本能
彼は1人で行動することが好きだった。しかし、この世界は1人で行動する者に対してとことん冷たい。この世界は孤独が侮蔑されるべき対象の一つであるという的外れな通念のもとに存在している。
彼は高校の休み時間、1人でいることが多かった。なぜなら1人でいることに安らぎと親しみを見出していたからである。教室と呼ばれる場所では千差万別の価値観を有する有象無象が密室の中で蠢き合っている。蠢き合う有象無象の中には奇声を上げ薄気味悪い笑顔で狭い教室を走り回る者、いつどこへ行こうとも固定されたメンバーで行動を共にする者、学校の備品を壊して自らの価値を証明したつもりで悦に浸る者などがいた。
彼はそれらを自らの理解の範疇からは逸脱した存在として捉えていた。だが、それらに理解を示さずとも教室と呼ばれる密室空間で交流を持たずに共生することも可能であると彼は考えていた。
彼は当然のようにクラスで浮いていた。むしろ、彼はそうなることを望んでいたのかもしれない。彼自身が持つ人間に対する根源的な恐怖が彼にその道を歩ませるように導いていたのだろうか。それはわからない。だがその何気ない導きのもと彼は成長し一般に成人と呼ばれる年齢になった。彼は昔の彼と何一つ変わらない。彼は常に1人であり、他者への根源的な嫌悪のもとに操られるマリオネットとして日々を過ごしていた。
人間とは自らの足跡に残された生きた証を満足気に振り返ることがある。それらは自分の経験となり自信となり血と肉となって現在の自分を形作る役割を果たす。彼にはそういったものが存在しなかった。そもそも彼は自分自身の存在の不確かさに大きな憂いを感じているし、ましてや自分を信じる気持ちなど微塵も持ち合わせていなかった。
その日は梅雨にしては珍しい晴天に恵まれ、心地の良い陽光が体を照らしていた。彼は久しぶりに大学以外の時間に外の世界へ踏み出すことにした。少し心躍らせながらアパートのドアを開けると、そこには拍子抜けするほど様変わりがない退屈で恨めしい世界が広がっていた。彼は少しでも幸せな出来事があると期待して外へ踏み出した自分に苛つき、ゆっくりと帰路についた。
その帰路の途中、電話が鳴った。電話を取ると相手は自分の母親だった。驚くべき内容が伝えられた時、彼は自分の部屋があるアパートのドアの前で立ち尽くしていた。昔からの友人が死んだ。横断歩道を渡る途中、交差点を曲がるトラックに巻き込まれたらしい。変わり映えのしない日常が当たり前のように崩壊していく様を彼は呆然とただ眺めていることしかできなかった。
友人の通夜は彼の実家で1ヶ月後に行われた。自分とは違い友人はクラスの人気者だった。運動神経が良く、成績もトップクラス、それでいて性格もとても優しい。まさしく絵に描いたような人気者だった。そんな彼の通夜ということもあってたくさんの人が集まっていた。高校の同級生や教師、大学の友人と思わしき人物も参列していた。
焼香の順番が回ってきた。椅子から腰を浮かせゆっくりと前方へ歩みを進める。黒い額縁の中には昔と何も変わらない友人の笑顔が輝いている。不思議と悲しいといった感情は湧いてこなかった。あまりにも突然の出来事で実感が湧いていないのかもしれない。
彼は車に轢かれる瞬間何を感じたのだろうか。この世への未練や悔しさを感じていたのだろうか。はたまたそのようなものを感じる間もなくこの世からいなくなってしまったのだろうか。考えるだけ無駄なことでも心に空いた穴を埋めるために際限なく考え続けてしまう。
焼香が終わり自分の席に戻るとふと自分が泣いていることに気づいた。人のことを想って泣くことのできるほどの感受性がこの体の内側に残存していたことに驚きつつ葬式は粛々と行われていった。
葬式が終わり席を立とうとした時ふと誰かに肩を叩かれた。振り返ると自分の目線のかなり下に痩せ細った老婆が1人立っていた。よく見てみるとこの葬式の喪主でもある死んだ友人の母親だった。昔、よく友人と遊んだ時はいつも遠くから柔和な笑みを浮かべていた印象がある。その時の風貌とは彼女は別人のように変化していた。頬は痩せこけ腰も大きく曲がってしまっている。彼女の誘いで彼の家の居間まで行くことになった。
