行方
「姉貴が高校にあがると、親父の芸能事務所に入ったんだ。演劇はもともと興味あったみたいだし、何より役になりきるのが楽しいってよく言ってたな」
わたしは映像の中で見た穂香さんを思い出す。穂香さんが画面に出てくるだけで、空気が変わったような気がした。顔がきれいなだけの女優ではない。父の原作の映画が公開され、試写会に言った時母がこぼしていた。
『この主役の人若いのに、すごく上手ね』
その時はまさか、父と不倫しているとは露ほどにも思わなかったけれど。
「親父もすごく期待していたのに、あの不倫騒動で引退。父親としても頭にきただろうけど、事務所の社長としても稼げる役者をひとり失ったって思ってたんだろうな」
わたしには関係のない藤原家のことだが、その原因は父にあるわけで……。なんだか、いたたまれなくなってきた。
「なんか、ごめんね」
「なんで、なつが謝るんだよ」
まだつないでいた手をぎゅっと握られる。大きな手にすっぽりと包まれた手に汗をかいていたが、もう気にならなかった。
「だって、うちの父が悪いから」
「男と女の関係に、どっちが悪いとかないと思う。ただ、恋に落ちただけで」
与謝野晶子の歌碑を見つめる藤原くんの横顔は、憂いをおびている。まるで誰かに恋をしているような。ふと、穂香さんの言葉を思い出す。
『あきくんはこっそりあなたのこと見てるんだから。とっても愛しい目をしてね』
愛しい目というのは、こういう眼差しのことだろうか。でも、やはりその眼差しを向けられているのは、わたしじゃない。
藤原くんの愛しい目線の先には、誰がいるんだろう。そんな目で見られる女の子がすこし、羨ましいと思う自分に驚いていた。戸惑いをごまかすように口をひらく。
「わたしは、男女の仲なんてよくわからない。やっぱり父が悪いとしか思えない」
ふと、歌碑を見つめていた藤原くんの視線がわたしをとらえる。
「なつは、男と付き合ったことないのか」
「えっと――」
答えにつまる。正直に言う必要なんてないけれど、まっすぐわたしを見つめる琥珀色の瞳に嘘はつけないと思った。
「恋愛なんて、するもんじゃないとは思ってる」
一瞬、琥珀色の瞳がわずかに揺れた。
「それって、やっぱり姉さんたちの不倫のせい?」
「違うって言えば、嘘になる」
恋愛なんてものがあるから、不倫というものが存在する。それが、母を苦しめたのはたしかだ。ワンピースのポケットに入れている懐中時計が、悲痛な叫びをあげたような気がした。
恋愛の先に、母はいったい何をしたのだろう。この懐中時計を持って、鎌倉に来て何をしたのだろう。答えは、もうすぐわかるかもしれないが、知るのがとても怖い。
懐中時計のネジさえ巻かなければ、元の時代に帰れるかもしれない。父と穂香さんが殺され、母も亡くなった世界に。誰が犯人かわからない世界に。
「俺も、そんな恋愛経験豊富じゃないけど、恋愛ってきれいごとじゃないってことは、宗平さんの小説から学んだ」
わたしは不思議に思う。藤原くんは、たくさんの女の人と付き合ってきたはずなのに、どうして恋愛経験が乏しいというのだろう。訊かなくてもいいのに、疑問は口からこぼれていた。
「藤原くんは、モテるのに恋愛経験がすくないの?」
藤原くんはばつが悪いのか、わたしから視線をそらせた。
「まあ、こんな顔だからモテるけど、姉貴たちの事件の後、何もかもどうでもよくなって遊び回ってた。俺も恋愛なんかするもんじゃないって思ってた」
「じゃあ、わたしといっしょだね」
すこし安心してわたしは言ったのだけれど、藤原くんは再びわたしを見て絞り出すようにして声を出す。
「今は、そう思ってない」
何を? 何を、そう思っていないの?
答えは訊かない方がいい。今のわたしに都合が悪いような気がする。ますます、隠しごとに罪悪感を持つことになりそうで、わたしは怖い。
「もう、そろそろ帰ろうか。ちょっと、疲れちゃった」
「あっ、ごめん。疲れたよな。なんか唯がいないと、調子狂う。変な話ばっかりして悪かった」
藤原くんは、とことんわたしの嘘に気がつかない。こんなにあっさり信用されたら、ますます後ろめたくなる。そんなに、わたしを見て心配そうな顔をしないで。
わたしの母は、あなたの大事なお姉さんを殺したかもしれないのに。
「そうだね、やっぱり唯ちゃんがいないとなんか、さみしいね」
唯ちゃんの笑っている顔を、いま無性に見たくなった。
わたしたちはつないだ手をそのままに、来た道をたどって家路につく。太陽は天頂をすこしすぎたところで、ギラギラと地上を照らしていた。ランチでもするかと聞かれたけれど、わたしはあの別荘に帰りたかった。
早くあの狭い部屋にこもって、無心でフルートを吹きたかった。
石柱の建つ門をくぐり木立の下を歩き玄関のドアを開けたら、藤原くんはようやくつないだ手を離してくれた。
「ただいま」と言いつつ、リビングに入っていくと、穂香さんが慌てた様子でキッチンから飛び出てきた。
「ゆいちゃんが、どこにもいないの。どうしましょう」
わたしは、藤原くんと顔を見合わせた。
「どうしよう、どうしよう。ゆいちゃんにもしものことがあったら――」
パニックになっている穂香さんを落ち着かせ、事情を聞き出す。
朝にわたしたちを送り出してから、唯ちゃんはひとりで二階のおもちゃ部屋にこもって遊んでいた。昼食の時間になったので、呼びにいくと姿がなかったという。
「外は、探しましたか」
藤原くんの焦った声が、わたしの鼓動を加速させる。穂香さんは、力なく首をふった。
「今まで、家の中を探していて外は見てないの」
「俺、外を見てきます。敷地の外に出て行ったのかも」
藤原くんが身をひるがえし、リビングから出て行く背中を茫然と見ていた。
ひょっとしてわたしたちの後を追って、高徳院へ行こうとしたのだろうか。でも、帰る道すがら唯ちゃんの姿を見なかった。
「わたしは、庭を探してみます」
テラスに出て、庭へ降りた。庭を見回しても隠れるような場所はない。まさかと思って樫の木の下までやってきて、見あげて名前を呼んでも返答はなかった。
唯ちゃんは、人形じゃないんだからこんなところにいるわけがない。じゃあ、どこに行ってしまったんだろう。わたしたちが出かける時、唯ちゃんは行きたくないと言っていたけれど、やはり本当は行きたかったんじゃないだろうか。
海でわたしたちに気をつかったように、恋人同士の邪魔はしてはいけないという、大人ぶったふりをまたしたんじゃないだろうか。
唯ちゃんの本当の気持ちに気づいてあげられなかった。わたしは藤原くんとふたりきりという、気づまりな自分の感情ばかりに気をとられていた。
ごめん、唯ちゃん。こんな情けないわたしはやっぱり姉だなんて名乗り出られない。せめて、泣いているだろうあなたを一刻も早く見つけてあげたい。




