第18話 私は私が分からない(九条桃音:視点)
最後のテストが返される。
「数学のテストを返す。呼ばれた奴から前に来てくれ」
先生が淡々と言い、教室の空気がわずかに引き締まる。
私の番号が呼ばれ、立ち上がって答案用紙を受け取った。
席に戻ってその場で用紙を開く。瞬間、右隣からぐいっと視線と顔が伸びてくる。
「うわぁ、数学も100点なんだ。桃音すごいね〜」
綾香が半ば感心、半ば冷やかし気味に声を上げる。
表情は笑っているけど、どこか探るような眼差し。
「そ、そんなことないよ」
あわてて答えたけれど、実際のところ、こんな点数は特に意味を持たない。
「………………大空さんに教える余裕があるくらいだもんね」
その言葉は、ぽつりと低く、どこか引っかかるようなトーンで落とされた。
「ごめん、聞こえなかったんだけど……何か言った?」
本当に聞こえなかった。
ただ、その場の空気に妙なひっかかりだけが残る。
「なにも〜!」
綾香はあっさりと笑って流す。
けれど、その軽さが少し不自然で……
「こら!お前達!まだ授業中だ。内申点を下げられたいのか?!」
担任の一喝に、私たちは慌てて口をつぐむ。
椅子がわずかに軋み、私は答案を机に伏せた。
……正直、自分の点数なんて、本当にどうでもいい。
それよりも一花の事が気になる。
私はそっと、彼女の席に目を向けた。
彼女にはテスト前日に、出来る限りの時間を割いて勉強を教えた。
数学が一番苦手だと言っていたので、それを分かりやすく。
私はいつも妹に勉強を教えてるから、自分がそれほど伝えるのが苦手とは思ってないけど、一花が赤点を回避出来るかは、彼女自身の頑張りに掛かっている。
ここからじゃ答案の点数は見えないし、
一花は教室にいる間、基本的に感情を表に出さないので判別がつかない。
「なに見てんの?」
突然、隣から綾香の声が飛んできた。
私は咄嗟に窓の外を指差す。
「あっ、えっと!……そ、空だよ。ほら、もう11月になるし……そろそろ雪でも降るんじゃないかな〜って」
「そうなんだ。雪にはまだ早いと思うけどね」
……あぶなかった。
一花を見ていた、なんて綾香には絶対に言えない。
でも幸い、一花は窓際の席だった。
視線の辿りも言い訳も、ぎりぎり通用する……はず。
ほどなくして、チャイムが鳴った。
休み時間に入ると、綾香は私には目もくれず、片手に水のペットボトルを持ったまま、すぐに一花の方へと歩いていった。
その唐突さに、私は思わず体を固くする。
だが、今は動かない。
静かに様子を見守るしかない。
「大空さん、テスト見せてよ〜」
「…………」
「無視? 無視するんだ」
そのまま綾香は一花の机の中に手を突っ込み、勝手にテスト用紙を取り出した。
手慣れた仕草だった。
まるでそれが、当然の権利であるかのように。
「沈黙は肯定って、知ってる?……っと、数学41点。ギリギリ赤点回避か。よかったじゃん」
一花がゆっくりと綾香の方を向き、低く、簡潔に告げた。
「返してください」
「え〜? もう終わったテストだし、いらないでしょ」
そう言って、綾香は手に持っていた答案用紙を、破いた。音が教室に響く。
わざとらしく、大きな音で。
「あ、ごめ〜ん! 間違って破っちゃった☆ 答え合わせしてから提出だったよね? ごめんごめん〜」
一花は破かれた紙をただ静かに見つめ、それから、何事もなかったかのように前を向いた。
まるで、綾香など最初から存在していなかったかのように。
その態度に、綾香の眉がわずかに歪む。
そして手にしていたペットボトルのキャップを、勢いよく回した。
私は、その音だけで彼女の次の行動を察し、席を立って綾香の方へと足を向ける。
「大空さんって、ほんと冷たいよね。まだ冬にもなってないのに、氷みたい」
