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帝國の書庫番  作者: 跳魚誘
42/42

帝國の書庫番 丗七幕

奥底に触れるには、まだ遠くて。

 胸が破裂するのではないかというほどに激しく脈打ち、頬は燃えるように熱を持っている。硬直した体を締め上げられ息が少し詰まった。東郷あまねは気を紛らわせる為に、思考を巡らせる。何故、自分はこんな事になっているのか――



「あまねちゃんは、可愛いお洋服がお好きなのですか?」

 勘解由小路留子がそう言った時、あまねは驚きで言葉を発することが出来なかった。留子とは何度か共に時間を過ごし、話をして、打ち解けたとは思っている。しかしどうして、あまね自身は隠している筈の可愛いもの好きに、留子が気付けたのか。

「何故、そう思ったのです?」

 内心の動揺を隠して尋ねてみると、留子はなんの後ろめたさも感じていないように笑って言った。

「だって、あまねちゃん、目で追っていますもの。異人の方やご婦人が洋装を着ていると。その時のあまねちゃんは、物珍しさから見ているという訳ではなかったですし、ああ、あのような可愛いお洋服が好きなのかな、と、わたし思ったんです。」

 あまねは困惑した。確かに、可愛いものにはつい目を取られてしまう自覚はあるが、それほどじろじろと眺めていた訳ではない、筈だ。なのに……。戸惑うあまねに、微笑んでいた留子が唐突に「そうだ」と声を弾ませる。

「あまねちゃん、一度可愛い洋装を着てみましょう! わたし、知人に協力して貰えると思います。それで、孝晴さまに見て貰いましょう!」

「どうしてそうなるのですか」

「あまねちゃんの可愛いところ、知って貰える機会じゃないですか!互いの事を知るには、あまねちゃんの事も知って貰うべきではありませんか?」

 満面の笑みで言う留子から、邪気など一寸も感じない。それに、留子が言ったそれは、あまね自身もそう思っている事だ。だからこそ孝晴を買い物に連れ出すような事をしているのだから。そして――あまねは、洋装に憧れている。

 これまでの社交の場でずっと着物を着て来たあまねは、制服以外の洋装を着た事がない。自身を律さねばと思えば思うほど、憧れが強まったのは間違いなかった。しかし、孝晴に見せる……。あまねは迷った。考えてみれば、社交の場の婦人達は、夫と共に洋装を着ている者も多い。けれどもあまねと孝晴は、今後社交の場に共に出るとは限らない。そう、それを思うと、もしかしたら、あのような衣装を着る事は今後、二度と無いのかも知れない……。

(こんな機会、あるものではないのかも知れません。一度、一度だけ……一度だけ、今回だけ、乗ってみても……。)

 微笑む留子の前で散々迷った挙句、あまねはとうとう頷いたのだった。



 あまねが目線を下に向けると、ひらひらとした飾りの付いた服を纏った胸元がある。腰に板を巻いて締め付けている為か、それとも完全に身を任せてされるがままに着付けされている緊張故か、呼吸が浅い。

「苦しくはありませんか? あまね様。」

 流暢な旭暉語で声を掛けたのは、金髪に碧眼の美しい異人の少女だ。昨年から学校で教師見習いをしており、留子と懇意になったという彼女は、この仕立屋の娘らしい。着付けは壮年の異人女性が担当しており、娘は彼女との間で通訳をこなしている。

「問題、ありま、せん。」

 あまねは答えて、ふーっと大きく息を吐いた。それを見た少女は微笑みを浮かべる。

「緊張なさることはありませんよ、あまね様。ぴったりなものを選んでいますから。ほら、もっと肩の力を抜いて下さい。」

「力を抜く、ですか。力を……。」

 あまねは竹刀を握る時を思い出そうとした。柄を握り、余分な力を体から抜き、腹に力を入れて背を伸ばす。しかし今はあまねの両手は頼りなく左右に伸ばされ、当然握るものなど何もない。あまねは結局、再度大きく息を吐いて身を委ねるしか出来なかった。


 勘解由小路留子があまねと親しくなっている事を、孝晴は知っていた。あまねは留子と出掛ける時、当然、孝晴に逐一報告していた。何が切掛でそうなったのか知る由も無いが、孝晴の事情を知る留子の事だ。あまねの状況を慮っている事は間違いないだろう。

