帝國の書庫番 八幕
夏の初め。重なる出会い。
本の量だけを見れば、書庫にも見えるその部屋。しかしその膨大な本を収める書棚の中央には、洋式の文机が据えられている。合わせて誂えられた椅子に腰掛ける事もなく、衣笠理一は手元の本に目線を滑らせる。この部屋以外の本は、粗方読み尽くしてしまった。本を読み、財産管理等の雑務をこなし、敷地内の射撃場や道場で一人稽古を行う日々を繰り返し、そろそろ半月が過ぎる。雨の季節は終わりを告げ、庭に出れば空気の変化を感じるが、一月の謹慎が解けるのはまだ先、の、筈だった。
「……。」
「すげェ顔してんぜ、リイチよぉ。」
無言で理一が振り返った先には、窓の枠を軽く飛び越え、部屋に降り立つ黒羽織。既に時間は深夜。心地良い夜風を通す為に窓は開けており、机上の洋燈の灯りも漏れているであろうから、居場所が割れた事は疑問にすらならない。ただ。
「この部屋の外、登れるような突起はねぇんだがな。」
「跳べば届くもんさ。」
「二階だぞ、ここ……。」
「暉式の家でやったら屋根が抜けンだろうな。」
からからと笑う孝晴だが、彼は「窓枠に手を掛けて這い上がった」訳ではなく、「一飛びで窓枠を飛び越えた」のだ。地面に凹みでもできそうなものだが、彼の場合衝撃を筋肉に吸収させてしまうため、痕跡も殆ど残らない。ただ、常人には視認できない速度での動作を可能にするその筋肉は、見た目の数倍は「密」で「重い」。脳に合わせて体が発達しているのだろうが、確かに木造屋根に飛び乗ったら、着地の衝撃を殺したとしても重みで抜けかねない。彼が軍に入らなかった理由の一つでもあるのだろう。
「で、何しに来た。俺が謹慎中なのは知ってんだろ……。家の者以外と会ったと知られたら、また処分が追加されちまうんだがな。」
「俺が見られてる訳ねェだろぃ。」
「そういう意味で言ってねぇよ。」
孝晴はくすくすと笑い、腕を組んだ。
「明日、謹慎解除の報せが来るはずだぜ。」
「は?」
「喧嘩相手の肩すっぽ抜いたのは、ま、やっちまったとは思うが、お前さんは理由なくそんな事しねぇ。話をでかくしたのは太田の坊っちゃんだろ。」
「……。」
「太田家もなんだかんだで影響力は強ぇからな。だが、太田の御当主は、坊っちゃんにゃ甘いが、人間はでき過ぎるってくらいできてる。経緯を確認したらすぐ、嘆願書を軍に送ってたぜ。」
「それで、謹慎明けが早まるってか。」
理一は一つ溜息を吐いた。孝晴はどうやら、理一が処分を受けた経緯の殆どを知っているようだった。孝晴の言った通り、そもそもの原因は「喧嘩」だ。しかし、理一が喧嘩を吹っ掛けられた訳ではない。病院に検査で訪れていた一団の中、ある一人の男に対して投げかけられた罵倒の言葉に、理一の方が勝手に、頭に血を上らせてしまったのだ。理一自身、大人気ない割り込み方をした自覚もあり、運が悪かった――どうやら理一が喧嘩した男は、太田公爵家の分家筋だったらしい――とは言え、処分も納得していた。
「何でまた、お前がわざわざ動いたのかわからねぇな。お互い金に困ってる訳でもあるまいに。」
「……これは、俺が『言った方が良い』と思ったから隠さずに言うんだが。」
孝晴は怪訝しげな理一の顔を眺め、ふんわりと目を細めた。
「俺に話持ってきたのは、お前の一番上の姉さんだよ。」
「! ……。」
「お前が謹慎中、ずっと一人で籠ってんのが心配だってよ。『謹慎が解けたらお前を連れ出してやってくれ』とさ。ついでに、お前から謹慎食らった理由を聞いてないってんで、できるなら訳を知りたいっつってたから、調べてみたってとこだな。」
「たまに出かけてたと思ったら……。別に心配されるような事はしてねぇぞ。」
呆れ顔で呟いた理一に、孝晴は息を吐き、首を振った。
「当主がいきなり謹慎食らってその理由も言わねぇ、家中の者とすら最低限の接触しかしないで部屋か道場に篭り切り、しかもその当主は自分より歳下の弟だ。……女が不安にならねぇ理由あるか?」