一花は黙ったまま、視線も向けずに答えた。
「……貴女が相手じゃなければ、もう少し優しい対応をしますよ」
「へぇ? じゃあさ、私にも優しくしてもらえるように、水で溶かしてあげよっか――」
その瞬間、私は綾香の腕を掴んでいた。
ペットボトルを持つ手首を、そっと、しかし確かに。
「やめなよ……やりすぎ」
綾香の視線が、冷たくこちらに向けられる。
一瞬の沈黙のあと、彼女はふっと鼻で笑った。
「ふーん。ちょっと、桃音。ついてきて」
「……うん」
私は小さく頷き、彼女の後を追って、廊下へと歩き出した。
教室の扉が閉まると、空気がひんやりと変わった気がした。
人気のない廊下に出た途端、綾香は足を止め、無言のままこちらを振り返る。
その顔は、先ほどまでの軽口とは違っていた。
笑っていない。
むしろ、怒っているのでもなく、何か確かめるような、そんな目だった。
「ねえ、桃音……どっちの味方なの?」
言葉が鋭く胸の奥を刺した。
どう答えればいいのか、一瞬、頭が真っ白になる。
「私たち、本当に友達?」
問いは、冷静すぎて怖かった。
私を責めるでもなく、泣きつくでもなく、ただ事実確認のように淡々と投げかけてくる。
私は口を開こうとしたが、すぐに何かを言えず、数秒の沈黙を挟んでからようやく声を絞り出す。
「……私、綾香のこと嫌いとかじゃないよ。ただ……ちょっと、水を掛けようとするのはやりすぎかなって」
綾香は反応を見せない。
まっすぐ私を見つめている。
「先生たちだって、ああいうの見てたら、さすがに目をつけてくるかもしれないし……」
それが言い訳だって、自分でも分かっている。
でも、本音は怖いから。
綾香を否定することが怖くて、言葉をぼかした。
綾香は肩を揺らして、静かに笑う。
「そうなんだ」
それだけ言って、壁にもたれかかる。
腕を組み、視線を外し、どこか遠くを見るように天井を仰ぐ。
「ねえ桃音。私ね、あの子、ほんとムカつくんだよ。無視とか普通に常識的にやっちゃだめでしょ。こっちは話しかけてあげてんのに」
私には分からない。
むかつく相手にしつこく粘着する理由が。
嫌なら……どうしようもない理由がないなら、離れれば良いのに。
でもそれを口に出す勇気は、私にはなかった。
そのまま綾香は、長くため息をつく。
しばらくして、教室の扉の向こうから、誰かの声が響いた。
「ねー、そろそろ授業始まるってばー!」
日常に戻れと言わんばかりの間の抜けた声。
でも、それが綾香を現実に引き戻したようだった。
「……ごめん。確かに、桃音の言う通りかも」
ふいに、綾香は顔を上げてそう言った。
謝る口ぶりは軽かったが、その目はきちんとこちらを見ていた。
私は戸惑いながらも、頷く。
「……こっちこそ、ごめん。変な空気にしちゃって」
綾香の口元が、かすかに引きつる。
笑おうとしたのか、何かを我慢していたのか、判断がつかない表情だった。
「いいよ。うん、もういい」
そして、不意に声のトーンを跳ねさせる。
「そうだ、2日後の日曜! カラオケ行こうよ! この前遊んだ先輩たちも連れてさ!」
唐突すぎる提案。
それに乗って笑えば、また“普通の友達”に戻れるような、そんな誘い方だった。
でも私の胸の奥には、氷のようなものがずっと張りついたままだった。
綾香の言う先輩達。
あの人達から向けられる、視線が何か……怖い。
視線というより、舐め回すような感触。
私の体を値踏みするように流れていく目つきが、今でも記憶の中で濁って残っている。
できることなら、断りたい。
だけど、今日のことで綾香を不機嫌にさせたばかりだった私は、もう一歩も引けなかった。
「……うん。分かったよ」
言葉に力が入らなかった。
けれど綾香はそれで満足そうに笑った。
チャイムが鳴る直前、二人並んで教室に戻る。