「要らぬ心配をさせてしまったようですね。」

 孝晴は車に揺られながら呟いた。その正面には留子が座っている。あまねは着付けの時間があるからと先に留子と出かけ、その後留子が戻って孝晴を迎えに来たのだ。異人街にあるという留子の知人の店では、既にあまねが洋装に着替えている。

「孝晴さまには、お見通しですね。わたしがあまねちゃんを心配して、仲良くしていた事。」

 留子は眉を下げて笑みを浮かべる。

「だって、皆さまに協力した事のあるわたしさえ、孝晴さまのお心には、触れさせていただけませんでしたもの。」

 留子の言葉に罰の悪そうな表情を浮かべると、孝晴は「その節はご無礼を」と短く謝罪した。留子は慌てて首を振る。

「謝る必要などありません。わたし、そういうつもりで言った訳では……。でも、あまねちゃんが心配だったと同時に、孝晴さまも心配でした。貴方はお優しい方ですから、また、あまねちゃんを近付けまいと苦しんでしまわれるのではないかと。」

「……本当に、よく其処迄感じ取れるものですね。」

 孝晴は溜息を吐いた。彼女はあの時から全く変わっていないのだ。彼女の前で、麟太郎と和解することになった、あの夜から。留子は孝晴の反応に眉を下げた。

「ご迷惑になってしまったかも知れません……でも、わたし、あまねちゃんも、孝晴さまの事を知るべきだと思います。その為に、孝晴さまも、あまねちゃんを……もっと、知るべきです。わたしは、そう確信しています。」

(いず)れこの婚姻話が、崩れるとしてもですか。」

 孝晴は意地悪く言った。留子は聡い。これで、孝晴に「その気がない」事は簡単に伝わるだろう。留子は悲しげな目をしたが、ゆるりと笑う。

「ええ、それでも、です。」


 異人街最寄りの停車場で降りた二人は、目的の店までゆっくりと歩いた。此処では着物より洋装の方が自然で、いつもの絣を着た孝晴の方が目立つ。旭暉人と思われる人々も上下背広で固めており、留子も洋装のワンピースドレス姿である。異人街の人々の暮らしは、この街の中である程度完結している。外ツ國から仕入れた様々な品物、時折混ざる耳慣れない言葉。それらが、普段の自分の関わる世界と此処が異なっている事を感じさせる。

「ええと、確かこちらの道を入って……、」

 留子が交差点の先を指した時、留子がぱっと顔色を明るくした。その目線の先には、一人の異人の少女の姿がある。彼女も此方を認め、小走りに近付いて来る、のだが。孝晴は僅かな違和感を覚えた。

(……何だ?)

 孝晴は眉を少しだけ寄せる。走り寄る少女に、おかしな所は無い筈なのだが。

「すみません、もっと早くお迎えに行く筈だったのですが。」

 少女は此方に寄って来ると、綺麗な旭暉語で謝罪し頭を下げた。留子が笑顔で彼女に歩み寄る。

「いいえ、此処までの道は分かりましたから、大丈夫です。ユリアさん、こちら、有坂孝晴さまです。」

「許婚が世話になっています。」

 孝晴が挨拶を返すと、ユリアはにこりと微笑み、スカートの裾を掴んで身を沈めた。

「お目にかかれて光栄です、有坂様。我が家のような小さな店が皆様の御助けになれるならば、誠心誠意を尽くさせていただく所存です。」

 孝晴は、ただの町屋の娘が初対面の自分に向ける反応としては、些か「反応が早い」ように感じた。それは勿論、孝晴の時間であるからこそ感じ取れる間の違いなのだが。ただ、異人の少女であれば、旭暉の貴族に対して其程の感情は持っていないのかも知れない。

 ユリアと呼ばれた少女は美しく微笑むと、「どうぞ、此方です」と歩き出す。留子はその隣へ寄ると、楽しげに会話を始めた。孝晴はその二歩ほど後ろを歩きながら、ユリアの歩みを観察する。先の違和感の正体は、一体何だ。足の運び、裾の動き、身体の使い方……。

 普通の人間にとっては()()()()()の間に、孝晴は脳内で答えを導いた。いや、そんな事があるだろうか?一体何の為に?孝晴が内心首を傾げたが、暫く歩いた所で少女たちの足が止まった。

