飽きもせずここまでやるものだ。
逆に感心する、あまりに醜い人間性に。
私は何も言わず、ただ机の中身をそっと拾い集めて、ゴミ箱へと運ぶ。
淡々と。音を立てないように。
昨日はこうなるのが嫌で、橋から飛び降りようとした。
でも数日も経てば、これにもまた慣れてくるのだろう。
それが変わらない日常というものだ。
そして机を綺麗にし終えたと同時に、教室の扉が再び開いて、担任が入ってきた。
「はいはい、席に着いてー」
担任の男の声に、クラスが一斉に振り返る。
「えー? まだチャイム鳴ってないし」
「あと数分あるんじゃないの?」
不満の声がいくつか上がるが、先生は手をひらひらと振って無視する。
「昨日伝えた通り、今日からこの学年に転校生が二人来る。そのうちの一人が、このクラスに入る事になった」
その一言で、空気が揺れた。
「え、マジ?」「誰だろー」「イケメン?」「女子?男子?」
興味と好奇心に火がついたように、教室がざわつき始める。
それはさっきまで私に向けられていた視線が、逸れた瞬間だった。
確かに転校生が入ってくるという話は、昨日先生が言っていた気がする。
まさか、うちのクラスだとは思わなかったが。
どうせ暫くは転校生の話題で持ちきりだろう。
そのままみんなが、私の存在を忘れてしまえば良い。
「はいはい、静かにー。入ってきてもらうぞー」
先生の言葉に、教室のざわつきがピタリと止まる。
まるで舞台の幕が開く直前のように、全員が一斉に入り口へと視線を向けた。
その静けさの中、廊下から小さな足音が近づいてくる。
コツ、コツ、と床を打つリズム。
やがて、その音がすぐ向こう側で止まった。
そして──教室の扉が、静かに開く。
扉の向こうに立っていたのは、桜色の髪の少女だった。
光を受けてやわらかく揺れるその髪は、現実感がなくて、まるで絵本の中から抜け出してきたみたい。
整った制服と、まっすぐした姿勢。どこか浮世離れした雰囲気をまとっていて、思わず見とれてしまった。
教室中から小さな感嘆の声が漏れる。
「……キレイ……」「うわ、髪色やば……」「あれって地毛?」
だけど私はその子の顔を見た瞬間に、全身の血の気が引いた。
嘘……もしくは幻覚を見ているのだと思いたい。
昨日、橋の上で私を止め、そのあと私の体を好き勝手に弄び、謝罪とともに金を押しつけてきた――あの女。
何より頬に貼られた絆創膏が、記憶をはっきりと裏付ける。
その傷は、私が最後に抵抗した時につけたものだ。
私は咄嗟に視線を逸らし、顔を両手で覆った。
目の奥が熱い。
吐き気がする。
なんで? どうして彼女が、よりによってこの教室に?
逃げ場のない悪夢の続きが、現実として迫ってくる。
「はじめまして。九条桃音です。いろいろ事情があって、転校してきました」
透き通るような落ち着いた声。
堂々とした物言いに、誰もが魅了されたように耳を傾けている。
「慣れないことも多いと思うけど……これから、よろしく」
教室がわずかにどよめき、拍手が起こる。
「かわいい」「声が好き」「モデルかよ」
そんな声が飛び交うなか、私は机に顔を伏せたまま、じっと息を殺していた。
あの子と目が合えば、何かが壊れてしまいそうで――
……いや、とっくに壊されているかもしれないが。
もうこうなったら、お互いに知らないフリを通せば勝ちだ。
そう神様に願うしかない。
「じゃあ、九条の席は……あそこの一番後ろ、廊下側だ」
先生の声に、空気がまたひとつ動く。
その場を離れた桃音の足音が、私の席の横を通っていく。
机の木目に目を落としながら、私は小さく肩をすくめた。
鼓動の音ばかりが耳について、教室のざわめきはどこか遠く感じる。
九条さんの席は廊下側、一番後ろ。
私の席は窓際の中段。
……距離がある。
唯一の救いはそれだけかもしれない。
その日一日、私は自分の影を消す事だけを意識していた。
とりあえず、目立つような事はしない。
人目を引くような事をしなければ、こっちにヘイトが向くような事はない。
