第13話 悦楽を呼ぶ魔液 ☆☆☆
「はぁ……そうですか。分かったので早くその尻尾を私の口に近づけて下さい」
九条さんの尻尾が、目の前に差し出される。
奇妙な舌のような器官。
何度見ても慣れない、気色悪い造形。
人間のそれよりもずっとしっとりしていて、湿り気を帯び、ゆるやかに動いている。
近づけられただけで、ぬるりとした熱が肌に伝わってくるような錯覚すらある。
こんなものに、キスを……
考えたくもなかった。
けれど、もう選択肢はない。
私は目を閉じて、ほんの一瞬だけ息を整えると、ゆっくりと顔を近づけた。
すると九条さんの尻尾の舌が、ゆっくりと、けれど確実にその隙間に滑り込んでくる。
熱い。
ぬるりとした体温。生きているのがはっきりとわかる粘膜が、私の舌の上を撫で、喉の奥に触れた。
次の瞬間だった。
全身が、内側から破裂したような錯覚に襲われた。
「――ッ、は……ぁ、なに、これ……!」
頭の芯がぐらぐらと揺れて、喉の奥が焼けるように熱い。
舌の裏側から、脳の中にまで火が駆け上がる。
呼吸が止まったわけじゃない。
けれど、空気が胸に入るたびに、内臓が熱で焼ける。
目が回る。
視界がぐにゃぐにゃに歪んで、色の境界線が溶けていく。
「ちょっと……こんな……の、聞いてない……っ」
背中が勝手に反る。
太腿に力が入らない。
心臓の鼓動が早すぎて、耳の奥が痛い。
私は震える指先で地面を掴もうとするが、それさえうまくできず、ただ無様に手のひらで草をかき乱した。
「――っ、ごめん。今すぐ止めるから!」
九条さんの声が、焦り混じりに聞こえた。
尻尾を引き抜こうとする気配がした瞬間、私は反射的に口を閉じた。
歯と舌で、その異形の器官を受け止める。
「大丈夫、ですっ……続けて下さい……っ!九条さんが……満足するまで……!」
そんなことを言っている自分が、もう誰なのか分からなってきて。
まるで熱を持った濃密な媚薬を、喉奥に直接流し込まれたかのようだった。
皮膚の下、血管の中を毒が這い、全身の感覚を犯していく。
胸が上下するたびに、乳房の先端までもがびりびりと痺れて、脚の間に何かが落ちていくような感覚に襲われる。
逃げたいのに、身体が言うことをきかない。
腰が勝手に震え、足先が何度も地面を蹴る。
そして、私の異常な反応を見た九条さんは――ふいに、私の首元に顔を寄せた。
「……分かった。これも早く終わらせるためだから」
耳元でそう囁いたかと思うと、九条さんの口が私の首すじに触れた。
そして――舌が這う。
ねっとりと、濡れた熱が、うなじから鎖骨にかけてゆっくりとなぞられていく。
「あっ、や……だ、そこは……っ!」
首すじの感度が、悲鳴を上げる。
甘く、痺れるような快感が、尻尾の毒によって増幅されているのだと分かっていても、拒めなかった。
九条さんの舌は、慈しむように、でも逃さぬように私の肌を攻め続ける。
私は、もう自分の声すら制御できなかった。
尻尾が少し離れたタイミングで言葉を漏らす。
「ん、ぁっ……! は、っ、だめ……これ、だめ、やっぱり、これ……!」
喉の奥から漏れ出る声が、明らかにいつもの自分とは違っていた。
まるで別の生き物が、私の身体を使って呻いているようだった。
意識がふらつく。
呼吸が浅く、速い。
熱にうなされ、吐息が震える。
九条さんの尻尾が口の中で僅かに動くたび、びりっと電気が走ったように全身が跳ねる。
神経の一つ一つが皮膚の裏でむき出しになり、感覚の閾値が狂っていた。
熱い。
焼ける。
喉の奥が、胸が、下腹部が――灼けた鉄の棒を押し当てられているような火照りに包まれる。
「ごめん……ごめんなさい…………」
すぐ耳元から、九条さんの嗚咽がこぼれた。
それは、私の首筋を舐める舌の熱に混ざり、汗に濡れた肌の上で震えるように響いた。
なぜ泣いているのか、分かっていた。
彼女は、これを望んでいるわけじゃない。
自分が生きるために仕方なくやっているだけ。
だから私は、震える手で彼女の背中を抱きしめた。
「……大丈夫っ……なので……自分のことだけに集中して下さい……」
実際、泣き喚きたいのはこっちだ。
ただの被害者でしかないのだから。
この言葉を口に出すのが、どれほど苦しいか。
それでも、私はそう言わずにはいられなかった。
九条さんの身体が、小さく頷いたのが、手のひら越しに分かった。
そして暫くして――彼女の尻尾が、ようやく私の口から静かに引き抜かれていく。
ぬるり、と粘膜が舌から離れる感覚。
唾液と、それ以外の液体が混じり合って、口の中をどろりと濁らせる。
喉奥に張り付いていた熱が消え、代わりに冷えた空気が喉を通った。
「――っ……はぁ、あ、っ……!」
私の身体は、まるで糸の切れた操り人形だった。
腕も、足も、抵抗の力を失って、ただ立ち上がる気力など当然なく。