「此方です、有坂様。あまね様の準備を確認してまいりますので、中でお待ち下さい。」

 ユリアが戸を引くと、からんころんと小さな鐘が軽やかに鳴った。店の中には木の人形が様々なドレスを着て立ち、また壁にも洋物の衣装が衣紋掛けに掛かって並んでいる。店では販売だけでなく、貸衣装も出しているという。今回あまねは衣装を借り、異人街を散策する予定になっている。

 奥の間の出入口に掛けられたレースの暖簾が動くのを見て、孝晴は思考を切り上げる。先ず出て来たのは満面の笑みを浮かべた留子。そして彼女に手を引かれながら出て来たのは――鮮やかな白いドレスを身に纏ったあまねだった。

 全体的に簡素な構成ではあるものの、胸元を飾る光沢のある布は細やかに波打ち、首元の釦が真珠のように輝いている。繊細な紋様を施され薄く透けた布が腕を覆い、胸から腰にかけては彼女の細身の体にぴたりと沿っていた。腰の後ろが膨らませてあるのは流行の形と変わらないが、夜会の女性達や母が身に着けているような濃い色のドレスとは違い、全体的に柔らかな印象を感じさせつつも、所々にきらきらと輝く石があしらわれており、品のある美しさを醸し出している。耳の上には百合の花を象った挿し飾りが慎ましやかに揺れ、そしてそれを纏った当人は、顔を真っ赤にして俯いていた。

「似合うじゃねェか。」

 自然と言葉が口をついて出たことに孝晴は驚いた。服飾については余り興味が無いものの、長身のあまねにはゆったりとした着物よりも、このような身に沿った服の方が合うのかも知れない。あまねはばっと顔を上げると、目を見開き、唇を震わせた。

「そのっ、そっ……そんな、その……、」

「あまねちゃん、大丈夫ですよ! 本当に、とても良く似合っておいでですもの!」

 何故か言葉が覚束ないあまねであったが、隣の留子が飛び跳ねそうなほどに弾んだ声をかける。その後ろから、ユリアが異人の女性と共に出て来た。満足気な笑みを浮かべた異人女性が旭暉語ではない言葉で語調を弾ませると、それをユリアがにっこりと笑って通訳した。

「母も言っています、あまね様は大変素晴らしい、まるで服に選ばれたようだと。」

「……。」

 あまねは何とも言い難い表情を浮かべて黙ってしまった。紅潮した頬の横に、髪に刺した飾りから溢れた光の粒が揺れる。似合っていると言われているというのに、何が気に食わないのかと孝晴は首を傾げた。そんな孝晴とあまねの顔を留子が交互に見遣り、小さく笑みを溢す。留子には何か分かったのだろうか。彼女の事ゆえ何か感じ取っていてもおかしくはない。

「ところで、あまねちゃん。この後の事ですが。」

 微笑んでいた留子が口を開いた。あまねは何故か一つ咳払いをしてそれに応える。

「ええ、こちらの衣装をお借りして、暫く異人街を散策する……と。」

「それなのですが。」

 そう言って、留子が孝晴に目を向ける。孝晴は頷いた。

「ん、俺ぁやっぱし、一緒には行かねぇ事にした。」

「えっ?」

 あまねが僅かに目を開く。孝晴は苦笑じみた笑みを浮かべた。

「俺が居たんじゃ、お前さんは気を張っちまうだろぃ。留子お嬢様と二人の方が良い。」

「……。」

 戸惑いの表情を浮かべるあまねだったが、孝晴は道中に既に心を決めていた。日常の家事に縛られず、羽を伸ばせる機会なのだ。留子の思惑があったとはいえ、あまねは留子と二人で出掛けることを苦にしてはいない。自分がいても、彼女を妻の立場に押し遣り緊張させるだけだ。孝晴は彼女が犬を抱いた時の穏やかで幸福そうな顔を忘れていない。自分の前で彼女はあのような顔を見せたことはやはり無いのだ。

「そう……ですか。」

「お前さんのその姿を見られただけで俺にゃ充分さね。楽しんで来な。」

 あまねはその言葉を聞いて僅かに驚きの表情を浮かべたが、やがて静かに「わかりました」と呟いた。


 ユリアが渡した地図を手に、あまねと留子はゆっくりと歩いていた。あまねが履き慣れない靴を履いているというのもあるが、彼女が「衣装を汚すわけにいかない」と気を遣っているために、歩みが非常に遅いのだ。それでも留子は微笑んであまねに歩みを合わせている。