教室のドアを開けたとたん、何人かの視線がこちらに向けられたが、綾香は何も気にせず自分の席へと戻っていった。
私は数歩遅れて、その背中を追う。
全ての授業が終わり、校舎の中も夕方の静けさに包まれていた。
私は誰もいない廊下の片隅に立つ。
帰り支度をするクラスメイトたちに「一緒に帰ろう」と声をかけられたが、
私は「紀玲に呼ばれてるから」と言って断った。
もちろん嘘だ。
わざわざあんな危ない人のところに、自分から近づくはずがない。
「私に呼ばれているそうだが、何か用があるのかな?」
「ひぃぃぃぃいいい!!!!」
背後。
無音で立っていた紀玲が、スマホの画面を眺めながらこちらを見ていた。
「な、なんでここにいるの?!?!」
声が裏返る。
反射的に数歩下がった。
「そう怖がられると、流石に傷つくんだがね」
紀玲の口元には、薄く皮肉な笑み。
私の反応を楽しんでいるかのような余裕が、そこにはあった。
……近づかれるだけで、呼吸が浅くなる。
脳が警鐘を鳴らす。
何度も――もう二度と関わるな、と。
「怖くて当然でしょ! 私、殺されかけたんだし……!」
「ただ一度命を奪われかけた程度で、その恐怖を引きずるとは。やはり君は獣だな」
嘲るように、けれど感情の揺れは一切見せずに、紀玲は言った。
その冷ややかさに、背筋が硬直する。
「……で、何しに来たの?」
感情を押し殺して、できるだけ平静に。
「特に何も」
「ならどっか行って! 私に近づかないでってば!」
叫ぶような拒絶に、紀玲はひとつ息を吐いた。
「全く……それなら顔を合わせたこの機会に、ひとつだけ忠告しておこう」
「…………」
「関わる相手は、もう少し慎重に選んだ方がいい。【群れれば強い】と錯覚するのは、獣の在り方だ」
その言葉を残し、紀玲はひらりと背を向け、廊下の奥へと消えていった。
制服の裾が、夕日の逆光で一瞬きらめく。
「……余計なお世話」
だけど、心のどこかで引っかかっていた。
群れれば強い――それは、私自身がいちばん信じたかった言葉だったのかもしれない。
でも、今更このスタンスを変える事は出来ない。
人間をやめたせいで、前の学校での全ての友達と縁を切って、今ようやくこのポジションにまで戻ってきたのだから。
…………また一人ぼっちになるなんて絶対に、ありえない。あってはならない。
私はふと、自分達の教室に目を移した。
まだ明かりが付いている。
それは何故か。
まだ、一花が一人で掃除しているからだ。
そして私は彼女を待っている。
今日は別に食事が必要というわけでもない。
ただ、なんとなく。
足が勝手に向かってしまった。
普通なら、わざわざ待つような関係じゃない。
友達、というわけでもない。
……そう思うと、私の中では一花はどういう立ち位置なんだろう。
一応、彼女は私を救う事を選んでくれた人であり、私が生きる糧でもある。
とはいえ……それだけ。
ただ、一花と一緒にいると、とても楽 になるというか、妙に落ち着けて……
ぬるま湯の中に沈むような、変に心地いい感覚になる。
……これはまだ言葉に言い表せない。
しばらくして、教室の灯りがぱちんと落ちた。
まもなく、一花が静かに廊下へ出てくる。
私の存在にはまだ気づいていない。
よし、仕掛けるなら今。
私は軽い足取りで、影の中を滑るように追いかけた。
廊下を抜け、階段を下り、靴箱の前。
気づかれないように、息を止めて――一花の背後にぴたりと迫る。
そして、首を少し傾けて、その頬に――
「ぺろっ」
舌先で、柔らかく撫でる。
あたたかくて、少ししょっぱい。夕方の味。
「きゃああああああああっっ!?!?!?」
反射的に跳ねのけるように体が揺れ、一花の悲鳴が玄関に炸裂した。
まるで鐘の音みたいに、派手に響き渡る。