第17話 私以外が罪人の勉強会
「遅かったな」
「…………」
私が図書室の奥へ足を運んだ後、初めて見た光景の心境を語るのはとても難しい。
百合園さんがファンタジックな光の槍を、空に浮かび上がらせた以来の驚きに近い。
まず、百合園さんが整然とした姿勢で教科書を開き、テーブルに座っている。
九条さんも、何かをじっと見つめるように俯いている。
……ここまではいい。
勉強会のメンバーは三人と聞いていたのだから、想定の範囲内だ。
だけど問題はここに絶対いてはいけない、もう一人のメンバーが紛れていることだ。
「んんんん!!!むむむんんん!!!!」
信じがたいことに、それは――私の兄である。
制服を着てはいるが、明らかに年齢不相応。
しかも、椅子に見えない何かで両手足を縛られ、口にはお札のようなものが貼られている。
まともに喋れず、全身を使って必死に抗議の意思を表していた。
「………………」
言葉が出ない。
どう反応すればいいのか、脳内で処理が追いつかない。
「いつまで突っ立っている? 君の前回の期末テストの点数が芳しくなかったと聞いて、わざわざ私の時間を割いてこの場を設けたのだ。早く座ってノートを開きたまえ」
信じられない。
この馬鹿みたいな状況で、兄を横目にこの人は勉強会を始めたいらしい。
……いや、無理だ。
私には絶対無理。
本当に集中できない。
「…………」
「むむんんんん!!」
兄はますます暴れ、椅子ごとガタガタと音を立てる。
私はただ茫然と、その滑稽でありながら不穏すぎる光景を見つめていた。
……話が進まないので、意を決し、口を開く。
「すみません。なんで私の兄がここにいるんですか?……一応、ここ校内ですよ?」
私は九条さんの隣に座りながら、できるだけ冷静に問いかける。
「そんなこと言われなくても理解している。だからこの馬鹿に制服を着せた。校内である以上、それなりの体裁は整えなければならないからな」
「えぇ……」
「君の兄がここにいる理由については、会が終わった後でも良いだろう」
「……良く、ないですね。その場合私は帰って勉強した方が集中できそうです……」
私がそう返すと、百合園さんは小さく息をつき、広げていたノートを音もなく閉じた。
「……仕方ない。ならば説明してやろう」
その目が私を真っすぐ、射抜くように見つめてくる。
「なぜ大空一花さんが、今のような非日常に足を踏み入ることになったのか――その始まりをね」
その瞬間だった。
九条さんが、ずっと俯いていた顔をほんのわずかに震わせた。
それが怯えなのか、怒りなのか、私にはまだ分からない。
そして兄は、より一層激しく椅子を揺らしながら、くぐもった叫びをあげる。
「んんんむむむむむむっ!!!」
……どうやら勉強会を期待していた私が、間違っていたようだ。
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話は長かった。あまりに現実離れしていて、すぐには受け止めきれない。
けれど私は、自分の脳の中でなんとか整理しようと試みる。
一つ。
始まりは、完全に不可抗力だった。
九条さんが“混血”としての覚醒を迎えたこと。
それは本人の意志ではなく、遺伝という名の運命。
亜人となった九条さんは、人間の食事だけでは生きられない身体になった。
必要なのは、人の身体を巡る生命力。
でも、百合園さんが所属する組織の関係上、好き勝手、人を秘密裏に食わせるわけにもいかなかった。
そんな時――
「その困っている私に、一つの“提案”を持ちかけてきた部下がいた。……それが、椅子に括り付けてあるその馬鹿だ」
百合園さんが、兄に軽く視線を投げる。
二つ目。
百合園さんは「声で説明するより、こっちの方が早い』と言い、
スマホをテーブルの上に置き、録音された音声を再生してくれた。
機械越しのくぐもった声。
けれど、間違いなく兄の声だ。
『妹を売るよ。アイツには俺みたいな才能は無いだろうが、たぶん化物が満足できる程度の生命力はあるだろうさ』
『……正気で言ってるのか、君の妹だろう?』
『正気も正気。大丈夫だって、一花は貧乏生活だからな。金さえ積めば何でもやってくれる』
『ふむ……そこまで言うなら、それでいくとしよう』
『んじゃ、七百万でよろしく〜!』
その瞬間、自分の心の奥が、じわじわと凍りついていくのが分かった。
……私は、七百万で売られたのだ。
兄の口から出たその金額に、私の価値が決められていた。
……それだけでは終わらない。
これが決定した後、百合園さんは催眠術のようなものを私に掛け、自殺の意思を持つよう誘導し、それに伴いタイミング良く九条さんを、私と出会うよう差し向けた。
おそらく、あの時点で警察に連絡しようと阻止され、次からは完全に自由意志を封じられていたのだろう。
私に人権なんてものは存在せず、常に彼女の部下が監視を入れているという。