「お気に召しましたか?」

 留子が問いかけると、あまねは彼女の方を向き、足を止めた。

「……ええ、ええ。とっても。わたくしには勿体無いほどに、綺麗なお洋服です。」

 あまねは応え、ちらと周囲を見遣る。周囲の視線が自分に向いているような気がしてならない。初めて身に付けた衣服なのだから不恰好でも仕方ないとは思っていても、恥ずかしさは消えることが無かった。

「あっ、此方です! 舶来の硝子細工のお店。小物が可愛くておすすめとのことですよ。」

 留子が立ち止まり、地図と見比べると、一軒の店を指す。留子に続いて中に入ると、棚にはきらきらと光を反射して輝く色とりどりの食器が並び、台の上には煌めく耳飾りや首飾りが並んでいる。深い海の色をそのまま閉じ込めたようなものや、陽の光を思わせる橙がぬくもりまで感じさせるようなもの。

「きれい……。」

 あまねは小さく呟いた。奥から出て来た異人の男性は、店主であろう。彼の言葉は、此方が二人とも旭暉人であった為だろうか、少々覚束無い旭暉語だった。

「美しいお嬢さん、どれ、気に入りました。」

「あ、えっと……。」

 留子が声を上げる。あまねは散策には同意したが、無駄遣いをするつもりは無かった。留子もそれを知っていた。カフェで軽食をとる予定はあったが、それ以外はあくまで散策、珍しい店や品を見て楽しむという前提だった。留子がそう断ろうとした時、あまねがふと、それを手で止めた。そして、一つの小物を手に取る。それは深い青の奥に、雲母のような光の破片がちらちらと輝く丸い硝子が一つ嵌め込まれた首飾りだった。

「此方を……ください。」

 店主にそれを差し出したあまねの顔は、単に欲に任せて散財するにしては、何か決意したような、思い詰めたような表情を浮かべていた。

「あまねちゃん……?」

「わたくしは……向き合わねば。」

 思わず声を掛けた留子に向けてあまねが小さく呟いたその言葉の意味は、流石の留子にも理解出来なかった。



 からころと軽快な鐘の音と共に出て行ったあまねと留子を見送ると、店の中には異人女性とユリア、そして孝晴が残される。

「本当に宜しかったのですか? 僭越ながら、お時間を取っていただいたのですし、共に楽しまれても良かったのではないかと……。」

「ん、そうさな、けどあまねも納得した。」

 気遣わしげな表情を浮かべるユリアに孝晴が言うと、彼女――いや、()()。孝晴は確信して口を開く。


「ところで、そこの()()()()は、何でそんな格好してンだィ。」


 ユリアの表情は変わらなかった。違う、ただ、「凍り付いて」いた。奇妙だと孝晴は感じた。単なる女装趣味なのであれば、驚きの度合いが大き過ぎる。だが、彼女(彼)は直ぐに微笑みを浮かべた。

「何故、お分かりになったのですか?」

「一番は歩き方だな。お前さん、普段は違う歩き方してンだろぃ? 足の運び方がちっと硬く見えた。」

「それだけで分かるとは、考えにくいのですが……。」

 彼女、いや、女の服を着た女のような顔の少年は僅かに首を傾げたが、やがて首を振る。そうして次に声を出した時、流石の孝晴も驚いた。それまでの声は確かに女性らしかったが、今の彼の声は全く、男性らしいものであった。

「僕が女装していると、身内以外で見破った方は初めてです。分かってしまっては、何故僕がこのような格好で……しかも女学校に居るのか、気になるでしょう。説明いたしますので、父を呼んでも構いませんか? これには父も一噛みしているので。」

 彼は孝晴の思考を先読みしたかのように言った。確かに、彼と留子が学校で出会って親交を深めたらしい以上、男子である彼が何故女学校で女生徒に接しているのかは気になる点だ。孝晴が頷くと彼は異人女性に何事か告げ、驚きの表情を浮かべる彼女を置いて店の奥へ消えて行く。階段を上がる音がして、次に下ってくる時には足音が二人分になっていた。

