帝國の書庫番 丗九幕
体は離れても、心だけ置いていかせて。
あれから、一月が経つ。アタシの体は、どんどん動かなくなっていった。息が苦しいし、頭も痛い。目も半分がよく見えない。食べ物も食べたい気持ちがなくなって、痩せたと思う。もう分かっている。アタシは長くないって。
アタシはいつも孤独だった。自分と周りは違う、そう思って生きて来た。皆、食べる事と寝る事と敵の事と遊ぶ事、番う事くらいしか考えていない。ああ、子持ちは勿論、子供の事も考えている。子供を守ること。でもアタシに子はいない。
アタシは、アタシを誰かに理解して欲しかった。アタシがどんなに人を理解出来ても、アタシを理解してくれる相手なんて何処にも居なかった。ただそこに居ただけで追い払われもした。アタシは孤独だった。寂しかった。
そんな時に、麟太郎と出会った。麟太郎は違った。麟太郎はアタシに、普通の人に話すのと同じように話しかけた。そして、アタシの気持ちを分かってくれた!なんということ。こんな人がいるなんて。アタシはそれから、麟太郎と一緒に居たいと思うようになった。麟太郎は、アタシを追い払わなかった。だから、アタシも麟太郎の隣に居る事にした。麟太郎は頻繁に血の臭いをさせるから、そこは嫌だけれど。それでもアタシは麟太郎に尽くすのが幸せだった。
麟太郎には、主と決めた人間がいた。有坂孝晴。アレは、他の人間とは違う。危険な人間。アタシたちなんて簡単に捻り潰せる膂力に、アタシたちですら逃げられない速さ。他の仲間が近付かないのはとても分かる。アレは、危険。それを孝晴も分かってる。でも、孝晴はアタシと違う。孝晴は、人と意思の疎通ができる。気持ちを通わせられる。だから麟太郎も、孝晴の事を好いている。二人がすれ違った時もあったけれど。さっさと話して仲直りすれば良い、だって、アンタ達はちゃんと話せるんだから。そう思って伝えたつもりだけど、届いたのかしら。届かなかったんじゃないかしらね。でも、そのうち二人とも元通りになったから、アタシも安心した。
アタシは麟太郎に届いた手紙を読んでたから、麟太郎があの留子とかいう女の所に行く事も知ってた。アタシがいるのに、なんでと思った。けど、アタシの喉は言葉を発するようには出来ていないから、アタシは気紛れに、有坂孝晴の所へ行ってやった。孝晴は、アタシと同類だから。アタシと同じように、周りと自分だけ違うと思って生きて来たから。アタシが何の理由もなく行った事に孝晴は気付いて、随分と驚いたみたいだった。でも、気安く女性に触れるものじゃない。それに、アタシの方がマシだなんて、よくそんな事が言えたものだ。アンタは、麟太郎と言葉を交わせる。他の人間とも。アンタは、少なくとも表向きは同じ人間だと、認められているでしょう。アタシはそうじゃない。アタシの気も知らないでそんな事を言うなという気持ちを込めたつもりだったけど、多分孝晴にそれは伝わっていない。
あの時、実は少しだけ嬉しかったのよ。麟太郎は、アタシの所に真っ先に駆けつけてくれた。体が動かせなくて痛んだけれど、アタシは暫くの間、ずっと麟太郎と寄り添っていられた。麟太郎はアタシを包む時、いつも優しかった。麟太郎の胸は、とても暖かかった。麟太郎の鼓動は、とても心地よかった。でも麟太郎が他の奴らの世話まですることになった時は、かなり焦ったし嫌だった。麟太郎の側にいるのはアタシだけで良いのに。結局、そうはならなかったけれど。助け船を出してくれたあの男には感謝しているけれど、あの家は鷹が沢山いるからやっぱり嫌だ。
あの、留子とかいう女。すぐ分かった。あの女、手紙で見るよりずっと、ずっといけ好かない。あのメスの臭いを嗅いだら、嫌でも分かる。あの女は、心の底から麟太郎を好いている。アタシが先なのに。アタシの方がずっと、麟太郎を愛して来たのに。なのに、麟太郎にこの気持ちは届かない。分かってる。アタシに寄り添ってくれるけど、愛情を注いでくれるけど、麟太郎はアタシをそういう目で見る事はない。だから、あの留子って女を、麟太郎は意識してる。どれだけアタシの方が先に麟太郎を愛しているんだと叫んでも、あの女にアタシの声が届く事はない。……麟太郎にも。届かない。