「最低限ってなあ、顔を合わせる度に大丈夫なのかって言われるから、うちの事は心配ねぇって……。」
そこで理一は口を黙み、軽く頭を押さえた。
「ああ、くそっ、俺か。『俺』が大丈夫なのか、って聞いてたのか、姉さん。」
「気付くのが遅くねェかい、衣笠センセ。」
「くそったれ……。」
苦々し気に吐き捨てる理一だったが、孝晴は笑みの奥で考える。彼の姉ーー「初」が、あまり主張せず一歩退くような性質の女であるとはいえ、他人の感情を読み取る事に長けている理一が彼女の思いに気付かなかったのは、余程この件で腹が立っていたのか、それとも意図的に家族を避けていたのか。何にせよ、彼にとっても家族にとっても、よい状態ではないだろう。
「ま、俺はお前が『太田家の奴輩に他人が馬鹿にされてンのを見逃せずに割って入った』としか太田卿には伝えてねぇし、それ以上の事は知らねぇから安心しなァ。身内調べて確認取って、嘆願書書いたのは太田卿自身の判断だ。で、だ。本題なんだがよ。」
「はぁ……わざわざ忍び込んでまで来た理由ってのは、一体何なんだよ?」
「お前の姉さんの依頼、もう半分を叶えてやるンだよ。謝罪やらなんやらが終わったら、仕事再開する前に休み取れ。」
「とんでもねぇ事言いやがんな……。」
「けどお前さん、復帰したら、真っ先に仕事で予定埋めるだろぃ。」
「だからこんな風に言いに来たってか。」
笑みで応じる孝晴。理一は深く溜息をつき、「努力する」と呟いた。
数日後。朝から目を眩ませるような陽射しが照り付けている。薄鼠の紬に羽織を合わせた理一は、傘を差して門へ向かう。洋式の屋敷に暮らし、正装では洋装も着るが、普段の理一は着物を好んだ。孝晴と出かけると告げた時の、お初の安堵に溢れた顔を思い出し、理一は息を吐く。大人しく自己主張に乏しい腹違いの姉は、自分から行動を起こす事が殆どない。覚えている限りでは、自分が初めてここに来た時の――
「よォ。」
その声に理一は思考を切り上げ、笑みを浮かべた。門の先には、いつものように絣を着流した孝晴と、暑苦しい烏羽の軍服が立っている。
「有坂の御令息が家までお迎えなんざ、贅沢な事もあったもんだ。」
「『友人』じゃねぇのかィ。」
「友人なら冗句くらい理解しろよ。」
「はは。」
いつものように短く笑う孝晴だったが、ふと理一を眺め、言った。
「お前さん、軍帽が無いと目立つんだなァ。」
そう言えば、外出着の状態で二人と会うのは初めてだったか、と思い返す理一。彼自身にも自覚はある。「太夫」の座にあった女に生写しなのだから、至極当然の事でもある。もう少し若い頃は、羽織で出かけていてさえ、男達から声を掛けられたものだ。理一は笑い、孝晴の後ろの麟太郎に目を向ける。
「そこの烏よりは目立たねぇよ。」
「私の方が階級が上なのを忘れていませんか。」
「お前はそんな事気にするタマじゃねえだろ。」
「そうですね。」
いつもの無表情で応えながら、冗句とは難しいものだと麟太郎は思った。
出水屋は氷を始めたらしく、長蛇の列が出来る程の盛況振り。店主の男は手伝いを雇ったようで、美しいとは言えないがくるくるとよく動く愛想のよい娘が一人、てきぱきと客を捌いていた。
「これもハル様が?」
「んにゃ、俺は最初にちっとばかし『美味い菓子を出す茶店を見つけた』って小間使い達に言っただけだぜ。」
「確信犯じゃねぇか。」
普段よいものを食べている孝晴が「美味い」という菓子。小間使いの女が気にならない筈がない。そして女は、噂を広めたがるものだ。瞬く間に出水屋の名は東都を駆け巡った事だろう。理一の言葉に、孝晴は澄まして言う。
「お麟も美味いと思っただろぃ? 悪い事はしてねェよ。」
「しかしここまで混雑していたら、近付けませんよ。私達がお客さんを追い払ってしまいかねません。」
「そうさな……。悪ィなリイチ、飯の後にするか。日が落ちてくれば暑さも客も少しは引くだろ。」
「別に構わねぇよ、お前らの好きにしな。」
麟太郎はまだしも、孝晴は普段好き放題入り浸っているというのに。気遣いなのか、彼が来たいだけなのか分かったものではないと、理一は苦笑した。
