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帝國の書庫番  作者: 跳魚誘
3/41

帝國の書庫番 三幕

三月ほど後。そのきっさきが向くものは。

 その男は、帝都の外れ、少し前まで國境であった場所に近い荒屋あばらやに住んでいた。元はどこかで腕を鳴らした剣士だったとの噂だが、それが本当なのか、そもそもその男の名すら、誰も知らなかった。訪ねる者もおらず、また男が誰かを訪ねる事もない。荒屋までの路も荒れ果てるままに、付近の住民がたまに、刀を差して道着で出歩くその姿を見かけるという事実だけが、その存在を証明している男。少年は、唐突にその男の前に現れた。絣の着物、普段履きの下駄、頭の後ろで結わえた長い髪。男の世界をこじ開けるように荒屋の戸を開け放ったその少年は、笑みを浮かべ、言った。

「なぁ……あんたの剣を、俺にくれねぇかぃ。」



 からころと下駄を鳴らしながら、有坂孝晴は通りを歩く。当然、本来であれば職務中の昼下がり。忙しなく行き交う人々、白い息を吐きながらも談笑する婦人たち。ああ、帝都は平和だ。数年前までは乞食や浮浪者も近寄る隙があったが、整理と開発が進んだ結果、中心街には殆どそのような姿は見られなくなった。しかし、その平穏の皮を一枚引っぺがせば、狂騒の吐泥へどろが溢れ出てくる事を彼は知っている。文明開花、大いに結構。流れ込むおりも、また結構。しかし、どぶ浚いができるのは、それに気付いた者だけだ。ゆるりゆるりと歩を進めれば、周りからの呆れと苦笑と羨望が混ざり合った視線が絡み付いては離れてゆく。これだから、自分では気軽に買い食いもし辛いのだ。飴屋の親父なんぞは、あからさまに孝晴を嫌っている。まあ、自分を含め兄弟全員、容姿が悪くないという自覚はあるため、若い女であれば多少は話しかけやすいのだが。有坂家の評判が自分の所為で落ちるような事はない。長兄は海軍中佐を務めたのち貴族院議員となり、次兄は陸軍大尉だ。仕事を放り出してぶらついていたとして、落ちるのは孝晴個人の評価のみであるから、母親も気にしてはいないだろう。しかし孝晴の目的は別にあった。

(大胆なことをやるもんだ。もう戦争なんて何十年も前に終わってんのによ。)

 外つ國との複数の取引書類中にあった数の不一致。其々を確認しただけでは気付かないだろうが、全ての書類を暗記している孝晴は気付いていた。反政府勢力――旧幕軍の生き残りに兵器を横流ししている者がいる。流石に昼間からそのような動きはしないだろうが、軍の本部、各駐屯地、その他を実際の路で結び付け、首謀者の気配を探る。その為の「散歩」だった。「有坂家」の嫡子である自分が通報すれば、例え書記官の身分でも、聞き届けられない事はないだろう。しかし。

(兄貴たちを差し置いて、それはできねぇ相談だわなぁ。)

 襟巻を口元に引き上げながら、孝晴は自嘲する。何故自分なんぞに、こんな能力が備わっているのだろう。兄達と違い、自分には何も望まれていなかったというのに。だが、見て見ぬふりができるほど厚顔無恥にはなれなかった。気付いた自分が「どぶ浚い役」になるしか道はないのだ。



 男は、少年を追い出しはしなかった。少年は、ただ黙って男の動き、型、全てを視る。男は、ただ黙って剣を振るい続ける。そして少年は、一度視たその動き、剣の流れ、力の込め方、足捌き、それを全て再現してみせる。その繰り返し。少年は、剣を振る男の太刀筋や姿勢を「美しい」と思った。高名な剣士だったという噂は、きっと本当だ。しかし、数えで十三の少年には、流派までは分からない。男も、少年も、互いに互いが何者か知ることなく、剣を振る。



 夕刻。孝晴は、ゆったりとした足取りで執務室に現れた。恐らく彼が来るとは夢にも思わなかったであろう面々が一様にギョッとして表情を変えるが、孝晴がにっと笑うと愛想笑いが返って来た。もう勤務時間は終わっているのに、何人もここに残っているのは意外だったが、一人の書記官が孝晴のもとへ近付き、おずおずと口を開く。

「……あ、有坂一等書記。その、第一書記部からの催促がありまして……。」

「んにゃ、問題はねぇよ。静屋、お前もけえんな。」

「一等書記殿は?」

「勿論、俺も帰るぜ。」

「そうですよね……。」

 静屋と呼ばれた二等官は、はぁ、と溜息を吐いた。

「貴方様のご指示には従いますが……。毎度その……締切間際になると、こちらの胃が痛いのですよ。」

「安心しろって、俺が仕事をすっぽかした事があったかぃ?」

「毎日です。」

「はは、違いねぇや。」

 もう一度溜息を吐くと、礼をして去っていく静屋。続くように、他の人員もいそいそと帰り支度をし、部屋から出て行く。残った孝晴は、執務室の鍵束入れから書庫の鍵を一つ取り出し、開けに向かう。なに、そこにある筈のものが記憶通りであるかどうか、確かめるだけだ。