友人の家の居間は昔とは何も変わっていなかった。幼少期の頃、よく遊びにきた時に目に映った風景には色褪せた過去の思い出をありのままに呼び起こしてくれるような趣きがある。
居間の椅子に座って友人の母親を待っているとふと冷蔵庫に貼られている大量の薬袋が目に入る。薬袋にはすべて友人の母親の名前が刻まれていた。
数分後、友人の母親が居間へ入ってきた。その手には何かが握られている。それは昔、友人と一緒に地元の児童館で遊んだ時に作った革細工のミサンガだった。
「どうか、あの子を忘れないであげて」
老婆は消え入りそうな声でそう呟いた後、ミサンガを彼の手にそっと委ねた。
帰り道、彼は自分の歩くスピードがいつもより遅いことに気づいた。ふとなぜこんなにも歩くのが遅くなったかを考えてみたが結局家に着くまで明確な理由は思いつかなかった。
翌朝、彼はいつにも増して体が重いことに気づいた。熱を測ると39.4分。明らかに平熱とはかけ離れている。だが、彼にはそんなこともどうでも良く思えた。彼はドアを開けて外へ出た。
いつか、人は死ぬ。それもありえないくらいにあっさり。生と死を隔てるレバーは自分ではなく運命という不規則な存在によって握られているのだ。
いつも通る道を歩く。いつもと違うのは体が鉛を背負っているかのように重たいことだ。足取りも重い。いつも歩いている道が歪んで見える。何故だ。なぜ生きるというのはこんなにも苦しいのか。何故自分だけが苦しみに苛まれながら生きねばならない。一歩一歩、怨嗟の気持ちを込めながら彼の足はアスファルトを踏みしめた。
体が熱い。ふとよろめく。そのまま彼は歩道に倒れ伏した。
目が覚めた時に最初に目がついたのは見覚えのない天井だった。ツンとした消毒液の匂いが鼻を刺す。周りを見渡すとそこはどこかの病院の病室だった。体を起こそうとするが強い倦怠感で体がうまく動かない。高熱が出ていることをすっかり忘れていた。
数分後、病室のドアからノックの音がしたと思うと、白衣を着た医師と思われる男と看護師が病室に入ってきた。
「無事目覚められたようですね」
白衣の医師はそういうと胸元の名札を見せ、自己紹介を始めた。彼は救急外来担当の宮前という名前の医師であり、どうやら自分は病院の目の前の歩道に倒れていたところを病室に運ばれたらしい。
「それにしてもなぜこのような高熱が出ているのに外に?」
「別に大したことはないです。ただの気まぐれですよ」
外に出た理由をはぐらかしながら彼はちらりと病室の窓の外を一瞥した。眼下には中庭が広がっており、そこには少年とその少年の担当であろう看護師がキャッチボールをしているのが見える。
幼い子供を見ると彼らがどれだけ自分の未来に対して大きな期待を抱いているか心をのぞいてみたくなる。親心かそれともただの嫉妬心か真偽の程は定かではないが、子供を見ると位置づけに苦慮するなんとも言い難いどす黒い感情に包み込まれるのだ。今回も例に漏れずその形容し難い感情に包まれていると少年がふとこちらを一瞥する。慌てて視線を病室に戻す。
「この調子だと明日までには退院できるでしょう。本来は大事をとって1週間ほど入院ですがコロナ禍で病室が足りませんので」
宮前医師はそう言うともうこれ以上言うことは何もないとでも言うように足早に病室を後にした。宮前医師が姿を消すと病室は静寂に包まれた。
あまりに長い静寂は人を不安へと導く。不安に導かれるように思考の渦の中へ巻き込まれて行く。
それにしても我ながら高熱の中、街を彷徨うと言う行動には驚いた。何か生きることに対する悲壮感を抱えながら大地を踏み締めていたような気もする。絶望感が高じてやけになって高熱のまま外に飛び出したと結論づけるのが自然なのだろうか。やけになるのであればもっと他に手頃な方法はたくさんある。呑みきれないほどの酒を呑んでみたり、行き慣れない夜の街で贅を尽くしてみたり。東京という街にはやけを起こすにはあまりにも品揃えが揃いすぎている。だから、やろうと思えばいくらでも手頃なやけをおこせたろうに。毎度のことではあるが、自分の感情制御技術の拙さには嫌気を超えて深い感動すら覚えた。
