第65話 独白。
櫻子の目は虚ろで、右手には果物ナイフが握られていた。どこから持ってきたのだろう。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
何か声をかけなければならない。
だけれど、なんて声をかければいいか分からなかった。
へたに声をかけたら、櫻子が飛び降りたり、ナイフで手首を切るような、そんな悲惨な未来しか見えなかった。
理屈じゃなかった。
俺は、俺の一番辛い記憶を話そうと思った。
櫻子は、全部をさらけ出してくれた。
だから、俺も同じことをすべきだと思ったのだ。
俺の中にも、膝を抱えたままうずくまっている子供のままの自分がいる。
一生、誰かに話すつもりはなかった、深い深い記憶。
「櫻子。返事はしなくていい。ただ、そこに居てくれ。これは、誰にも話したことはない俺の昔話……独り言だ」
俺の母親は、俺が生まれてすぐに亡くなった。
父さんには、ずっと、病気で亡くなったと聞いていた。
でも、紫音が生まれる少し前に聞いてしまったのだ。
あの時もそう。
今日みたいな夜だった。
子供の俺は夜中に起きてしまって、父さんを探した。
すると、仏間から灯りが漏れていて、父さんがいた。今思えば、母親の……お母さんの誕生日か命日だったのかも知れない。
仏壇の前の小さなスペースに、グラスを2つ置いてお酒を飲んでいた。
父さんは泣いていた。
「なぁ。深雪。あの時の俺の決断は間違っていたのかな。今でもあの光景が目から離れないんだ。帝王切開で手術室が血だらけになって。陣痛が止まってしまって、先生に、どちらかを選べって言われた」
父さんは酒をすすった。
「俺は決められなくて。深雪を助けて欲しいと思った。でも、お前は言ったよな。颯太を助けて欲しいって。……はは。今思えば、あれが、お前の最後の言葉だったな。俺さ、まだあの時のことを毎晩のように夢で見るんだよ」
父さんは、もう一つのグラスにも酒を注いだ。
「なぁ、おれ、再婚しようと思うんだ。ちゃんと颯太を大切にしてくれる人だと思う。……深雪、俺を許してくれるか?」
俺は……、まだ子供の頃に見たその光景を、今でも鮮明に覚えている。
聞いた時は、意味がよく分からなかった。
でも、成長するにつれ、その意味が段々と分かってきた。
俺の命は……。
俺は、母親の命を犠牲にして生を受けたのだ。
そして、そのために、父さんをずっと苦しめてきた。父さんが、お腹に紫音がいた母さんを受け入れたも……、その経験があるんじゃないかと思っている。
俺は両親を苦しめて生まれた。
だから、立派な人間にならないといけないと思った。だから、……必死に勉強して今の大学に入った。
でも、今でも。
到底、対価に釣り合っているとは思えない。俺の存在は、とてもアンバランスだ。
今でも、そう思う。
生きている価値がないのではないかと思う。
生きていていいのだろうかと、泣きたい気持ちになることがある。
だから、俺の事を受け入れてくれる、全肯定してくれる、きらりや紫音と出会えて本当に救われたんだ。
独り言がひと段落すると、櫻子がこっちを覗き込んだ。俺は言った。
「誰かが居なくなると、その場所にはポッカリ穴があくんだよ。周りの人たちは、その傷跡が疼くんだ。残された人は、ずっと、終わりのない自問自答をすることになる。櫻子も俺を困らせたいのか? ……そうじゃないなら、こっちにおいで」
自分ながらにズルい言い方だと思った。
でも、自分自身の本当の答えは、櫻子がこれから見つけていけばいい。
すると、櫻子は窓をあけて飛び込んできた。
櫻子は俺の胸に顔を埋めている。
「……全部を知っても、わたしの傍にいてくれる?」
俺も、きらりや紫音がしてくれたように、櫻子の支えになりたい。
「あぁ。約束したじゃん。俺は居なくならない」