三人で(正確には、二人の後ろを麟太郎が付ける形で)夏の日差しの下、ゆっくりと歩く。家の敷地を除けば、研究室・執務室と練兵場と走り込み用の屋外路以外に出る事自体が、理一にとっては久々だった。道中は無言だが、その無言もまた心地良い。しかしこの三人連れは、やはり目立つのだろう。様々な感情を孕んだ目線が向けられては、後ろに流れて消えて行く。
「有坂の、お前、よくこんな中で連日ぶらつけるな。」
「気にしたところで詮無いぜ。変わりゃしねぇからよ。」
「それもそうか……。」
笑う孝晴の横で、ちらと後ろを振り返れば、我関せずといった無表情の麟太郎。この二人の傍に居る時は、他人の視線など気に掛ける方がおかしいのかもしれない。
「ハーールーーー!!」
唐突に甲高い声が響き、三人同時に足を止めた。声の方向には広場があり、青葉繁る五弁花の木の下に小さな人集りができている。
「何ぞ不躾な。」
「俺の事じゃないと思うぜぃ。俺を『ハル』なんて呼ぶのはお前くらいなんだからよ。」
ぼそりと呟いた麟太郎に笑いながら答えつつ、聞き覚えのある声だと孝晴は広場に足を向ける。
「どうした?」
「んにゃ、多分あれは……。」
その間にも、その甲高い声――女、いや、少女のものだ――は響き続けていた。よく通る声だ。人が集まるのも道理だろう。
「ああっ! だめ、だめですハル! 動いてはだめ! 戻ってくださいコハルーー!」
近付けば、人集りの中、一人の少女が泣きそうな顔で木の上を見上げて飛び跳ねながら叫んでいる。洋式のワンピースの裾が、動きに合わせ忙しなく揺れる。孝晴はゆっくりと近付いたが、木の上を見て眉を寄せた。高さは、八尺はあるだろうか、幹から張り出た枝の先端付近に子猫がしがみ付き、心細げに鳴いている。理一も気付いたようだ。
「アレがあの子の猫なんだな、多分。」
「……。」
「跳べば届くって考えてんのか?やめとけ、目立つどころか、ばれるぞ。」
「そうさな、それもあるが……。」
口を噤む孝晴。猫よりも速く跳び、捕まえる事はできる。しかし、獣は力の差に敏感で、尚且つあれは子猫だ。殆どの獣に上位の存在だと警戒される孝晴が触れれば、恐怖に襲われた子猫は飼い主など忘れ、本能のままに逃げ去るだろう。
「お知り合いなのですか。」
麟太郎が問う。孝晴は一つ息を吐いた。
「勘解由小路家のお嬢様だよ。」
「成程。」
抑揚なく頷くと、麟太郎は軍帽を外した。そして理一の前に差し出す。
「先生、持っていて下さい。」
「俺に持たせるのかよ。」
「ハル様に持たせろと?」
「はいはい、分かりましたよ、中尉殿。」
どうする気かと興味半分な理一を尻目に、麟太郎は人集りに近付いてゆく。少女と共に上を見上げていた男の一人がそれに気付き、ぎょっとして叫ぶ。
「け、警兵!?」
その声に、少女も振り返る。麟太郎の姿を認め、あどけない顔にさっと怯えが走った。漣のように、驚愕と困惑が広がってゆく。何故警兵が、騒ぎ過ぎたのか、と囁き合う声が上がる中。
「皆さん。」
低い声。騒めきがぴたりと止んだ。麟太郎は無表情にそれを眺め、ゆっくりと言葉を吐く。
「道を、開けて下さい。」
再び少し騒めいた後、塊が二つに割れた。幹から十尺ほどだろうか、立ち止まった麟太郎に、少女は駆け寄って叫んだ。
「警兵さま、違うんです! 皆さんは、わたしの為に集まってくれただけで、」
「木の下から離れて下さい。」
「でも!」
彼女の言葉は麟太郎の一瞥によって途切れた。全く感情が浮かばないその目を見て、恐怖しない筈がないだろう。少女はふらふらと後退り、空間が生まれる。麟太郎は姿勢を低く取る。ざり、と長靴の下で砂が鳴った。
一瞬。そう、周りの人間には見えただろう。
地を蹴った麟太郎は、その勢いのまま木の幹を三歩で垂直に駆け上がり、身を捻って猫のいる枝の根元に吸い付くように飛び乗った。殆ど音を立てず、枝も揺れていない。忍の業だ。呆気に取られたのは人も猫も同じだったようで、枝の先端付近でみいみいと鳴き声を立てていたそれは、今は丸い瞳でじっと麟太郎を見ている。枝の上に蹲る黒い姿は、さながら大きな猫のようだ。子猫が動かない事を見て取ると、麟太郎は一つ首を傾げ、そして。