呼吸は浅く、ひゅうひゅうと空気を喉が引き裂く音が耳の奥に響く。
それでも、毒の効果はまだ終わっていなかった。
脈動するような熱が、身体の芯を這い回る。
皮膚の下、血管を流れる血が、すべて熱湯になったかのようだった。
ピクン、と太ももが跳ねる。
それに続いて、腹部がびくびくと波打つ。
何も触れていないのに、胸の先端が締め付けられるような鈍い痛みに襲われた。
それが数秒ごとに繰り返され、私は無意識に膝を折り曲げ、脚を閉じる。
脳が、まだ終わっていないと言っている。
身体が、まだ欲していると、嘘のような信号を送り続けてくる。
「ま、満足しましたかっ……!九条さん……」
私がそう聞くと、九条さんの体も人間の姿に戻っていく。
「ありがとう……これで、暫くは大丈夫……」
そうか。
そういえばそうだ。
これを週2くらいの感覚で、やり続けなければいけないんだった。
少しばかり辛すぎる。
……助けたことを後悔しそう。
「本当に……本当にありがとう」
九条さんの目は赤く潤んでいた。
泣いた後のように濡れた声で、彼女は言った。
「……良いですよ。ただ……こっちばっかり損してるんですから。次から私に接する時は、もう少し優しくして下さい」
「……うん」
そう答えた九条さんの表情には、どこか罪悪感と、それ以上に安心したような色が混じっていた。
そのとき――校舎の予鈴が鳴った。
授業開始を告げる鈍い音が、空気を震わせて広がる。
「……はぁ。私は、この状態じゃ授業に出られません。服も髪も……とても人前に出せる状態じゃないですし」
もう授業が始まる時間だ。
でもこの身体では、立ち上がることすら難しい。
「だから、九条さんだけでも戻って下さい」
けれど九条さんは、即座に首を横に振った。
「駄目だよ! 一花は私のせいでこうなってるのに。……一花が戻らないなら、私も残る」
その言葉に、一瞬胸が締めつけられる。
「それは……流石に……」
彼女がここに残れば、悪い意味で目立つ。
教室に先生も事情が分からない人物が、二人も戻ってきていないのは流石にまずい。
そして私と関わっているなどという噂が流れては、九条さんが可哀想だ。
今でも彼女はカースト上位と付き合っているだけに、敵を増やす行動は絶対に避けるべき。
彼女のためにも、ここで別れるべきだと思った。
それにいまだ尻尾の毒が、私の体を蝕んでいる。
だから……今すぐ一人にして欲しかった。
じゃないとまた、私は九条さんにせがんで……
――と、その時
「――桃音!」
声の主は、村上だった。
あぁ……なんて都合のいいタイミング。
こんな時に限って現れるなんて……本当に、憎たらしい。
だけど同時に、今は村上の存在がありがたかった。
きっと彼女がいれば、九条さんを教室に引っ張っていってくれる。
「何してるの、こんなところで……って、大空?」
彼女の目が私を見て、すぐに顔をしかめる。
その視線には、侮蔑と興味の入り混じった嫌な色があった。
「桃音、本当に何してたの? 百合園に話してくるって言ってたのに」
九条さんは、何事もなかったような口調で――平然と答える。
「ううん、別に。一花がちょっと嫌なこと言ってきたから……お灸を据えてただけ」
まるで、私を切り捨てるように。
だけど、それでいい。
私も、そうあるべきだと思っている。
「へぇ〜、そうなんだ? てかさ、大空さん……今すっごくダラしない格好してるよね」
村上は私の全身を見下ろして、口元を歪めた。
「……そう、だね」
九条さんは歯切れが悪そうに答えた。
「じゃあさ……」
そう言って彼女はスマホを取り出した。
「写真撮っちゃえば? 男子に流したら盛り上がりそうだし、脅しにも使えそうじゃん?」
その言葉に、私の心臓が止まりそうになった。
同じ発想で動こうとする人間が、九条さん以外にもう一人いたなんて……
脳が警鐘を鳴らすよりも早く、冷たい恐怖が全身を支配していく。
身体は動かず、口も開けない。
ただ、視界がじわじわと滲んでいく中――
「やめて!!!!」
九条さんが、叫んだ。
その声は怒りを孕んでいるように。
何かを守るように、震えていた。
村上は驚いたように目を見開き、すぐに不満げに言い返す。
「冗談だって……ほんと、桃音って優しいんだね」
その声には、苛立ちと皮肉が混ざっていた。
だけど九条さんは、きっぱりと言い放つ。
「別に、優しくなんかないよ。一花のことは、ここに置いて……私たちだけで戻ろう」
静かに、でも突き放すように。
「……そうだね」
村上はスマホをポケットに戻し、二人は教室へと去っていった。
私はその背中を見つめたまま、動けなかった。
風が吹き抜ける。
どこか遠くで、チャイムが鳴っている。
授業が、始まる――
私ひとりを、取り残して。