第19話 行くぞ!プールに!!!
「な、な、何してくれてるんですか?!?!貴女は!!!」
あまりの出来事に声が裏返ってしまった。
私は九条さんの腕を掴み、弾かれるように下足室へと進む。
お互いに学校用のローファーを脱ぎ、急いで外履きに履き替えると、誰にも気づかれぬよう、肩をすぼめるようにして玄関を飛び出した。
人気のない通りに出たところで、私達は立ち止まる。
吐き出すような息と一緒に、九条さんの肩を掴み、その体を壁に押しつけた。
「学校でこんな馬鹿な事をするなんて、説貴女はふざけるてるんですか!?!」
喉が熱い。
怒っている。驚いている。
恥ずかしさと焦りと、心臓の早鐘が全てを上書きしている。
「そんなテンパらなくても良いじゃん。ちょっとケーキをひとつまみする程度の補給だよ?」
「ここは学校ですよ!?せめて事前に言ってください!……それに叫んじゃったじゃないですか!誰か先生にでも見られてたりしたら、明日、怒られちゃうじゃないですか、私!」
「ごめんって。怒られそうになったら、私の名前を出しても良いから」
壁に押しつけられているくせに、九条さんはまるで気にした風もなく、にやりと笑って言った。
まるで、悪戯に成功して上機嫌な子どものような笑顔で。
「全く。九条さんは亜人化してないと、私に力負けするということを、覚えておいた方が良いですよ」
「そんな……殴り合いの喧嘩を一花としたりしないし……」
……一体なんなのか、この人は。
久しぶりに待ち伏せなんて、気持ち悪いことをされた気がする。
本当に心臓に悪い。
……まぁ、いつまでイライラしててもアレだし、この件は一旦流そう。
「……もういいです。この話」
私が彼女から手を離すと、九条さんは肩を竦めて笑った。
ふたり並んで歩き出した帰り道、舗道の隙間から伸びた雑草が、靴のつま先に触れるたび、私の神経がすこしずつ緩む。
「…………で、何ですか。昨日付き合ったばかりだというのに、また食事ですか?」
「違う違う!」
「…………」
「もう、そんな目しないでよ〜!……テストどうだったのかなって聞きたくて」
「……ああ、そういえば、色々と教えてもらいましたからね」
ふと浮かんだ、図書室での勉強会のこと。
あの時は前半の百合園さんと兄とのやり取りで、まともに勉強に身が入らなかった覚えがある。
「でも、数学の答案用紙は貴女のお友達が破り捨てちゃいましたけど」
「あっはは……」
「全教科で赤点は無いので、一安心ではありますね」
「それはよかった。勉強会を開いて良かったね」
「まぁ、勉強を教えてくれたのはありがとうございます。それと……」
……おそらく九条さんがいなかったらいなかったで、一夜漬けでギリギリ赤点回避していたとは思う。
とはいえ彼女との会があったからこそ、テスト返却までストレスを溜め込まずに済んだ。
彼女がいなかったらテストが返ってくるまで、実質賭けみたいな状態で、心休まらなかっただろうし……
今日、用紙を破かれても菩薩の心で村上を無視できたのは、九条さんのおかげとも言えるだろう。
「…………良かったら……期末テストも……お願いします」
歩きながら、それだけをぽつりと呟く。
いつも1人なせいで、他人に何かを頼むのは未だに苦手だ。
自分でなんとかする癖が抜けない。
「うん。なら一花も、これからも私の事をお願いだね」
私達は歩幅を合わせながら、そんな他愛もない話を交わし続ける。
テストの愚痴、教師のキモいところ、最近食べた変な物の話など。
そんな小さな世界の話で、私たちは帰路を満たしていった。
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九条さんとは途中で別れ、私は一人で帰宅した。
玄関の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――革靴。
兄があの一件から帰ってきたらしい。
リビングのほうで灯りがついている。