「みゃーお。」
鳴いた。
木の下の全員が目を丸くしたが、猫の耳がぴくりと動き、声の方に向けられる。みいみい、にゃあにゃあ。子猫に合わせるように人が鳴く。すると子猫は、体を麟太郎の方に向け、覚束ない足取りで歩き出した。
「コハル!」
思わず少女が叫ぶ。その声に気を取られたのか、枝の中ほどで猫が一瞬立ち止まり――その瞬間、麟太郎は幹を蹴り、張り出した枝と平行に跳んだ。当然、その先に足場になるような場所など無い。繁った葉を掠め、黒い影が勢いよく落ちてくる。驚愕のどよめきの中、少女が口を覆って息を飲む。しかし、地面に叩き付けられると思われた麟太郎は落下の勢いを回転で殺し、外套を砂塗れにしながらも何事もなく立ち上がった。その右手には、目を丸くしている子猫がすっぽりと収まっている。猫と同じ表情で固まっている少女に麟太郎は歩み寄ると、その手を取って子猫を抱えさせた。
「貴女の猫なのでしょう。もう離してはなりませんよ。」
「えっ、あ、」
少女が何か言おうとした時、唖然とするばかりだった人集りが、耐えかねたように爆発した。
「凄ぇ! 警兵の坊主、あんた、今のなんなんだ!?」
「警兵なんて、血も涙もない奴らばかりだと思ってたが、あんたみたいなのも居るんだな!」
騒ぎながら押し寄せる人々。だが烏羽の影は素早く後退り、囲ませるような事はしない。けれどもそこで一度立ち止まり、麟太郎は彼らを見上げた。
「我々が権力を持っている事は否定しませんし、任務に情は必要ありません。しかし、我々の本分は『平和護持』です。困っている方を助けてはならないという道理はありませんよ。」
相変わらずの麟太郎は「用がありますので、では」と言い残し、去ってゆく。興奮冷めやらぬ人々の間で、子猫を抱いた少女は、その姿が見えなくなるまで、砂で汚れた烏羽の外套を見詰め続けていた。
「どうして隠れていたんです?」
「お前、あんな、只でさえ目立つってのによぉ……。」
孝晴は笑いを堪え切れないと言った様子だ。手を口で塞ぎながら、体を震わせている。理一はそれを呆れ顔で見ていたが、麟太郎には穏やかな笑みを向けた。
「けど、放っとける性分じゃねぇもんな、お前らは。」
「お二人に出来ない事であれば、私がやるだけです。」
「確かに、俺達にはあんな芸当はできねぇよ。雉が居れば、一人で鬼退治に行けるぜ、リン公。」
「……犬と猿ですか、成程。」
「冗句を真面目に受け取るなよ……。」
「難しいですね。」
歩きながら腕を組む麟太郎の髪やら外套やらを、理一が片手でぱたぱたと叩いて砂を落としている。面倒見がよいとはこういう事なのだろう。小柄な麟太郎に女性と見紛う美貌の理一が世話を焼いている様子はまるで母子のようだが、孝晴自身はそんな親子関係を知らなかった。麟太郎は理一に礼を言うと、いつの間にか笑いを治めている孝晴に顔を向ける。
「あの方を一番『助けてやりたい』と思っていたのは、ハル様でしょう。」
「そう見えたかぃ?」
「難しい顔をしておられました。」
「……。」
「何故私に命じられなかったのですか。」
首を傾げる麟太郎に、孝晴は一つ息を吐いた。
「あの娘の事は知ってるが、ま、手を出してやる義理も無かった、それだけさね。」
「あちらもハル様に気付いていたとしても、ですか。」
「薄情者と思われンだろうが、構やしねぇよ。」
麟太郎は瞼を細めた。確かに孝晴は自身の能力を隠している。けれど。
「ハル様。力を隠す事と、『嫌われる』事は、同じではありませんよ。」
「!」
「それに、自分の悪評や悪意による被害が、自分の身にのみ起こるとは、限りません。私は、ハル様が『人として』誤解されるのは嫌です。」
「へぇ、お前は俺の腹まで見えるようになったのかぃ、お麟。」
麟太郎は首を振った。
