300円おじさん
深夜2時になると、僕はひっそりと家を出る。父と母と僕、3人が暮らすマンションの一室から、そっと抜け出す。
鍵のつまみを、ゆ~っくり回して、カチっという音が響かないように気を付ける。ドアノブも、ゆ~っくり回す。ちょっとずつ力を加えてドアを開ける。
冷たい風がドアの隙間から入って来て、くしゃみしそうになるけど、ベロをかんで我慢する。体が外に出たらまた、ゆっくりドアを閉めるのだ。
僕は高校生。けれどもこの深夜徘徊は、夜遊びのためじゃない。もっと崇高な目的がある。
マンションの階段を静かに降り、街へ飛び出す。
誰も僕を止められない。今夜も始まる。祝祭が、始まる。
目的地は自動販売機だ。自宅から徒歩5分。なんてことない自販機。歩道の脇に設置された普通のもの。今夜も夜の闇から僕らを守る光の守護神。
その自販機のおつりが出てくるスペースに、300円を「入れる」。ジュースを買うためにお金を入れるあの横長の穴「ではない」。「おつりスペース」に「入れる」のだ。
そうして、少し遠くの電柱に隠れる。息をひそめ、闇と同化する。
しばらくすると、人影が見える。遠くの方から誰かがやってくる。ぼんやりとした輪郭は近づくにつれてはっきりとした線を描く。街灯に照らされたそれは僕の待ち望んでいた人だと気づく。
おじさんが、やって来た。
今夜は少し早い。おじさんとは、おじさんのことだ。別に僕と血のつながりがあるわけではない。僕が一方的に認知している50代のおじさんだ。いつもこのくらいの時間にこの道を通るスーツを着たおじさん。僕は彼を待っていた。彼に見つからないように隠れていた。
今日は、今日も、自販機を使用するのか⁉ おじさんを待つ。自販機の目の前に来るまで、おじさんを、待つ。近づくにつれその姿は大きくなる。彼の足音と息遣いが闇に響く。
来た。来た。来た。
自販機のすぐ近くまで来た。どうだ。どうするんだ⁉ おじさんは立ち止まった。仕事で疲れた顔に容赦なく光が降り注いでいる。けれどおじさんの表情は暗いままだ。お前じゃダメなんだよ、自販機。物理的な明るさじゃないんだ。
しばし悩んだ後おじさんは財布を取り出しお金を投入した。ピッ! ピッ! と音が鳴る。ガゴン! 重たいものが落下する音がした後、おじさんは飲料を取り出した。
そして、そして、おじさんはおつりスペースに手を伸ばし、中にあるお金の多さにニヤリと笑った。
その顔だ! その顔が見たかったんだ! いいぞ! いい表情だ!
僕も嬉しくなり、闇の中でほくそ笑んだ。おじさんは僕に気づいていない。けれども僕は、おじさんのニヤケを知っている。非対称性、それこそが至福。夜が興奮を冷まさないうちに、僕はひっそりと帰宅した。これが僕の深夜ルーティン。
こんな生活を一か月繰り返していたら、家族にばれてしまった。「深夜に出かけているな。あの中年男性はお前の何なんだ」と問い詰められた。何なんだと言われても、答えに窮する。僕とおじさんを結ぶものなんて答えられない。
けれどそれでいいじゃないか。関係があるから何かをするのではなく、何かをしていくうちに関係が生まれるものだ。こう言っても親には通じなかった。
今夜を最後に僕はおじさんと会わない事になった。いや、ポジティブに言えば、今夜は会えるのだ。前向きに生きていこう。
息を殺し、闇に潜み、僕はいつもの電柱に隠れていた。300円はもうセットしてある。おじさんを待つのみだ。今日で全てが終わる。なんだか悲しくなった。悲しく思うほどの存在だと気づいた。涙が目を覆い、自販機が歪んだ。伸びたり縮んだり。悲しみを通して物事を見ると、本来の形を思い出せなくなる。
まずい。今日が最後なのに。こんな涙で終わらせたくない。おじさんが来る前に泣き止まないと。焦る気持ちと裏腹に、袖で涙を抑えても、止まる気配は全くない。嗚咽が漏れ、不規則な呼吸が続く。
見つめるんだ……。いつもみたいに、おじさんのニヤケを……。
僕が泣き止んだのはそれから1時間後だった。袖は大雨でも降ったかのように濡れ、鼻水の粘り気が内側にまで到達していた。泣き止むまでの間、おじさんは現れなかった。今日は来ないのか。もう、会えないのか。もう帰ろう。と、諦めかけたその時、スーツ姿の人影が現れた。
おじさんだ。でもどうしてこんなに遅くに?
疑問に思いながらも、僕はいつも通りの僕でいるよう努める。電柱に隠れ、音を殺し、気配を消し、おじさんがニヤリと笑うのを観察するのだ。おじさんはいつも通り自販機の前で立ち止まり、何を買うか吟味している。数秒後に財布を取り出し、お金を投入した。商品を選択し、ドリンクを取り出す。
いつも通り。いつも通りだ。そしておつりスペースからお金を取り出し──
ちゃらん、と音が鳴った。
おじさんが硬貨を落としたのだ。今までそんなことが無かったので珍しく思い、よく見てみると、彼の手が震えていた。いやそれだけじゃない。袖が濡れている。僕の袖と同じように、黒く、そして鼻水の粘りが見える。目だって真っ赤じゃないか。
待っていたんだ……。僕が泣き止むまで。手が震えるほど寒いのに……。泣いている僕を見て、今日が最後って分かったから、いつも通りを貫くために……。僕と同じように泣きながら、待っていたんだ……。おじさん……。おじさん……。おじさん……。くそ……。泣かないって、決めたのに……。ちくしょう……。
そうしておじさんは、いつも通りを遂行するため、ぎこちなくニヤリと笑い、僕に背を向け去っていった。僕は、何も見ていない。それがおじさんとの交わしていない約束だ。涙も、鼻水も、優しさも、思いやりも。何も無かった。今日は、いつも通りだった。
2人の男が涙した。星空だけが、知っている。