私は無言でそちらへ向かった。
そして目に入ったのは、ソファにうつ伏せで倒れている兄の姿だった。
やけにお尻が突き出ている。
「……久しぶり」
兄がこちらを向いて、いつもの調子で手を振った。
だがその顔は、どこかやつれている。
頬が少しこけて見えた。
「生きてたんですね。……もしかしたら死んでるんじゃないかと心配しました」
私は冷蔵庫から水を取り出し、コップに注いで飲む。
そのまま兄と顔も合わさずに会話を続けた。
「そう思うなら助けに来てくれよ~!」
間延びした声。
体を動かすのも億劫そうだ。
「……帰ってくるの遅かったですけど。結局、兄さんは百合園さんに何されたんですか?」
「それがさあ、言葉にすんのもちょっとエグくて……。玉は無事だったけど、ケツの穴がマジで、今もヒリヒリすんのよ。これ絶対――」
この一瞬で百合園さんとの会話を思い出す。
あの時私は、兄に同じくらいの罰を、と言ったはずだ。
予想が間違いでなければ、今から兄の口から発せられようとしている言葉の方向性は、完全に――
「やっぱりいいです。それ以上言わないでください。その話を聞き続けてると、私の耳が腐ります」
「お前から聞いたんじゃん……にしても、しゃぶったことはあっても、挿れられる経験をするハメになるとは思わんかったわ。俺、男なのに……」
兄が意気消沈した声でつぶやく。
……やっぱり正解だった。
百合園さんの言ってたマラソンって、本当にそういう意味だったらしい。
……あの人だけは敵に回さないようにしよう。
兄は痛みにうめきながら、ぐでっとした体を起こし、唐突にソファに座り直す。
「そうだ。明日、地元の友達みんな連れてプールに行こう!!!!」
「…………え?」
あまりの脈絡のなさに、思わず素で返してしまう。
「このままじゃ俺の心が終わる。一旦、生で女の体見てリセットする必要があるんだ!」
……11月。
プールで遊ぶには、あまりにも季節外れな気もする。
人なんかほとんどいないのではないだろうか?
……全く。
百合園さんのせいで、うちの兄がおかしくなってしまった。
流石にあの時、もう少し罰を軽くするよう言うべきだったのかもしれない。
でも、もう過ぎたことだ。仕方ない。
私は黙ってコップを台所に置き、リビングを出ようとした。
この馬鹿を相手にしても、消耗するだけ。
……が、その瞬間。
「ちなみに一花も強制参加な」
「は? 行くわけないじゃないですか。私なんか気にせず、兄さんの言う友達達と一緒に楽しんできてください」
「いや、来い。元はといえばお前が当主様に温情を掛けるよう、言わなかったせいだぞ」
「それを言ったら、兄さんが私を売らなければこんな事になってないんですけどね。絶対に行きませんよ。……水着なんか持ってないですし」
「関係ないね!お前はそうやって外に行くのが嫌なだけだろ!」
「…………はぁ。兄さんは水遊びする前に、お尻をしっかり洗った方が良いですよ」
私はそれだけ言って自室に戻った。
ベッドに転がり、スマホを開いて適当にSNSや動画を眺める。
思考を放棄して、だらだらと時間を潰すうちに――次の日がやってきた。
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――体が、不規則に揺れる。
その振動に、少しずつ眠気が削られていく。
重いまぶたを持ち上げると、目に飛び込んできたのは、やたらと近い天井。
……何これ。
上半身をゆっくり起こす。見慣れない景色。
私の周りには、知らない人たちがいた。
「はぁぁぁぁああああああああああ!?!?!?」
叫んだ瞬間、声が四方に跳ねた。
「凄い声」
「あ、太陽? 妹さんが起きたみたいよ〜」
「馬鹿デカい声出されりゃ、運転席でも気づくっての」
騒がしい声が次々と飛び交う。
私はようやく気づいた――ここは車の中。
しかも、座席ですらない。バックスペース。
どうやら、無理やり連れてこられたらしい。
それも寝巻きで……