フルート
八月十五日の早朝、別荘へ食材を配達してくれる近隣の商店の主人が玄関のベルをならしても、穂香さんが受け取りに出てこなかった。
ドアには鍵がかかっていて、主人は庭にまわった。テラスの掃き出し窓は開け放たれていて、風でカーテンがゆれていた。テラスに近づいていくと芝生に血のついたナイフを発見して、あわてて室内に入った。
すると、リビングを入ってすぐに宗平さんがうつぶせで倒れていて床には血だまりができていた。奥には穂香さんがあおむけに倒れていて、その胸にはナイフで刺され赤く染まっていた。
室内は争った跡なのか壁紙には血しぶきが飛び、レコードプレイヤーが床に落ちていた。プレイヤーの蓋には宗平さんの血に濡れた手形が残っていたそうだ。
検視の結果、ふたりの死亡推定時刻は十四日深夜。ナイフに刺されたことによる失血死。
犯人は、空いていた掃き出し窓から侵入しふたりを襲ったとみられる。室内から金目のものは盗まれておらず、強盗ではなく怨恨による殺人が考えられた。凶器とみられるナイフはキッチンにあった果物ナイフだ。ナイフの指紋はふきとられていて、室内からも夫婦の指紋以外検出されなかった。
「強盗じゃないの?」
あの当時、この事件は連日報道されていたがわたしは一切見ずに、勝手に強盗だと思っていた。
「室内から、何もなくなっていなかったんだ。親父から聞いた話だと、犯人はまず姉貴を刺して、その後宗平さんともみあいになった。宗平さんは刺されたあと、テラスから逃げる犯人を追いかけたけど力つきた。犯人は途中でナイフを落としていったそうだ」
「恨みってことは、ふたりはたくさん刺されてたってこと?」
頭の中で、血だらけのリビングに倒れているふたりを想像してわたしの声が震えている。
「いや、姉貴は心臓を一突き。ほぼ即死だったようだ。宗平さんは倒れた姉貴を抱き起こしたのか、ふたりの服にお互いの血がついていたそうだ。そして、宗像さんは腹部に一か所と心臓付近に一か所の計二か所を刺されていた」
凄惨な事件の状況に、和室に重い沈黙が流れて、また藤原くんに声をかけられる。
「大丈夫か?」
「大丈夫――」
今度は返事をして藤原くんの顔を見ると、大丈夫かと問うた人の方が大丈夫ではない顔色をしていた。冷静に話していても、肉親が殺される様子を口に出して言うほど精神をすり減らす行為はない。
「ごめんなさい。ひどいこと言わせたね。藤原くんがまとめたものを読めばいいだけだった」
「俺の方こそ、ごめん。清水さんは、こんなことわざわざ知らなくてもよかった」
気遣う藤原くんの気持ちが痛いほどわかり、わたしは首をふる。
「わたしにも、何か手伝わせて。唯ちゃんにお父さんとお母さんと暮らす未来をあげたい」
本心から、その時わたしはそう思ったのだった。
唯ちゃんの人形が何者かにいたずらをされてから二日後。ちょうど六年前の鎌倉の別荘にやってきて一週間たった。この一週間、お天気は快晴だったがはじめて雨が降った。
朝からしとしとと降る雨の湿気が室内にも入り込み、わたしの体にまとわりついてとても不快だった。外で遊べない唯ちゃんも機嫌が悪い。
三時ごろのことだ。おもちゃ部屋で遊んでいても、ぐずる唯ちゃんにわたしが手をやいていると、お昼寝をしていた穂香さんが寝室から出てきて助け舟を出してくれた。
「ゆいちゃん、ピアノを弾いて遊ばない?」
さっきまでむくれていた唯ちゃんは、ツインテールに結んだ髪をゆらしながらピアノが弾けると喜んだ。
「唯ね、おじいちゃまにピアノ習いたいって言いたかったんだけど、おじいちゃまいつも忙しいから」
唯ちゃんのおじいちゃまは、芸能事務所の社長さんだ。穂香さんも現役の時はその事務所に所属していたらしい。
「じゃあ、ここから帰ったらお願いしたらどう? きっと習ってもいいよって言ってくれるわ」
宗平さんもいつのまにか書斎から出てきて穂香さんと唯ちゃんのやり取りを聞き、再び書斎に入りバイエルを持ち出してきた。
「ほら、こんなのがあったよ。むかし穂香が使っていた本じゃないの?」
「まあなつかしい。さっ、唯ちゃん弾いてみましょう」
木目のアップライトに並んで座り、ふたりはピアノを弾き始めた。真剣な表情の唯ちゃんは、一の指二の指とバイエルに書かれた指番号の順に鍵盤を押していく。その眉間には、どんどんしわがよっていった。
ポロンポロンと、奏でられるたどたどしい旋律が雨音と追いかけっこをする。しばらくして、緊張がほどけたように唯ちゃんは大きな声を出した。
「ピアノ、難しい! 指がこんがらがっちゃう」
「ふふっ、そうね。指が疲れちゃったわね。じゃあ今度は、ゆいちゃんが好きに弾いてみましょうか」
穂香さんの提案に、唯ちゃんの眉間のしわはあっという間にとれて、ぱあっと明るい顔つきに変わる。
「いいの? じゃあ唯が作った曲聞いて」
そういうが早いか、でたらめに鍵盤をたたき始め、本当に自由に弾き出した。その無邪気な演奏に穂香さんが即興で、伴奏をつけていく。ふたりの演奏は息がぴったりで、唯ちゃんのでたらめな旋律が元気な曲に変化していく。
「楽しい! ねえ、なっちゃんもいっしょに弾こう」
突然唯ちゃんにふられ、わたしはあわてた。
「ピアノは小さいころ習ってたけど、今は全然弾けないから」
そう言って断ると、唯ちゃんは見るからにがっかりした顔をした。そんな顔をされると、年長者として申し訳なくなるわけで……。
「えっと、ピアノは無理だけどフルートは吹奏楽部に入ってたから吹けるけど」
唯ちゃんの気持ちになんとか答えようとフルートを持ち出したが、ここにあるわけがない。余計唯ちゃんをがっかりさせる結果になると、わたしは自分の後先考えない発言を恥ずかしく思った。
「まあ、フルートが吹けるのね、なっちゃん。ここにあるわよ。むかしここには、父の音楽仲間がよく集まってミニコンサートを催してたの。待ってて」
穂香さんは、小走りで書斎へ入っていき細長いフルートケースをかかえて出てきた。手渡されたケースをあけると、三つに分解されたフルートが紺色のビロードに保護され収まっていた。