第12話 酷いことしたのに... (九条桃音:視点)
力が入らない。
目を開けようとするたび、視界が揺れて、何も焦点が合わなかった。
何かに押さえつけられてただけだというのに、胸の奥がじんじんと痛む。呼吸が浅い。
けれど、何よりも――あの女の気配が消えたことが、今の私にとって唯一の安堵だった。
……音がする。足音。
すぐそばに誰かが来る。
私の……名前を呼ぶわけでもなく、ただ無言で近づいてきたその人は――
「九条さん……っ!」
一花だ。
彼女は駆け寄ってきて、地面に倒れていた私の体を抱き起こしてくれる。
なんでこんな場所に……なんて口から出そうになったけど、そういえばお腹が空いたから、一花を追ってきたんだった。
……それで私は、紀玲にお灸を据えられて。
いつの間にか、やって良いことのラインを越えていてみたいな話だっけ……?
あぁダメだ……
頭がくらくらする。
「ちょっと!聞こえてるなら返事して下さい!! 救急車は……亜人化してるから駄目ですね」
一花の声が、いつになく取り乱しているのが分かった。
焦ってる。戸惑ってる。
それでも私の肩をしっかり支えて、揺らがない。
「……大丈夫、聞こえてるよ」
かろうじて声を出すと、彼女はほっとしたように、小さく息を吐いた。
「……よかった、ほんとに……」
彼女は安堵の息を漏らしながら、それでも必死に私を支え続けてくれていた。
その手が震えていないことに、少しだけ驚いた。
私は何度も彼女を傷つけたはずだ。
逃げ場も言い訳もないくらい、心も体も踏みにじったのに。
そんな私を、彼女は今、助けてくれている。
どうして。
気づけば、唇が勝手に言葉を形作っていた。
「……ねぇ、一花。どうして助けてくれたの?」
「え……?」
彼女は、一瞬目を見開いた。
でも答えず、私の顔をじっと見つめ返してきた。
「私のこと、嫌いでしょ?」
問いかける声が、自分でも分かるくらい、弱々しかった。
私だったら、絶対に見捨てていた。
あれだけのことをされたら、きっと許せなかった。
何を言われても、何を謝られても、顔すら見たくなかったと思う。
なのに――
「……どうして放っておかなかったの? 私を見捨ててたら、もう一生関わらずに済んだのに」
口にした瞬間、喉にひっかかるような感覚が生まれた。
ざらついた塊が、飲み込めずに奥に残る。
――罪悪感。きっとそれだ。
こんな感情、もうずっと感じていなかった。
最近の私は、一花のことを“餌”としか見ていなかった。
彼女の悲鳴も、痛みも、涙も、ただの副作用のようなものとして無視してきた。
欲しいだけ奪い、飽きたら捨てる。それだけの存在。
なのに今、なんで私はこんななんだろう。
これも紀玲にやられたせいかな。
今、私は――彼女の答えが、怖い。
「私も……分かんないですよ。でも、今も貴女のことは嫌いです」
「そうなんだ。嫌いなのに助けた。一花って変なんだね」
「……もうこの話はいいので、教室に戻りましょう」
そう言って一花は私の腕を自分の肩に回し、慎重に立ち上がろうとした。
だけど、ふと動きを止め、小さく「あっ」と声を漏らした。
「…………どうかした?」
私が問いかけると、一花は少しだけ顔を背けながら答えた。
「そういえば……九条さん、お腹空いてるんですよね」
「うん、まあ……そうだけど?」
「じゃあ、今ここで私を食べてください」
あまりに自然に言われて、返す言葉を見失う。
「百合園さんが言ってました。今までの方法ではダメだと。だから……どうすれば良いのか、教えてほしいんです。九条さん」
私が地面で倒れている間に、そこまで話が進んでいたのか。
確かに、私はこれまで“加減”をしていた。
血の中に含まれる生命力を、彼女が倒れない程度にしか吸っていなかった。
でも、それじゃあ足りなくなってきていた。
吸う回数が増えて、一花の負担は確実に大きくなっていたと思うし、たぶんこれが原因で自制も効かなくなって紀玲のラインを越え、一花に負担を強いていたのだろう。
「……本当に教えて良いの? たぶん今までとは別のベクトルで一花が凄く苦しむだけだよ」
おそらく彼女が思う1番嫌なやり方だ。
それだけはやめてと言われてきたから、過度にはやらないようにしてたけど、やっぱり一花の体に負担をかけ過ぎないという利点で動くなら、もう一つの方法しかない。
でも代わりに、彼女の精神が酷く擦り減る気がする。
「もう貴女といるだけで充分過ぎるほど、辛いので変わりません」
「そうなんだ。じゃあ言おうかな」
そう口にしながらも、喉の奥にひりつく感覚が残っていた。
言いたくない。
けど、もう逃げてもいられない。
「もう一つの方法……それは、私に“性的な欲求”を抱くこと」
一花の顔が、固まった。
瞬きも忘れたように、私を見つめたまま、まるで時間が止まったみたいに動かない。
やがて――
「………………は?」
かすれた声。
追い詰められた人間の、本能的な拒絶反応。