 彼と共にやって来たのは、長身の異人男性だった。髪は灰色で、ユリアと同じように波打っている。待っていたらしい異人女性と共に三人で孝晴の前に戻ってくると、男性が口を開く。その言葉は綺麗な発音の旭暉語だった。

「お目にかかれて光栄です、有坂様。」

 男性はそう言いながら右手を差し出した。成程握手かと孝晴が軽く笑んでその手を受けると、男性は続けて言った。

「私はこの店の運営を行っております、サギザカ・エイジと申します。此方は妻のエマ、そして息子のユーリ。」

「どうも、許婚が世話になっています。姓名が旭暉風ですね。という事は……。」

 孝晴の言葉の先を、エイジと名乗った男性が引き取る。

「ええ、私と妻は帰化人です。私の名は(まも)るに(さむらい)と書きます。私の元の名に、守護する者という意味があるので。妻は花が咲く方の()むにマツリカの字を当てて咲茉(エマ)と読ませる事にしました。姓は私達の出会いの地から貰っています。」

 匂坂(サギザカ)。成程と孝晴は思った。匂坂保養地には各國大使の別荘があり、当然、彼らの周囲には世話などの為に多くの異人が付き従う。彼らはそのような立場で旭暉を訪れ、出会い、そして永住の地にこの國を選んだ。

「改めまして、僕の名前は匂坂ユーリ、勇敢で利発な子になるようにと、『勇利』の字を父が授けてくれました。」

「有難いことに、親の贔屓目を除いても、この子は非常に頭が良い。異人街の組合を手伝いながら教師の試験を受けて。そして、結果を持って学校に雇って貰えるように話をしに行ったのです。」

「へェ……お前さん、いくつだィ。」

「年が明けて十六になりました。」

 ユリア改め匂坂勇利(さぎざかゆうり)は、にっこりと微笑んで言った。

「今お伝えした通り、僕は生まれも育ちも旭暉で両親も旭暉人という、生粋の旭暉人なんですよ。なんですけど、応接室に入るなり校長に言われたんです。『女子が男のような格好をするとは何事だ、これだから異人は』とね。」

 彼は思い出しても面白いといった風情でくすくすと笑い声を立てる。父親の衛士氏も苦笑いだ。母の咲茉夫人は二人の隣でずっと笑顔を浮かべている。勇利は微笑みながら話を続けた。

「それを父に報告したんですよ。そうしたら、『向こうがそう言うなら、女らしい格好で行ってみれば良い』って。僕は幼い頃から母の仕立てる服を、男物女物問わず着ていたので、女性の服を着ての振る舞いも慣れているんですよ。なので今度は礼装のドレスを着て、戸籍も持って学校へ伺ったんです。ふふ、あの時の校長の顔。(みんな)に見せたかったなぁ。」

「まあ、まさかそのまま女装で教師見習いをする事になるとは、私は思っていませんでしたがね。」

 衛士氏が肩を竦める。隣で微笑んでいた咲茉夫人が勇利の側に寄ると、

「ユーリ、可愛い。私の、とても自慢の、息子です。私の服、いつも、着るします。優しい子です。」

 と、辿々しくも嬉しそうに言った。

「おっ母さんはちと旭暉語が苦手かい?」

「私、聞く、少し分かります。話す、難しい。お客さん、異人多いね。私、瑛國語と芙國語、話します。」

 孝晴に向かって微笑むと、咲茉夫人は勇利の頭を撫でる。勇利は少女のように微笑んでそれを受け入れると、改めて孝晴に向き直る。

「という訳で、僕は女性の振る舞いをする許可を得て女学校で働いています。留子さんとは、仲良くさせていただいていますが……まだ、気付かれていないので。バレてしまうと、今のように生徒達に近い目線で手助けするのは難しくなってしまいますから、内緒にして下さいますか? 僕が男だって事。」

「留子お嬢様ならバラす事ぁ無ェと思うがなァ。ま、お前さんがそれでやってンなら、邪魔立てするような事はしねェさ。」

「有難うございます。」

 そう言って彼はスカートの裾を摘み、腰を落として礼をした。その仕草と容姿だけ見ていれば、男性であるとは気付けないだろうと感じつつ、同じく女性に見紛う容姿を持ちながら行動はひたすら男らしい友人の事を思い出し、孝晴は笑みを浮かべたのだった。