「私にはハル様の考えは分かりかねますが、人を作るのは行動です。それが打算や偽善の心に根差していても、です。ご自身で行えない事は、私に命じて下さい。今までもそうして来たとおりに。他人の目があろうと、私は命令を遂行しますから。」
孝晴は、ふう、と一つ息を吐き、笑みを浮かべる。その笑みが何を意味するのかは、麟太郎には分からない。
「犬が飼い主に命令するかね。」
「犬とて、飼い主を引いて走ることもあります。」
「そりゃあ、『躾がなってない』って言うんだぜ。」
ぼふ、と頭に感触があり、麟太郎は表情を変えないながらも内心驚く。孝晴が彼に対して頭を撫でるような真似をするのは初めてだった。何かが、孝晴の中に届いたのだろうか。そんな二人の会話を聞く理一にも、麟太郎の言葉に一つ、感じるものがあった。
(人を作るのは行動、か。)
力を持つ者は安易にそれを振るうべきではない。しかし、どうしても我慢できなくなる時がある。今回の件も、相手の罵倒が理一の逆鱗に触れたのが原因だ。自分のこの癖について考えると、否応無しに自分に流れる「男」の血を意識してしまう。あの男もそうだった。自分も何度殴られた事だろう。しかし。
(あいつはいつも、自分の思い通りにならないと殴りやがった。でも、俺は『他人の為に』怒る事ができる……。俺は、あいつとは、違う。)
保身の為と、手を出す事をやめてしまったら。それこそ「あの男」と同じだ。理一は一度自分の手を見つめ、握った。
「リン公、良い事言うじゃねぇか。俺も吹っ切れた。」
「先生まで……そんなに大した事を言いましたか、私。」
首を傾げる麟太郎に、理一と孝晴は顔を見合わせ、笑った。
軽く食事を済ませ、日が傾きかける頃。今度こそと出水屋を訪れると、予想通り、客は概ね引き、行列も無くなっていた。これならば他の客の邪魔にはならないだろうと暖簾を潜ると、ちょうど中の客も捌けたところらしく、奥に一人座っているだけだ。手伝いの娘が振り返るが、店主の方が孝晴に気付いて声を上げた。
「おっ、この前のお兄さんやないですか!」
同時に、座っていた後ろ姿が、弾かれたように振り返る。あっ、と思う間も無く、つかつかと歩み寄って来た男は、口に詰め込んだ餅を飲み込みながら言った。
「孝……孝晴! 自分、ここに何しよったん!? 客がえらい事になってんねんぞ!」
「おや、呼び捨てかぃ。俺とお前はそんな仲だったかねぃ?」
「両の手じゃ足らへんくらいの店で一緒に飯食うたやん!」
「付き合いは一日だけだろぃ。」
「なかなか鋭い突っ込みするやん、ってちゃうねん!」
手刀を地面と並行に振るという謎の動作を取った後、男ーー言うまでもなく多聞正介は、息を吐いた。
「孝晴クンと来た後から、ごっつ客が増えよって、終わり際に運良く残っててやっと食えるくらいの有様やったねんぞ。何したん自分?」
「『流行らせた』。」
「怖っわ……。」
澄まして答える孝晴に対し、引き気味に呟いた正介は、やっと孝晴の背後の二人に気付く。
「麟クンも相変わらずやなあ、と、……なんやえらい別嬪さん連れてるやんけ。」
「ああ、よく言われる。で、誰だお前?」
にっこりと微笑んで応えた理一の声は、当然、女性のそれではない。硬直する正介。孝晴は声を上げて笑った。
「っは、リイチ、あんま虐めてやンなよ。こいつぁまだ帝都に来てそう経ってねぇんだ。だろ? 正介。」
「あっえ、姉さ……やない、兄さんか。いや、驚いたわ……。」
「ついでにもう一つ驚いとけ、こちらにおわすは旧河城守『武芸百般』衣笠家の御当主、衣笠伯爵その人だ。」
「はぁ!? 衣笠て國史の教本にも載ってる武将やんけ!」
「転封もあったし、城も焼けたがな。で、こいつはなんなんだ、リン公?」
「この店を見つける切掛になった方ですよ。」
淡々とそれだけ答えると、麟太郎は正介をじっと見つめた。意図を組んだ正介は、踵を付け姿勢を正す。
「自分は、帝宮護衛隊護衛官・多聞正介帝宮巡査です。以後、お見知り置きを。……っあー痒い! 東言葉は合わへん!」