当然だ。
私も、一花の立場なら同じ反応をしていたと思う。
「ふざけ……っ。え、それ、本気で言ってるんですか?」
彼女の肩がこわばり、私の身体を支える力が微かに揺らいだ。
「ふざけてたら、こんなタイミングで言わないよ」
私は静かに答える。
冷たくも、優しくもない。
ただ、事実を伝えるだけの声で。
「……紀玲が言うには、私には吸血鬼と淫魔としての特性が混じってるんだって。
だから一花の体に負担をかけず、私が満足に全力で食事する方法を考えたらこれしかなくて……」
一花の目から色が抜けていくのがわかった。
拒絶と戸惑いが、その表情に痛いほど浮かんでいる。
「……最低。ほんと、最低ですね、九条さん」
「うん。知ってる」
吐き捨てるような言葉に、私はただ静かに頷くしかなかった。
それが当然の反応だと、分かっていたから。
しばらくの沈黙が落ちる。
ただ風の音だけが、遠くで小さく鳴っていた。
やがて、一花が小さく息を吸った。
「……そんなの、本気で気持ち悪いし、正直、聞きたくなかったです」
彼女の声は震えていた。
でも、それでも引かなかった。
「でも、私は……引き受けました。
貴女の“餌”でいるって、自分で決めた。
だったら……今さら、条件がどうだろうと、降りる理由にはなりません」
一花が言葉を吐くたびに、胸の奥が締めつけられるようだった。
嫌だと思っているのに、それでも私のために受け入れようとするなんて――。
「一花……」
「誤解しないでください。別に許したわけじゃないですよ。むしろ、今まで以上に最低だと思いましたから」
ふっと、小さく息をつく彼女の目は、怒りとも、悲しみともつかない色をしていた。
「でも……生きるために、仕方ないなら。
私はもう、その“仕方ない”の中にいるんです。
……だったら、ちゃんとやってください。
自分が生き残れるように」
彼女の瞳は、震えながらも、真っ直ぐだった。
まるで、自分の嫌悪や恐れを、ぎりぎりのところで呑み込んで、そこに立ち続けているように見えた。
私は、思わず目を伏せる。
そんな一花を前にして、感謝すら口にするのが怖かった。
「……ありがとう。一花」
言葉にした瞬間、目の奥が熱くなるのを感じた。
その気配を悟られないよう、前髪の影で隠す。
私が泣いてはいけない。
悪いのは私で、被害者である彼女の前では絶対に……
「あーもう、ほんと……。気分が変わらないうちにさっさとして下さい。性的興奮でしたっけ?嫌いな人相手に、どうやればそんな感情を抱くかは知りませんが」
一花は苦々しげにそう言いながら、顔を背けた。
「それなんだけど……」
私は少し迷ってから口を開く。
「一花、私と――キスできる?」
「……は?」
間が空いた。
その後に返ってきたのは、鋭く、即座な拒絶だった。
「それだけは絶対に無理です」
あまりにも早い反応に、私は少しだけ驚いた。
さっきまで、どんなことでも引き受けるみたいな顔をしていたのに。
「ならやっぱり、一花には苦しんでもらうしかないよ……」
「具体的に、どう“苦しむ”んですか。それによっては、まだマシかもしれないので」
静かに、けれどどこか投げやりな声。
私はゆっくりと、自分の尻尾を持ち上げた。
蕾のように閉じられたその先端が、ふわりと一花の目の前に差し出される。
そして――花が咲くように、尻尾の先がゆっくりと開いた。
中から現れたのは、人間の舌に似た、柔らかく蠢く器官。
一花の肩がぴくりと震えるのを、私は見逃さなかった。
「この尻尾となら、キスできる?」
沈黙が落ちる。
一花はしばらく何も言わず、その異形をただ凝視していた。
「……質問の意図はよく分かりませんが」
やがて、彼女は小さく吐息を漏らす。
「まぁ。口じゃないですし。それしかないなら……」
その声は、諦めと覚悟がないまぜになっていた。
「この尻尾の先端はね、特殊な毒があるんだけど
、それを飲んでもらったら大体解決するかも」
これは出会ったばかりの時に、一度飲ませた事がある。
公園で襲った時に、私が効率よく生命力を回収できるようにするため使ったけど、たぶん一花は忘れてしまっている。
「毒の効果の説明は――」
続きを言おうとすると、彼女はさっと手を上げて、私の言葉を制した。
「言わないでください。死なないなら、もうどうでもいいです。
……それより昼休み。あと十五分くらいしかないので、手早くさっさと済ませましょう」
そう言うと彼女は、私の腕をぐいと引いて、校舎裏の茂みのそばに腰を下ろした。
「……準備はいい?」
「どうぞ」
覚悟を決めた目だった。
私は静かに頷き、彼女をゆっくりと押し倒す。
「あの、わざわざ私を地面に縛りつける必要ありました?」
「もしかしたら、一花が毒に我慢できなくて暴れ出しちゃうかもしれないから……」
「はぁ……そうですか。分かったので早くその尻尾を私の口に近づけて下さい」
まるで苦い薬を飲む前のような、静かな覚悟がそこにあった。