第40話 そんな櫻子はもうお仕舞い。
櫻子さんの手は震えていた。
俺を直視したまま言った。
「は、ははっ。だめだ。好きになっちゃう……。辛いだけなのに、好きになっちゃう」
一瞬だが、彼女は、せせら笑っているように見えた。
え。
ちょっと意味が分からない。
櫻子さんはゆっくり瞬きすると、可愛い笑顔に戻り俺をまた真っ直ぐ見つめて言った。
「ね。颯太くん。わたしね、このヌイグルミ。今までもらった物の中で、一番嬉しいよ。どんなに高価なものより嬉しい」
「それはよかった。櫻子さ……」
すると、櫻子さんはぷぅっと膨れた。
「さんはいらない。櫻子って呼んで」
「わかった」
「あーあ。君とは、あの子にあてつけ……、ちょっとした憂さ晴らしだったのになぁ。困っちゃうよ」
あの子?
どういうことだ?
憂さ晴らしって……。
俺はパンチングマシーン的な存在?
櫻子は俺の左腕に抱きつくと、猫のように顔を擦り寄せながら、俺の肩に頭を乗せた。
「颯太くん……、あなたに彼女がいるのは知っている。それを知ってて言うね」
「なに?」
「あのね、わたし、大学卒業したらお見合いさせられるんだ。それでね、それで。たぶん、また神楽坂さんに戻るの。これからずっと。死ぬまでずっと。誰にも名前を呼ばれない神楽坂家の奥方。正直、相手のことなんて期待していないし。神楽坂さんの相手は誰でもいい」
「うん」
「でも、櫻子の好きな人は自分は決めたい。わたしを見て、わたしの名前を呼んでくれる人と結ばれたい。颯太くん。あなたの時間をちょうだい。わたしの最後の自由時間を貴方と共有したいの」
「それってどういう」
「ラブホテル……いってみたい。普通の子みたいに、家のことなんて忘れて、貴方とそこで……、付き合いたてのカップルみたいに過ごしたいの。でも、そんな櫻子は今日で終わり。あなたにまとわり付くこともない。後腐れなくていいでしょ?」
「うーん……」
「もう。いくじなしっ。みんなの憧れの神楽坂さんの処女をあげるって言ってるんだよ?」
「そんなこと言ったって、そのあと俺が辛くなるだけじゃん」
「わたしのこと、いらないの?」
「そんなことない。でも、ますます好きになっちゃったら辛いよ」
「……貴方が本気なら、わたしのこと妊娠させていいよ。あかちゃんできたら、お見合いの話は永遠になくなると思うし……勘当されちゃうかもだけど」
それは違うだろ。
俺は櫻子の肩を掴んだ。
「えっ」
櫻子は目をまん丸にした。
「櫻子。それは違う。順番が違う。君の人生は君のものだ。そんなくじ引きみたいに……、俺に委ねるのも、子供に委ねるのも違う」
「そんなことは分かってる……。でも、どうしようもないんだよ!!」
「それにさ、うまく言えないけれど、神楽坂の家がイヤって言って、自分らしくいるために神楽坂の名前を出すのも違うっていうか」
「……颯太くん、何も分かってない!!」
櫻子は走り去ろうとする。
「ちょっと待てよ!! おれはどうせ分かってないよ。でも、櫻子のことが心配なんだよ!!」
俺は彼女の手首を掴んだ。
すると、櫻子は俺の胸に飛び込んできて、次の瞬間、俺と唇を重ねていた。
彼女のキスは、思いやりでも元気づけるでもなく、「わたしを助けて」という願いのように思えた。
数秒して唇を離すと、櫻子は言った。
「…… ルルララ、リリララ、幸せの魔法顕現……颯太くんが、わたしをどこかにさらってくれますように……」
「えっ……」
「……なんでもない。わたし、今日のところは帰るね。……でも」
櫻子はまたキスをしてきた。今度は濃厚に情熱的に舌を入れて来た。
「んはぁっ……、今日で終わらせるのがイヤになっちゃった。だから、櫻子の最後のオフもやめっ。もう会わないとかもしない。わたし、君のこと、絶対に手に入れるから」
そう言うと、ペロッと舌を出した。
「わたしのファーストキス、今日のお礼にあげる」
そういうと、櫻子は帰って行った。
俺は唇を押さえたまま、茫然自失した。
俺が帰り道を歩いていると、櫻子からメッセージがきた。
「今日はありがとう。神楽坂家の女子は、キスしたら赤ちゃんできるんだ……パパさん責任とってね♪」
うそつけ(笑)
……甘えん坊で勝ち気で、自分勝手で表情豊か。あれが、神楽坂 櫻子の本当の姿なのだろう。
俺は立ち止まり、自分の唇に触れた。
そこには、まだ神楽坂 櫻子の熱が残っているようだった。




