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潮のにがみ

 日焼け止めをぬるだけですっかり疲れてしまったけれど、海にいざ入ってみると予想外に楽しかった。


 わたしは、海へ遊びに来たことなんて今までなかった。母ひとりで子供を海に連れていくということは、難しかったのだろう。祖父母もすでに他界していたし、母に兄弟もいなかった。


 だからわたしはこの年で、海を初体験した。海の水は冷たくて本当に塩からいと身をもって体験した。


 アニメキャラがプリントされた小さい浮き輪には唯ちゃん、大きい浮き輪にわたしがつかまりプカプカ漂っていると、大きな波がきた。


 どう対処したらいいかわからず、海水がはねてもろに顔にかかる。


「にがーい!」と顔をくしゃくしゃにして、わたしは大きな声で叫んだのだ。

 その言い方が子供っぽくておもしろかったのか、唯ちゃんの浮き輪につかまって泳いでいた藤原くんに思いっきり笑われた。


「だって、海はじめてなんだもん」


 そう言うわたしを唯ちゃんが気づかってくれる。


「お目目に入ったら、痛いからね。気をつけて」


「えっ、そうなの――」と言って、つむっていた目を反射的にあけると塩水が目に染みて本当に痛かった。


「なにこれ、痛いんだけど」


 とにかく痛くて、また目をつむって「痛い、痛い」と大騒ぎしていると頬に大きな手がふれた。


「ばっかだなー。ぬぐえばいいんだよ」


 そのセリフとともに閉じられたわたしの目を、目頭から目じりへ向かって何かがそっとなでていった。ぱっと目をあけると、もう目は痛くはなかったけれどすぐ目の前に目じりをさげた藤原くんの笑顔があった。数秒みつめ合うと、するどく唯ちゃんのツッコミが入る。


「もう、ふたりだけの世界に入らないで! 唯がさみしい」


 ごめんと、ひとこと謝ったけれど謝る必要があったのかどうか自分でも疑わしい。けして、ふたりの世界を築いていたわけじゃない。


 ここへ来る道中、早く帰れる口実ばかり考えていた。だけど、熱くて真っすぐな太陽光にさらされ、嘘偽りのない顔をしてわたしは笑っていた。


 しばらくして唯ちゃんが海からあがりたいと言った。浜辺にあがると、やたらと体が重く感じる。海の中では浮力で体も心も軽くなっていたのかもしれない。


 疲れたからと、わたしはパラソルの下のレジャーシートに座り込む。

 唯ちゃんはまだまだ遊び足りないのか、わたしたちのパラソルから少し離れた波打ち際で砂遊びをはじめた。


「大きな、お城つくるから見ててー」


 わたしは手をふり、

「大きいのつくってね。シンデレラ城ぐらい」

 と唯ちゃんに無茶ぶりをしていた。どうも、この抜けるような青空の下では気分も天井知らずに明るくなっているようだ。


 そんなわたしの横に、藤原くんが腰をおろした。さっきまで、きょろきょろとあたりの家族連れを見まわしていたのに、急にわたしの隣へやってきた。


 開放的になっていた気分はとたんに居心地悪くなり、羽織っていたパーカーの裾をいじくり始めた。黙ったままだとことさらお尻のあたりがむずむずするので、おずおずと口を開く。


「ここが、六年前の世界なんてやっぱり信じられないね。信じられないけど――」


 後に続く言葉は飲み込んだ。


『殺された父と穂香さんが、生きてるんだから』


 健康的な湘南の海に似つかわしくない話題だと思った。思ったけれど、ここにわたしたちがいる目的を思い出して、恐る恐る話題を藤原くんへふってみる。


「あの、犯人のめぼしとかついた?」


 明るく輝いていた太陽が、一瞬陰ったような気がした。


「いや、まだわからない。刺し傷から考えても、怨恨か強盗かも判断できないし」


 別荘の中は荒らされていなかった。しかし、ふたりの遺体には刺し傷が少なすぎる。普通、怨恨ならその恨みから無数の刺し傷があるはずだ。むかし読んだミステリーで、怨恨による殺人の描写を読んで気分が悪くなったことを思い出した。


「ごめん。こんな話、ここでするもんじゃないな」


 わたしが始めた話なのに、藤原くんは謝ってくれる。わたしは、力なく首をふった。


「もし、あのふたりが殺されなかったら、わたしたちの人生も変わるかな」


 普通なら、『もし』とついた仮定のはなしは実現不可能なことなのだけれど、今の状況は違う。わたしたちは、未来を変えることができる。


「そうだな、もし未来が変わったら。唯は確実にあんなひねくれた性格じゃなく、自分の気持ちを素直に言える子供になってたと思う」


 唯ちゃんはわたしから見て、思ったことを口にする素直な子供だと思っていた。


「あいつは、ずっとお手伝いさんに育てられてきた。それも同じ人じゃなくて、大人の都合で何人もの人に育てられた。だから、大人の顔色ばかり見るようになったんだ」


「えっ、藤原くんのお母さんは?」


 穂香さんと藤原くんのお母さんならば、まだ若くて子育てできる年齢だろうと勝手に予想していた。


「いや、うちの母親は俺が生まれてすぐに亡くなってるんだ。だから俺にとって姉貴が母親がわりだった」


 ただ姉の死を回避しようとしているのだと思っていたら、穂香さんは藤原くんにとって姉以上の人だったのか。なおさら、この間のわたしの暴言を取り消したくなった。


「なつは、何か変わる?」


 話を振られて、一瞬躊躇して口をついたのは子供じみた願望だった。


「お母さんに、ずっと生きていてほしい」


 さきほど海の中で味わった潮のにがみが口の中によみがえり、在りし日の母の面影が脳裏に再生される。


 母は父が死んで一年後にガンで亡くなった。それからわたしは、学校の先生の助けを借りながらひとりで生きてきた。


 ほとんど親戚もなかったが、経済的には恵まれていた。母の生命保険もあったし、住む家もあった。


 大学進学を悩んでいた時に、父からの養育費がわたし名義の貯金通帳に残っていることに気づいた。


 養育費は毎月かなりな額を、父が支払っていた。手つかずのまま残っていたそのお金で、わたしは大学に通えている。


 世の中には両親をなくしもっと大変な思いをしている人がいる。わたしは経済的に困窮せず普通の生活がおくれていることに感謝しつつも、やっぱり母が無性に恋しくなる時がある。



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