「最後で台無しだな。」
言葉の抑揚を平坦にする努力は垣間見えたが、正介が東言葉に慣れるのはまだ先のようだ。孝晴は愉しそうに薄い笑みを浮かべている。麟太郎は店主と手伝いに話をつけているようで、まだ食べられますか、などと聞こえてくる。そちらは任せて、理一は正介を眺めた。
「帝宮邏隊員なのか、あんた。どうりでいい身体してる訳だ。」
「なんや兄さんにそう言われると、妙な気ぃするんやけど。」
「俺は医者だよ。軍医少尉だ。……リイチでいい。」
それを聞くと、正介は意外そうな表情を浮かべる。
「少尉て、医専出なんか?」
「いや、医大の課程を繰上げて特例で卒業したから、少尉待遇ってだけだ。研究がやりたくて入ったからな。昇進には興味無ぇんだよ。」
「……孝晴クン、この兄さん『あの』衣笠家の当主やんな。で、医者もやってるんか?」
「そう言ってんだろぃ。」
「頭どうにかなりそうや……。」
正介は思考を放棄した顔で頭を抱えた。そんな三人に向かい、麟太郎が振り返る。
「有坂様、衣笠先生。まだ氷もあるそうですよ。あと、正介さん。店主さんが『溶けてるで』と伝えて欲しいと。」
「せやったぁ! 食いかけやったわ! てか、もう帰らなあかんやん! お三人さんはゆっくりしてき! 寅やんおおきにな、また来るで!」
慌しく席に走ると、溶けて水になりかけた氷を掻き込み、代金を置いて走り去って行く正介。「まいどー」と笑みを浮かべながら手を振って見送る店主に、孝晴が目を向けた。
「『寅やん』?」
「あ、儂、寅之助言います。お兄さんがうちを流行らせてくれはったんですね、お陰でいい手伝いも雇えて仕入れも増やせましたわ。ありがとうございます。」
「そりゃあ良かった。じゃ、氷三つと……餅二つ頼む。」
西の言葉は難解だと思いつつも、三人は席に着くのだった。
夏の夕べは、昼の暑さと夜の涼しさが混ざり合う。善哉とはまた違う、豆餡と餅のかき氷は、行列ができるのも納得の美味さだった。体も心地良く冷え、帰路の足取りも心なしか軽やかだ。
「美味かっただろぃ?」
「ああ、美味かった。お前が策を打ったとは言え、流行る訳だ。」
日が落ちた為に傘を畳んだ理一は、満足気に頷く。どうやらお初の心配事も解消出来そうだと孝晴が思った時、理一が二人を振り返った。
「そういや、あの正介って野郎。いつ知り合った?」
「三月前くらいかねぃ。春先だ。気付いたかぃ?」
「俺の記憶が間違ってなければ、な。」
理一は一度目を閉じた。
「二年前の西都行幸で、帝を狙った野郎を取り押さえた邏隊員の姓が確か『多聞』だった。」
「ん、俺もそれがあいつだと思ってる。東都に転属になったって言ってたからな、それが理由じゃねぇかぃ。」
「そいつがたまたまお前と出会う、か。」
孝晴はからからと笑った。
「ま、今日のは偶然だと思うぜぃ。悪い奴じゃねぇのは、お麟のお墨付だ。」
「……ええ、あの方には邪気がないですから。」
麟太郎は内心、孝晴も多聞正介について調べていたのだな、と思ったが、孝晴の事だ。調べたというより、頭の中から情報を「見つけた」だけなのだろう。少なくとも、正介が邏隊勤務をしているのは確かだ。理一は一つ、息を吐いた。
「何でか、お前の周りには目立つ野郎ばかり集まりやがるな。」
「お前さんも含めてな。」
「違いねぇ。」
そう応えた理一の笑みは、今までで一番、美しく見えた。
理一が帰り着く頃には、もうすっかり夜になっていた。心を配ってくれた姉達にも感謝しなければならない。いや、先にする事は、寧ろ謝罪だろうか。そんな事を考え一人苦笑した理一は、屋敷の門の前に立つ人影を認め、足を止める。その影も、気付いたようだ。鳶色の軍服に、小銃の襟章。そして、浅黒く精悍で、刀のように美しい顔。
「お前……。」
「夜分の訪問をお許し下さい。謹慎が解けたと聞きましたので、謝罪と感謝をお伝えしなければならないと、参りました。」
凛とした立姿のその男は、理一に向かい、深々と頭を下げた。
帝國の書庫番
八幕 「邂逅相遇」