 留子とあまねはゆっくりと歩みを進め、やがて異人街の入口付近までやって来た。此処には何軒か飲食店が並んでおり、異人街に暮らす人々だけでなく、仕事の為に異人街を訪れる旭暉人も立ち寄る事を見越して比較的広い店構えになっている。その中の一つがユリアの勧めるカフェであった。異国風の看板に、店内と店外が繋がった造り。張り出した屋根の下にも席が置かれており、どことなく縁側を思わせる。座席の間には異人の青年が制服を着て歩き回り、注文を取ったり、食事を運んだりしている。店に入った二人が店員を捕まえてユリアからの紹介状を見せると、店員は承知したと見えて二人を席へ案内してゆく。着いたのは光が差し込む窓辺の座席、卓は柔らかなクロスで覆われている。椅子を引いて腰掛けた二人は揃って息を吐いた。

「お疲れになりました?」

 留子が笑って声を掛けると、あまねは首を振ろうとしたが、すぐに苦笑して頷いた。

「ええ、少し。矢張り緊張が抜けていないようです。留ちゃんも付き合わせてしまって申し訳ありません。」

「誘ったのはわたしですよ、あまねちゃん。」

 留子がわざと怒ったような声音を使うと、あまねは「ありがとうございます」と微笑んだ。


 小さなフォークをクリームをまとったその身に沈めると、厚みのある三角形の切片が表れる。その三角にフォークをゆっくりと刺して、クリームと生地が積み重なった層を貫き、そしてそれを口に運ぶ。蜜を含んだ柔らかな生地をクリームの強い甘さが包み込み、混ざり合い、溶け合う。

「……美味しいですが、少し甘いですね。」

「そうですね、わたしはこのくらいの甘さも好きです。苦い珈琲と合わせる為に、甘味が強いのかも知れません。」

 留子の言葉を聞いたあまねは、僅かに目を伏せた。

「孝晴さんをお連れした方が、良かったかも知れません。甘い物が、お好きですから。」

「確かに、甘味を好まれると有名ですものね。」

 あまねは頷くと、フォークを置く。そして表情を和らげると、留子を真っ直ぐ見つめた。

「……留ちゃん、改めて、誘ってくださり、有難うございました。わたくしにはやはり、普段の格好の方が合うようです。」

 留子は目を瞬いたが、緩やかに笑みを浮かべる。あまねの言葉から、不満の感情は感じられなかった。

「お気に召さなかった、という訳では、ありませんよね。」

「ええ。服はとても綺麗で、まさに憧れていた洋服そのものでした。けれど、憧れが現実になるのは、必ずしも良いものでもないと分かりました。窮屈ですし、動き回り辛いし……社交の場に出る時はまだしも、わたくしのように、剣を握ったり、日常の生活をしたりするには、合わないという事が分かりました。あとは……、」

 そこであまねは一度言葉を切る。そして彼女は微笑んだ。

「孝晴さんが、『似合う』と言って下さいました。世辞であったとしても、わたくしの心情を慮って下さったのだと思うと……。あの方の一面に触れられたのではないかと感じています。」

 その言葉を聞いた留子は、お世辞ではなかったと思います、と口にしそうになったが、心の中に止めた。あまねが自分で感じなければ、意味が無いのだ。二人が「絆」を育むには。