……ここまで聞くと、九条さんに非はあまりないのかもしれない。
突然の事で仕方なく、生きるためにやるしかないと言われ、指定された相手を襲った。
それだけなんだから。
そして三つめ。
「最後に太陽は私が渡した金を持ち、フィリピンパブで豪遊、そして各国を飛び回り無断欠勤を続けたが……数日前に、日本をから出ようとしているところを見つけ、捕えた」
つまるところこの馬鹿兄は、百合園さんと連絡など取っていなく、
売るだけ売って私がレ◯プされていたことなどつゆ知らず、日本に寄ったのも逃亡生活中の旅行感覚だったわけである。
久しぶりにあった日に、亜人の件について質問した時『その件について話すと……』なんて言いながら首を掻き切るジェスチャーをしていたのは、比喩でも何でもなく、組織上の規定で確実に処刑されるという、物理的なガチの話であったわけだ。
……あの置いていった百万円は、結局なんだったのか。
今となっては、もうどうでもいい。
「それで百合園さんは、兄さんをどうしたくてここに呼んだんですか?」
「もちろん罰を与えるためだ。大空一花さんだけが被害を被るならまだしも、太陽は無断欠勤を続けたのでね」
……罪人は九条さんを含めた、この場にいる私以外の人。
償うべきは私を売った兄さん、それを買った百合園さん、そして行為に移した九条さんの全員だと私は考える。
だけど、この件に関しては百合園が隠し通そうと思えば、そうする事もできたと思う。
その間、私は何も知らず、苦しんだまま過ごすことになっていただろうけど。
これは彼女の誠意?の結果、この場が開かれた。
これ以上を求めることは、私の立場を悪くするだけで、きっと不利な状況をもたらす結果にしかならない。
私は静かに息を整え、尋ねた。
「ちなみにどんな罰を?」
百合園さんは唇の端を僅かに持ち上げる。
「それは君が決めてくれて構わない。ちなみにこちらが下そうと思っている沙汰は、一生私の家畜として自由意志なく働いてもらう、というものだ」
「むむむむンンンンンンッッッ!!!!!」
それを聞いた兄が、抜け出そうと足掻く。
自由意志が無い、か。
おそらく完全に意識を奪うというのだろう。
……それは流石に可哀想かもしれない。
私に降りかかった災厄より酷い気がする。
「……はぁ。もちろん兄さんの事は許せませんが、そこまで酷いものは求めません」
そういうと百合園さんが、兄の口に貼ってあったお札を思いっきり外した。
「……太陽、聞いたか?……君の妹が寛大で良かったな」
「おぉ〜!流石は自慢の妹だ!!本当に感謝してる!!!」
兄は顔をぐしゃぐしゃにして、私を拝むように何度も何度も頭を下げた。
目尻には涙すら浮かんでいる。
……大袈裟なものだ。
「それで、どの程度の罰がお望みだ?」
百合園さんが静かに尋ねてきた。
目は笑っていない。
けれど、口元にはかすかな興味の色が浮かんでいる。
私は考える。
兄はこれでも、長く一緒に過ごしてきた血の繋がった家族の一人である。
そんな相手が私を売った。
到底許して良いことではない。
でも刑務所に行って欲しいとも、人格を書き換えて欲しいとも今更思わない。
ここはやはり……
「私が被ったのと同じくらいの屈辱を。やっぱり私と同じ目に遭わないと、どれだけ苦痛だったか分からないですよね?」
特に深い意味があったわけじゃない。
ただ、自分が感じた痛みを、彼にも知って欲しい――それだけだった。
けれど。
その一言を口にした瞬間、百合園さんの顔がピクリと動く。
そして、ゆっくりと口元が吊り上がり……次の瞬間には、声を上げて笑い出していた。
「……っく、ふ、ふははははっ! あーはははっ!!」
耐える素振りなど一切ない。
腹を抱え、肩を震わせ、机に手を突いて笑い転げる百合園さん。
異様な光景だった。
その反応を見て、兄の顔から一気に血の気が引いていく。
「おいおい、良かったな!君の妹は傑作だ!これからも大事にしてやるといいだろう!」
「ちょちょちょちょっと待ってくれ!!つまりどういうことだ?!もしかして俺が思ってる通りのことか?!?!」
私が口を開こうとすると、百合園さんが手を伸ばして制した。
どうやら、罰は彼女の方で決めてしまっているらしい。
「選ばせてあげよう、太陽――」
声のトーンが一転、酷く静かで滑らかだった。
だが内容は、比喩でもなんでもない。
「睾丸を7つに砕かれ、世界中に散らばったゴールデンボール探しをするか、こちらの指定した男性悪魔3体とin150時間マラソンをするか……どちらか好きな地獄を選ぶと良い」
静寂が落ちる。
九条さんでさえ、何も言えず、息を呑む音だけが聞こえた。
「「…………」」
私は思わず、自分たちがまだ日本語で会話していたのかを疑ってしまった。
それほど、常軌を逸している。
「やだやだやだやだっ!!!」