思えば昔からそうであった。子供というのは無邪気な生き物という言葉に抗うかのように、自分は感情表現がとても苦手な子供であった。小学校でもクラスの中心にいる子からはいつも足蹴にされていて、当時は自分の何がいけなかったのかを寝る前に毎晩、まるで生まれた瞬間から決められていた運命であるかのように必死に考えていた。その結論は出ないまま大人になり、今こうして自分は病院のベッドの上に横たわっている。
この感情表現の拙さが自分の人生に大きな影響を及ぼしたとはつゆほどにも考えていなかったが、成人し孤独感をひしひしと感じる時間が長くなると、自分が感情表現が得意な「舞台の真ん中で大声で自らに注目を集める人間」であったらどのような人生を歩んでいたかを、ふと考える。
だが、それはあくまでも脳内の中でのみ繰り広げられる妄想であり、それらが目の前に横たわる現実を変える魔法のような力を有さないことは火を見るよりも明らかである。結局のところ自分の人生を変えるのは自分自身でしかないのである。
一通り思考の泉へと沈んだ後、彼は再び目を閉じ眠ることにした。目覚めればまたいつも通りモノクロの、見ているだけで殺意を覚えるような碌でもない現実が聳え立っている。だが、この瞬間、目を閉じる瞬間だけはそれらが眼前に姿を見せることはない。目を閉じ、睡魔に飲み込まれている間は永遠の安らぎ、永遠の凪が体と思考を包み込んでくれるのである。
翌週、彼は夜の埠頭へと赴いていた。冷たい風が頬を撫でる。今夜の気温はマイナス1度。今冬1番の寒気が流れ込んだ影響で心なしかいつもよりも冷気を感じる。
埠頭の対岸に見える東京の摩天楼を眺めると文字通り宝石のような無数の美しい光が瞬いていた。遠くに見える無数の光に近づいて見ると一つ一つが人間が生命を営むうえで創意工夫の末に創り出した光だということがわかる。しかし、最早彼には摩天楼を形作る一つ一つの光に近寄りそれらが一つ一つ持つ感性や感情を慈しむような余裕は存在していなかった。
彼には摩天楼を彩る光の一つ一つがサバンナに大きな蟻塚を作るシロアリにしか見えなかった。サバンナに作られる大きな蟻塚。その中は夜は0度、昼は50度にも達するサバンナの中でも一定の温度が保たれる快適な空間が広がっている。
彼の視界の中では摩天楼の光の中の快適な環境で暮らす人間がサバンナで大きな蟻塚を作るシロアリに見えた。巣の中でぬくぬくと暮らすシロアリと寒さに凍えながらゆっくりと横たわる死を待つのみのクロアリ。その風景には世の中に存在する不条理の全てが凝縮されているように見えた。彼らの差がどこから生まれたのかを知るものなどはどこにもいない。そこにはただ数奇な運命の導きによってのみ集められた幸運を手に入れた者と不幸を背負い続けたものがいるだけだった。
次の瞬間、何か大きなものが落ちたような水音が響いた。今夜の埠頭の温度はマイナス1度。水中の温度は更に低いだろう。仮に人間がこの低い水温の海に身を浸そうものならただでは済まない。水面は大きく揺れている。水面の揺れる様は何か得体の知れないものを飲み込んでしまった化け物のようにも見える。
次の瞬間、埠頭が一瞬にして明るさを取り戻した。誰かがこちらに走ってくる足音が聞こえる。手には懐中電灯、左手には警棒が見えた。
「こら!!こんなところで何してる!?」
警備員がものすごい剣幕で捲し立てる。
「すみません」
「ここは夜間立ち入り禁止だよ!早く出て!」
警備員に促されるようにして埠頭を後にした男の腕には革細工の不格好なミサンガがかかっていた。
その日、一匹のクロアリは蟻塚を作った。だが、蟻塚は不格好でシロアリのものとは比較にならない。クロアリは運命を嘆き、大きな声で泣き、この世の中を憎んだ。しかし、クロアリは翌日もそのまた翌日もせっせと蟻塚を作り続けた。誰か他のアリが訪ねてくれるのを待って。