麟太郎はアタシを治療しようとしたけど、アタシは拒否した。その時にはもう、治らないってアタシには分かってたから。医者にどんな事が出来るかアタシには分からないけど、とにかくアタシは、麟太郎と離れるのが嫌だった。医者に渡されたら、狭い部屋に押し込められて、他のケダモノどもと一緒に置かれて、アタシをアタシとして見てくれる事なんてないって分かってた。だったら、残った時間、麟太郎の側で過ごしたい。麟太郎は凄く困っていたけれど、それでも、部屋に置いてくれた。医者から薬を貰ってきて、飲ませてくれた。効いてる感じは、しなかった。何度も一緒に医者に行って、色んなことを試して。麟太郎と一緒なら、暴れる必要はないから。本当に、麟太郎は優しい。アタシが愛した男だもの。でも、もうそろそろ、別れなきゃいけない。
軍病院の廊下に、長靴が床を踏み付ける音が響く。目当ての扉を叩き、内側からの応答を確認すると、烏羽の姿は部屋の中に踏み込むなり言った。
「『くろすけ』は来ていませんか。」
「は?」
部屋の中で机に向かっていた衣笠理一が、目を数度瞬かせる。その短い返事を聞く間に麟太郎は部屋の中を見回し、目的の姿が無い事を確認すると頭を振る。
「此処でも無かったようですね。失礼しました、衣笠先生。」
「待て待て待てオイ!」
踵を返しかけた麟太郎に向かい理一が声を上げ、立ち上がる。無表情で振り返る麟太郎を理一は見遣るが、その眉は強く寄せられていた。
「『くろすけ』は病に罹ったって言ってたよな?」
「居なくなったんです。」
「……。念の為確認するが、治った訳じゃないんだよな。」
「はい。ここ数日は、餌も水も殆ど減らず、綿に水を含ませて嘴に当ててやって、やっと飲める状態でした。」
理一は額に手を当て、ゆるゆると首を振る。そして、じっとその様子を眺めていた麟太郎に近付き、真っ直ぐに目を合わせる。その表情は気遣わし気だった。
「もしかしたら、もう、『くろすけ』は出て来ないかも知れない。」
麟太郎は数度目を瞬かせ、そしてその目をゆっくりと細める。
「何故、ですか。」
「……猫なんかよく言われるだろ、死期を悟ると姿を消す、って。どういう理屈でそうなるかは人間には分かるもんじゃないが……同じなんじゃないか。」
「……。」
麟太郎は更に目を細め、そして瞼を伏せる。二人は少しの間無言だった。やがて麟太郎は「分かりません」と首を振った。
「私には……彼が何を思ってそうしたのか、分かりません。彼は『他の鴉とは違う』と評価されていますし、実際、他の鴉と違い、私の言葉を理解しているであろうことは確かです。けれど、私の言葉を理解した彼が、何故、何を思って私に尽くしてくれていたのか、私は知りません。彼の行動の理由を、推測する材料すら、持ち合わせていません。私は、『くろすけ』の事を、何も、知らないんです。」
「……お前は元々、獣に好かれやすいんだろ。そういう奴は、お前以外にも確かに居る。軍馬に矢鱈懐かれる野郎とか、外に出れば野良猫が寄ってくる野郎とかな。『くろすけ』だって、お前を好いたから寄って来たんだろうよ。」
「好いた、ですか……。」
理一の言葉を受け、麟太郎は呟くと、再び黙り込む。しかし今度は直ぐに顔を上げ、理一の目を真っ直ぐに見返した。
「ならば、一層の事、彼を見付けてやらねばなりません。私は、他人を好いた者の気持ちの強さを、知りましたから。」
理一は怪訝そうな表情を浮かべたが、やがて苦笑して「そうか」と応じる。麟太郎自身の孝晴への思いは、麟太郎にとっては当然の事。その麟太郎に、有坂孝晴自身と、そして勘解由小路留子の二人が、人が人を想う気持ちがどれほど強いかを教えた。
「じゃあ、お前からも『くろすけ』に伝えてやらなきゃならないな、お前が『くろすけ』を大事に思ってるって事。」
理一が言ってやると、麟太郎はぱちぱちと目を瞬かせる。
「…………そう、なのですか、私が。」
「人を作るのは行動、なんだろ。お前の気持ちは、お前の行動に充分現れてるだろうよ。」
理一は大きく溜息を吐き、もう一度麟太郎に笑みを向ける。
「見付かると良いな。」
「はい。……見付けます、必ず。」
麟太郎は理一に深々と頭を下げ、いつもより少し速い足取りで部屋を出て行った。
麟太郎は、今、何をしているのだろう。アタシを探してくれているのかしら。きっと、探してくれている。麟太郎は優しいから。
