愛の挨拶
久しぶりにフルートの堅く冷たいボディにふれると、何も考えなくても手が勝手にフルートを組み立てていた。
穂香さんがわたしに楽譜を手渡してほほ笑む。
「何か一曲、合わせてみない?」
吹ける自信なんてなかったけれど、パラパラとめくった楽譜にエルガーの『愛の挨拶』を見つけた。母がこの曲を好きで、よく吹いてとせがまれた曲だった。
ページを開いたまま、楽譜に見入るわたしは穂香さんの声ではっと我に返る。
「『愛の挨拶』ね。なっちゃん、吹いてみて」
「えっと、中学でフルートはやめたから――」
わたしが言い淀んでいると、二階にいた藤原くんがピアノの音につられたのかリビングに入ってきた。
「聞かせてよ。なつのフルート、俺も聞きたい」
『なつ』という響きに心臓が跳ねた。恋人設定なのでお互いの呼び名を『なつ』と『あきくん』に決めたのだけれど、いまだに呼ぶのも呼ばれるのも慣れていない。
「唯も聞きたい。その笛おっきくてキラキラ光ってるから、すっごくきれいな音でそう」
唯ちゃんが、はじめて見るフルートに目を輝かせてせっついた。これは、断れない流れだ。観念して、こくんとうなずくとピアノの前に進み出た。
譜面台に穂香さんが楽譜をおき、伴奏を弾き始めた。フルートを構え、息を大きく吸い込むと歌口にそっと息を吹き込んだ。
ブランクがあったのに、案外いい音が鳴った。小学五年生から吹奏楽部に入って、毎日さぼらず練習した成果だろうか。でも、結局は中学二年の夏でやめたのだけれど。
緩やかなシンコペーションで曲は始まり、甘く幸福に満ち溢れた有名なメロディにさしかかる。澄んだフルートの音色がやさしく室内の隅々まで響いていく。穂香さんのピアノの伴奏がしっかりわたしをリードしてくれ、安心して吹くことができた。
ラスト、長くのびる高音を吹き終えると、拍手が聞こえてきた。
「すごーい、なっちゃんかっこいい! 唯、ピアノよりフルート習おうかな」
唯ちゃんが抱き着いてきて、わたしを盛大にたたえてくれた。宗平さんも藤原くんも、拍手を贈ってくれる。六年ぶりに吹くフルートの音は心地よかった。おまけに聴衆の拍手つきなんて、なんのご褒美だろう。
でも、この気持ちのいい演奏はピアノの伴奏あってのことだと、お礼を言おうと穂香さんに向き直る。すると、穂香さんはピアノの椅子から立ち上がりわたしを抱きしめた。
長い穂香さんの巻き髪が、わたしの顔にかかりやさしい香りに包まれる。
「よかったわ。すごくいい音が鳴ってた。わたしもこの曲好きなの。この曲は、エルガーが婚約記念に婚約者のアリスに贈った曲なんですって――」
ここまで言うと、穂香さんはわたしから体を離し形のいい唇をすこしあげてふふっと笑った。そのかすかな笑みは、薔薇のつぼみがほころぶように憎らしいほど可憐だった。
「東吾さんは、この曲をわたしに聞かせてプロポーズしたのよ」
――この曲をわたしに聞かせてプロポーズしたのよ。
恥ずかしそうに言う穂香さんのセリフが、頭の中で無限にリピートされ体は氷を飲み込んだようにどんどん血の気が失せていく。
わたしの母は、『愛の挨拶』を聞くといつも言っていた。
――お父さんは、『愛の挨拶』を口ずさみながらプロポーズしてくれたの。
めったに返ってこない父だったのに、さも愛おしそうに語る母の姿が今でも思い出される。母は離婚した小説家の父の悪口を、一切言わなかった。母に対してあんなにひどいことをした男なのに。
子供のわたしは母に洗脳されて父はすばらしい男だと信じていた。でも、思春期になるにつれ母の言葉の裏を勝手に想像して、自己防衛のため父に対して無関心を装うようになった。
二十歳のわたしは今、父のしたことを思うと吐き気をもよおすほど嫌悪感を覚えるというのに。
「そうだったな。エルガーの愛の力を借りないととてもじゃないけど、君にプロポーズできなかったのさ」
宗平さんは、歯の浮くようなセリフをさらりと言ってのける。そのほほ笑む目じりには、深くしわが刻まれていた。
やめて……。やめて、やめて! そんなセリフ聞きたくない。
「こんなに上手に吹けるのに、どうしてフルートやめてしまったの?」
穂香さんは悪意のない澄んだまなざしで私に問いかける。この人の美しさは、こんな無神経なことを口にしても損なわれないんだ。
むしろ、穂香さんの無神経さをなじっているわたしの方が、汚れているのかもしれない。
誰のせいでフルートをやめる羽目になったと思ってるの。
あとちょっとでコンクールだったのに。
毎日あんなに練習していたのに、わたしはコンクールに出ることさえできなくなった。全部、全部あなたたちのせいだ!
罵詈雑言を浴びせ、本当のわたしの名前を言って天使のような笑顔をズタズタにしてやりたい……。
穂香さんが、かすかに首をかしげわたしを見つめる。
「どうかした? すごく、顔色が悪いわよ」
「……なん、でもない、です」
わたしの口からもれた言葉は、たったそれだけだった。
「久しぶりに、フルートを吹いて疲れたんじゃないか? さあ、二階で休むといいよ。素敵な演奏をありがとう」
どこまでも優しく紳士的な宗平さんに促され、わたしは力なく微笑むと螺旋階段をのぼった。ぐるぐるまわる螺旋階段。一歩一歩、のぼるたび耳障りなきしみが内耳をゆさぶる。
なんで、わたしこんなところにいるんだろう。ガラス戸をあけ和室に入ると、のろのろと奥へ進み出窓の前で立ちすくむ。雨はいつの間にか激しくなっていて、音をたて打ち付ける大粒の雨が不透明な膜のようにガラスの表面を覆っている。
昨日までこの窓から望めたからりとした夏空は、ゆがんだ鉛色の不確かな景色へと変わっていた。