兄が、椅子ごと跳ねるように暴れていた。
無様にも両手足を縛られたまま、必死に命乞いめいた声を上げる姿は、哀れを通り越してもう芸術的ですらある。
「さて――茶番はこれまでにしておこうか」
百合園さんが無感情に言い放ち、すっくと立ち上がった。
「この阿呆は連れていく。あとは二人で、心ゆくまで勉学に励むといい」
「やだやだやだやだやだやだ!! ちょっ、一花! 助けてくれ! なぁお願いだ! お前に100万やっただろ!? 頼むから一言だけでも――」
「……私が話している最中だ。少し黙っててくれ」
百合園さんは片手で兄の顎をつかみ、軽やかにお札を貼り直す。
ピタリと音が止まり、椅子の上で兄は静かに震え始めた。
「……結局、百合園さんは勉強に付き合う気なんて、最初からなかったんですね」
「当たり前だろう。これはただの暇つぶし兼、太陽に対する嫌がらせプラスで、君に説明の場を設けたに過ぎない」
「ですよね……私の勉強時間を返して欲しいです」
「テストで点を取りたいなら、隣で黙っている彼女に聞くといい。以前の学校では常に成績上位だったそうだ。頼めば丁寧に教えてくれるだろう」
言い終えると同時に、百合園さんは兄の椅子の背を片手でつかみ、まるで粗大ゴミのように引きずって歩き出す。
「コイツは私が持ち帰る。問題ないな?」
「……ええ。もう死なない程度に、好きにしてください」
ギギッ、ギギッと、床を擦る不穏な音が廊下の方へと消えていく。
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二人が図書室から出て行った。
扉が静かに閉まる音を最後に、室内は沈黙に包まれる。
長机の左右に残されたのは、私と九条さんだけ。
「……兄さんと百合園さん、いなくなっちゃいましたね」
ぽつりと呟く。
応答はない。
九条さんは顔を伏せたままだ。
「九条さん、さっきからなんで何も言わないんですか?」
問いかけても、彼女の視線は机の一点に貼り付いたまま。
「……だって、私が変なこと言ったら、また誰かに迷惑かかるかもしれないし……」
掠れた声がようやく漏れる。
「今回は……一花のお兄さんが全部かぶってくれたけど、もとは全部、私が……」
言葉の端々に自己嫌悪が滲んでいた。
言い切る前から自分を責めているような、弱い呼吸。
指先が机の下でぎゅっと握られているのが、横目で見て取れた。
「それはもういいです」
語気を強くせず、断ち切るように言った。
やっぱり百合園さんが原因で、借りてきた猫みたいになっていたのか。
でも、それも無理はない。
一度あんな目にあった上、兄があれだけ盛大に身代わりにならなければ、あの冷酷な視線が九条さんを貫いていた可能性もある。
そう思えば、今日の静けさも理解できる。
……とはいえ、このまましおらしくされても私の気分は悪い。
どうせ明日には、また人を脅すような口ぶりで絡んでくるのだから。
ならいっそ、さっさとフォローして空気を変えてしまおう。
「確かに九条さんも、かなり悪いとは思ってますが……」
「……うん」
「でも、私を売り買いしてた人たちよりは、ずっとマシです」
わずかに肩が揺れた。
言葉が効いたのか、それとも気が抜けたのか。
とりあえず明日のテストが迫ってきているので、勉強を見てもわなければいけない。
一人でさっさと帰らないという事は、付き合ってくれる気はあると思うし。
一緒に勉強をする過程で、この空気も変わるだろう。
私はカバンを開いて、ノートと教科書を机の上に出した。
九条さんがこちらをちらりと見たのが、視界の端に映った。
「そんなことより勉強を教えてください。次赤点を取ると、冬休みが消えるので」
ページを開きながら言うと、彼女も少し遅れて教科書を取り出す。
「……分かった」
九条さんは立ち上がり、静かに席を詰めてきて、開いたページに目を落とす。
少し間を置いて、指先で一行をなぞりながら説明を始めてくれた。
私はペンを持ち直し、ノートにメモを書いていく。
その途中――ふと、本棚のあたりから視線を感じたような気がしたけど、目は向けなかった。
今はそれより、赤点回避のほうが大事だ。
◇
あとがき
ちょっとミスってこの回のデータが飛んだので、ところどころ描写不足がある気がしないでも無いです(自分でも分かってない)
一応、一花が百合園を責めるパターンも書いたんですが、何も言い返せないくらいボロクソに言われて、惨めになるだけだったので没になりました。
*次回は九条さん視点です*
期末テストが終わって、10日以上経った後の話です。
それと大事かどうか分からない設定をここで出しておきます。
大空一花の身長は145cm
九条桃音の身長が160cm
です。
おそらく界隈の人にしか伝わらないんですが、これの身長差を分かりやすく表現するなら、ブ◯ーアーカイブのホ◯ノとノ◯ミくらいの差はありますね。