だって今一番注目されているのは、九条桃音さんなのだから。
まぁでも、やっぱり思うところは多々ある。
昨日、公園で強引に押し倒し、欲の限りに私の体を貪った相手が、たまたま同じ学校の同じクラスに転校生として現れた。
……いや、きっと偶然なのだろうけど、こんなのはあまりにふざけている。
もし世界で一番不幸な高校生を挙げるなら、今この瞬間の私のことだろう……
なんて考えながら、私は今日をなんとか無事に終えることだけを祈っていた。
そして放課後。
クラスメイトたちはそれぞれに帰り支度をはじめ、
九条桃音も、あっという間にカースト上位の女子たちの輪に入り込んでいた。
「九条さん、プリ入らない?」「えー!あたしもー」「カフェ寄ってかない?」
弾けるような声、笑い声。
その間に私は一人で、グループで交代制の掃除をこなす。
もちろん、みんなに文句を言ったりはしない。
ここで口を出してしまえば、薄れ始めている私の影が、濃さを取り戻してしまう。
掃除をするだけで、九条さんとその他クラスの上位組が私を忘れてくれるのなら、3年間この状態が続いたって良い。
掃除を終えた頃には、もう外は昨日と同じくらい大雨。
傘は、ない。
朝の時点で雨の予報なんてなかった。
……不幸はまだ続くらしい。
靴を履き替えて、昇降口のガラス扉の前に立つ。
グラウンドの向こうは、白い霧がうっすらとかかっていて、校門の姿はぼやけている。
時間はもうすぐ五時。放課後のざわめきはもうどこにも残っていない。
どうしよう。
このまま濡れて帰るか、それとも少しだけ雨宿りをするか。
……そういえば昨日は帰るのが遅かったから、まだ制服の洗濯を出来ていなかった。
シャツはともかく、スカートの替えはこれ以上ない。
こう考えると、待つという選択肢しか無いだろう。
天気予報に雨予報が無かったということは、多分突発的なものだろうし。
私は昇降口脇のベンチに腰を下ろし、濡れた靴先をぼんやりと見つめた。
掃除用の雑巾を絞るときに濡れたのか、靴下のつま先もじんわりと冷たい。
不意に、小さな足音が雨音に混ざり、向こうから近づいてくるのが聞こえた。
私は思わず顔を上げて、ガラス越しに視線を凝らす。
校門のほうから、ひとつの影がこちらに向かって歩いていた。
白い霧にぼやけた輪郭。黒い傘。
ゆっくりと、でも迷いのない足取りで。
最初は誰かなんて分からず、教室に忘れ物をした誰かだろう――程度に考えていた。
やがて、その人影は足を止め、わずかに傘を傾けた。
霧の切れ間に、ちらりと覗いた顔。
──九条桃音。
その瞬間、胸の奥が凍りつくような感覚に襲われた。
「――――――ッ!?――」
今、確かに目が合った。
向こうの視線が、まっすぐ私を射抜いている。
絶対にそうだ。
間違いない。
逃げなければいけない――。
その考えが脳を駆け巡った瞬間、私は反射のように踵を返した。
靴箱に外履きを押し込むと同時に、足が勝手に動いていた。
誰もいない校舎へ、音を立てながら駆け戻る。
とにかくどこでもいい。誰もいない、扉のある場所。
心臓がうるさいくらいに脈打ち、息が喉で擦れる。
無意識に選んだのは、三年生の教室。
いつも空いている、端の教室だった。
ドアを開け、乱暴に閉めた。
そして、視線を走らせる。
隠れられる場所、隠れられる場所――。
目に飛び込んできたのは、教卓の下だった。
迷う間もなく身をかがめて、教卓の内側に滑り込む。
木の板に背中を預け、膝を抱えて身を縮める。
呼吸を殺す。
……心臓の音がうるさい。うるさい! うるさい……!
……ここなら、見つからない。
見つかるわけがない。
でも、万が一見つかったら――。
ああもう!
頭が壊れてしまいそう……!
「……こんなところで、何をしてるのかな?」
耳元で落ちるような、静かで甘やかな声。
瞬間、肺が強く押し潰されたように息が詰まった。
ゆっくりと横を向くと、九条さんが中を覗き込んでいた。