「あまねちゃんも、孝晴さまも、互いに一つずつ、互いの事を知られたのであれば、今回の体験に意味はありましたね。」

「わたくしは、洋装姿をお見せしただけになりましたけれども。」

 首を傾げたあまねに、留子は笑って言った。

「孝晴さまは、『あまねちゃんには洋装が似合う』事をお知りになったでしょう?」


 二人はゆっくりとケーキを味わい、勘定を済ませて店を出た。何気なく辺りに目を遣ると、ふと、あまねの司会に見知った影が映り込む。

「あれは……。」

 行き交う人々の間に佇む、真っ黒な服を着た、一際小柄な姿。あまねは言った。

「留ちゃん、知人がいます。挨拶だけして行こうかと……。」

 そうして振り向いた時、あまねは怪訝そうな表情を浮かべた。隣の留子は、目を見開いて硬直していたのだ。

「留ちゃん?」

「はいっ!? あ、はい、ええ、ご挨拶ですね、分かりました……。」

 同意を得て歩き出したものの、留子の足取りはどこかふらふらとして頼りない。あまねは首を傾げつつも、黒い影のもとへ近付いてゆく。

「刀祢さん。」

 声を掛ければ、くるりとその身体が回転し此方に向かい合う。胸に抱えた布の中から鴉がぴょこりと首を出した。

「……。」

 麟太郎はあまねを見て、僅かに目を細めると、無言で一礼する。顔を上げた彼の表情には、普段通り、何の色も浮かんでいない。

「来て下さっていたのですね。」

「はい。本日は此方で過ごされるとの事でしたので、何事も起こらぬよう、待機しておりました。」

「非番で、いらっしゃいますよね。」

「ええ。……それが何か?」

 あまねの言葉に麟太郎が首を傾げる。あまねは苦笑して言った。

「それだけ、孝晴さんの事を思って下さっているのですね。」

「はい。」

 麟太郎は断言したが、少し目線を上に向け、そして言葉を続けた。

「有坂様の為だけでは、ないかも知れません。此処で共にお過ごしになるお二人のご安全も、守られねばなりませんから。」

 そうして麟太郎は留子にも目を向け、頭を下げる。留子の体がびくりと震えた。彼女は両手を強く握り合わせ、何かを必死で抑えている様子だった。流石にあまねは奇妙に感じ、声を掛けようとした時、留子が声を発した。

「……()()、さま……、」

 その声を、驚く程大きな叫び声が劈いた。麟太郎以外の全員が飛び上がり、周囲の人々も何事かと目を向ける。その声は麟太郎の胸元から響いていた。ぎゃーっ、ぎゃーっと大声で騒ぎ立てるのは「くろすけ」だった。「くろすけ」は頭を出し、布の下で翼を動かして暴れている。麟太郎は無表情ながら、急いで手を胸元に遣り、騒ぎ立てる鴉の体を撫でながら声を掛ける。

「どうしたのです、『くろすけ』。何も危険はありませんよ。」

 しかし、があ、ぎゃあ、があという鳴き声は止まらない。その嘴の先は、留子の方を向いていた。留子は呆然とし、戸惑いの表情を浮かべている。何か、留子が身に付けているものや匂いなどが、鴉の気に食わなかったのだろうか。あまねは留子を庇うように割り込んだ。

「すみません、カフェに寄って来たので、食べ物の匂いでもついてしまっていたかも知れません。そろそろ戻らせていただきますね。」

「『くろすけ』は……『くろすけ』、やめてください。その、申し訳ありません。少し、離れます。」

 あまねと麟太郎は互いに軽く会釈し、麟太郎は胸元の鴉を抱き抱えて小走りに離れてゆく。あまねも「行きましょう」と留子に声を掛け、彼女の手を引いて異人街の中へ戻っていく。そうして距離が離れると、けたたましく響いていた鳴き声はぴたりと収まった。

「……一体、どうしたのです。普段、周りに迷惑を掛ける事はしないでしょう。餌も余分に欲しがったりしないですし……。」

 麟太郎が指先を近付けると、「くろすけ」は嫌がる事なく、その指を甘噛みする。指先で鴉と遊んでやりつつも麟太郎は首を傾げ、一度後ろを振り返ったが、其処にはあまねと留子の姿はもう見えなかった。

「ハル様が居なかった理由も、聞けませんでしたね……。」

 麟太郎はぽつりと呟き、首を振ると、ゆっくりとその場から去っていった。


 その後、留子とあまねは来た時と同じように時間をかけて店に戻った。あまねは孝晴が店で待っていた事に驚いたが、孝晴は「色々と話を聞けて面白かった」と笑った。

「楽しかったかィ?」

 孝晴に問われると、あまねは頷く。

「ええ、とても。貴重な体験が出来ました。」

 そうして借りた衣装を返し、普段着に戻ると、あまねは思わず息を吐いた。なんと着やすいのだろう。なんと自分の身に合っているのだろう。なんと動きやすいのだろう。自分にはやはり、此方が合っている。ただ同時に、洋装をこの店で着てみることができて良かったとも思った。着付けを担当してくれた夫人は、帰って来てからも「とても似合うます、とても綺麗です」とニコニコと笑っていた。あまねが途中で購入した首飾りは、着替えた後にこっそり懐に入れた。遊興費と決めた分を殆ど使ってしまった為、今後は暫く節約せねばならないと決めたあまねの内心は、今は誰も知らない。帰り際に、留子が頭を下げ、感謝を述べた。