最期に困らせるような事をしてごめんなさい。でも、アタシにはこれしか残っていない。アタシの翼が動くうちに、此処へ来なければならなかった。アタシは鴉。鴉と呼ばれる、ただの鳥。人間を愛してしまった、愚かな鳥。
本当は、こんな冷たい土の上じゃなく、アンタの隣で死にたかったのよ、麟太郎。でも、アタシが知った事を伝えるには、これしかない。もしかすると、何も気付いてくれないかも知れないけれど。でも、信じなきゃね。好いた男の事だもの。アタシ、幸せだったわよ、アンタと出会えて。アンタと共に過ごしたお陰で、寂しく無かったわ。アンタは幸せになりなさい。アタシに浄土があるかは分からないけど、行けたら行って、待ってるから。
それじゃ、さようなら、愛しい人。
その日、早朝の事だった。私立望月医科学研究所の門衛は、研究所の正門の中央に、それが落ちているのを見付けた。爽やかな夏の朝に似つかわしくないその死骸を門衛は片付けようとしたが、ふと、死骸に足環が付いているのを見付けた。星様五弁花の紋と、識別番号らしき数字。つまりこれは警兵が所有しているのだ。そう判断した門衛は、来所者が不用意に死骸に触れないよう囲いを置き、最寄の隊所に届け出た。行方知れずになっていたのは当該の一羽であったから、直ぐに知らせが届く事になり、直様麟太郎は現場に走った。その場には通報した門衛が立ち、簡易な囲いが置かれ、通りすがりや野次馬が数人立ち止まって覗き込んでいる以外は、変わった様子は見られない。異物である麟太郎が近付くと、野次馬達は当然の如く距離を取る。囲いの中にあったのは、果たして一羽の鴉の死骸だった。
「……『くろすけ』。」
麟太郎は呼び掛けた。呼べば応えるのが「くろすけ」だ。しかし、鴉は応えない。目を閉じ、翼を大きく拡げ、横たわったままだ。「くろすけ」は、他の鴉と比べて見た目に特徴がある訳ではない。麟太郎は、これが本当に「くろすけ」なのか分からなかった。麟太郎は囲いを退け、鴉の傍にしゃがみ込む。その細い脚に付けられた足環に触れ、番号を確認する。壱。始めの一羽である証。間違いなく「くろすけ」だ。
「……。」
麟太郎はしゃがんだまま、死骸の羽に触れた。冷たく硬直したその体は何の反応も返さない。ついこの間まで温かな体を胸に抱えて生活していたのを、どこか遠くの記憶のように感じた。
(ついに、見付けてやれなかった。私は、ハル様の受難に際してもお傍に居られなかった。私は、二度も、誓いを果たせなかった……。)
無言のまま頭を垂れる。これは失意か。ふと、理一の言葉が脳裏に過ぎる。死期が近付いた獣は姿を隠すという話。しかし、「くろすけ」は姿を現した。――何故、「此処」に?
麟太郎は顔を上げる。此処は医科学研究所、医者か学者でもなければ用はない。此処に「くろすけ」を飛ばした事もない。「くろすけ」は人の名前と顔、場所を覚えて飛ぶのだから、一度も訪れた事のないこの場所で死んでいる理由がない。いや、もしかしたら。そこに理由があるとしたら。麟太郎は「くろすけ」の姿をじっと見た。その首は真っ直ぐに門の中に向かって伸ばされ、嘴の先は研究所を指している。開かれた両翼も相まって、方位記号を表しているようにも見える。その先に示された研究所に、何かある、という事なのだろうか。「くろすけ」だけが知り得た、何かが。
麟太郎は再び顔を上げ、研究所に目を向ける。この硝子窓の並ぶ建物の中に、一体何があるのか。一体「くろすけ」は、此処で何を知ったのか。――何を、自分に伝えたかったのか。麟太郎は物言わぬ死骸の頭の羽毛を、何時もやっていたように指で掻いてやった。指先に温度は伝わらない。胸の奥に生じた感覚に向き合うと、それは「寂しさ」であると麟太郎の心は認識した。
随分と長く死骸を見ているな、と門衛は内心で考えた。軍用動物は軍人と密接に関わっているとはいえ、犬や馬と違い、ただの伝書鴉だ。この鴉がその先駆けであったなどと知る由もない門衛は、邪魔をしないようにしつつも、早く片付けてはくれまいかと小柄な警兵の挙動を眺めていた。やがて、烏羽色を纏う警兵は地面に膝をつき、大切そうに鴉の死骸を包むと、門衛に一礼をして去って行き、その場には、用を為さなくなり片付けられるのを待つ囲いだけが残された。
「帝國の書庫番」
丗九幕「或る乙女の死」