「今日は有難う御座いました、ユリアさん。大変有意義な時間を過ごせました。わたしも楽しかったですし、あまねちゃんも満足して下さったはずです。」

「ええ、勿論です。このような機会を作って下さった留ちゃんと、協力いただいた貴女に、感謝しなければなりませんね。」

「いえ、此方こそ、ご利用いただけて有難い限りです。もし洋装を新しく仕立てるのであれば、またお声掛けいただけましたら、満足いただける品をお仕立てしましょう。」

 ユリアは店の娘としての宣伝も忘れない。女三人で笑みを交わし、最後は孝晴も共に、帰宅の途についたのだった。


 月が大分空に上がって来た頃。あまねは一人、自室の文机の前に座っていた。机の上に置いたのは、あの、首飾りである。深い深い、黒にも見えるほどに青い硝子は、さめざめとした光を放っている。燭台の灯りの下でさえ、その色は冷たい。

(似ている、と、思ってしまった。()()()の、あの人の目と。)

 孝晴が、犬を捨ててこいと言った時の、あの目。けれど、その奥には、もしかしたら。あまねは首飾りの硝子玉を灯りに透かす。硝子の奥へ届いた光が、ちらちらと砕けて反射した。

(あの人には、何の関係もないモノだけれど。今のわたくしには、必要なはず。わたくしが、思い出して、向き合う為に。)

 あまねがぎゅっと硝子玉を握ると、ひんやりとした感触が伝わる。彼女が素肌の上にそれを身に付け、服の下に隠してしまうと、やがてその冷たさは柔らかく溶けて消えていった。



「狐」の面は、万華の知恵を司る。あらゆる情報を集め、分析したそれが、万華の歩みに反映される。その為に匂坂勇利は、常に情報の流れに敏感である。常人であれば気にも留めないような、日常に転がっている軽微な情報も、勇利にとっては全て仕事の材料になる。女性として女学校に潜り込んだのも、男性と女性の間に流れる情報が異なっている為だ。父が勇利に女装で行ってみたら良いと冗談を言ったのは本当だが、学校であった事は正確ではない。勇利は校長の弱みを握り、女性として勤務する事を認めさせた。でなければ、年頃の女生徒達に同年代の男子である勇利が近付ける筈がない。

 勇利は「浅葱」に用意されている協力者達から得た情報も使う事ができるが、自身の足で情報を集める事を重要視していた。彼は他人に対して中立であるだけでなく、自分に対しても中立で、客観的だった。自身の働きが「浅葱」に相応しいものであると自身で認識できるまで、働き続けねばならなかった。

 その彼が今、狐面の下で考えているのは、一人の人間についてだった。八華の間の中においても面を取らず、静かに座す彼は、鼬面――朱華がやって来たのを確認すると、彼を部屋から連れ出した。

「どうした、浅葱。何を考えている?」

 朱華は訊ねる。浅葱は周囲を確認し、自分達以外がその場に居ない事を確かめて口を開く。

「朱華。俺の女装が見破られた。」

「……。」

 どう反応して良いか分からなかった朱華は無言で返すが、浅葱の声音は真剣だった。

「俺は自分を特別視しない。自分に対する評価を甘くする事もしない。その上で、女性として溶け込んで違和感の無い振る舞いを会得した。そのつもりだった。だが、見破られた。()()()()()()()のみで。お前も知っている人物だ、朱華。いや、お前は、その人物を探っていた。」

「……孝晴か。」

 朱華の言葉に、浅葱は頷く。

「俺の女装は、初めから俺が男だと知る者以外にばれた事がない。それが、初対面の相手に一目で見破られるのは考えられない。朱華、有坂孝晴は、恐ろしい程に洞察力が高いぞ。深緋の弟というだけでなく……世間の有坂孝晴に対する評価は、恐らく正しく無い。お前が今後も奴に近付くのであれば……更に注意を払うべきかも知れない。」

「……そうか。忠告、感謝する。」

 朱華は応え、そして二人の獣面は其々の職分を果たすべく、散っていった。


「帝國の書庫番」

丗七幕「水底」

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