 孝晴は彼を始め第三書記部の書記官たちに、最低限の仕事しかしないように命じている。一部の者は楽でよいと思っているようだが、静屋は生真面目な性格だ。孝晴の命令で期限近くまで仕事を残す度、気が気ではないのだろう。こんな事をしている孝晴がいる限り、まともに仕事もできず、昇進も見込めないのだ。可哀想ではあるが、仕方ない。そもそもここは送られてくる書類を整理し、然るべき場所へ納め、要請があれば引っ張り出し、写しを作成し、管理するための部署だ。保管を目的としない重要書類や、各省の機密文書は当然各省で取り扱われている為、内容の精査もそれほど難しいものではない。故に、落第の狭間で受かった者や、取り敢えず役職が必要な道楽貴族もよく送られる。まさに孝晴がその筆頭だ。その「ありとあらゆる軽微な情報が集まる」第三書記部の立場を孝晴は最大限に利用しているが、静屋のように、真面目に打ち込んでもこのような場所に流れ着いてしまう人間もいる。哀れだ。どうして自分の能力の一部でも、まともな期待を受けてきたであろう、彼らのような者が持てなかったのだろうと自身に問うても、どこにも答えは存在しない。



「俺ぁ、兄貴を殺しそうになったんだよ。」

 ある日少年は、ぽつりと言った。自分が感情を制御できなければ、人間が死ぬ。そう自覚した時の恐怖。遊びでも剣を握る気になれなくなった少年は、ある時元剣士であるという隠者の噂を耳にした。もしそれが本当ならば。他者に惑わされず、自己を律することができなければ、そんな生き方はできない。それができる人間がいるなら、もしかしたら――。そして少年は男の元へやって来た。本当に自分に必要なものは、誰も自分には与えてくれない。そうこぼす少年に対し、男はやはり黙っており、何も言わなかった。



 有坂家の屋敷は、孝晴が産まれる前、外つ國の様式で建てられたはじめの建物のうちの一つだ。それだけ新政府と繋がりは深いが、体制が変わる以前から力を持ち続けているのだから、我が家ながら恐れ入る。広い敷地、苔生し美しく石の配置された庭園、「母屋」の洋館には母がいる筈だが、出迎えの女中に軽く告げると、孝晴は庭の道なりに歩み、「離れ」に向かった。純旭暉様の母屋に屋根付きの板廊下で複数の棟が連なるそれは、貴族身分にあってもそれ単体で豪邸と呼べる代物だ。有坂家の兄弟は幼い頃は離れで家庭教師や武道の教師と共に過ごし、ある程度の歳になると母屋に移り、親――母の教育や作法を改めて叩き込まれる。長兄孝雅、次兄孝成はそれぞれ、別の特別な「勉強」をした事は知っている。それが無かったのは、孝晴だけだ。長兄は歳が離れているが、次兄の「勉強」は、探ろうと思えば、造作なく探る事はできた。何せ孝晴は、誰にも見られずに動ける。けれど孝晴はそれをしなかった。畳の上で髪を解き、結い直すと、葛籠を開ける。取り出した黒の羽織を纏い、刀を差すと、孝晴は一つ息を吐き、いつの間にかそこから姿を消していた。



 少年に真剣を鞘ごと投げ渡し、間髪入れず振るわれた男の太刀の鋭さは、男が本気で斬りかかっている事を示していた。しかし、その表情はあくまで静かだ。少年は、分からない、と思った。自分が本気を出すまでもなく、男の方が「遅い」のだ。とっくに、少年に剣が当たらない事も知っている筈だ、この男なら。ならば何故、こうも静かに、穏やかな殺意を向けるのだろう?男は鞘を握ったままの少年を見ると、自分の振るう刀を少年に向かって投げつけた。少年は難なく抜き身の刀の柄部分を握って受けるが、その瞬間に少年の手から鞘に収まった刀が抜き取られていた。「隙をつかれた」のは、初めてだった。驚愕する少年。男は鞘を払った。二人は真剣を握って向かい合う。



 晴れ渡り冷え切った月夜。鬱蒼と影を落とす草木の中には、僅かに踏み跡が獣道として残っている。その先には、酷く朽ちた荒屋があった。壁板は白く剥げ、屋根も半分崩れかけている。しかし、思いの外広いその床の上には、確かに人の気配があった。小さな蝋燭を囲み、明かりが漏れないように座す三人の男は、一様に軍服を着用していた。二人は鳶、一人は烏羽。暗がりではその色も判別できないが、当然彼らは互いを認識している。

「此方からは廿四挺。」

「一箱か。」

「それ以上は……。」

「わかっている。それぞれ分包して各実働隊へ送る。予定より少なくはなったが、やむを得まい。」

 一人の鳶服が声を顰めながら話すに合わせ、他二人がその手元を覗き込む。その時。


「『横流し』の見返りは『それ』かぃ?」


唐突に響いた、穏やかな男の声。弾かれたように三人が顔を上げると、黒い羽織を着た長身の男が、扉の前に立っていた。

「っ、貴様……!?」

 一人が思わず声を上げたが、言葉が続かない。他の二人も呆然としている。彼らの脳内では、闖入者が誰なのか、どうやって中に入ったのか、何故気付かなかったのか、目的は何なのか……と、次々と浮かぶ疑問の処理に手間取っているのだろう。「人間ひと」の頭の回転は遅ぇなぁと思いながら、黒羽織ーー孝晴は笑みを浮かべて見せる。

「鐡國人どもが、よく書類偽造に応じたもんだと思ったがねぇ。『それ』が手に入るなら別だ。だろ?徒野あだしの清司せいじ一等警兵、義永よしなが龍藏中尉、……小田切(れい)次郎少佐。」

「!!」

「佐官級まで絡んでるとなりゃあ……『旭暉全図』も『帝國帝都詳細図』も、複写はできらぁな。」

 事もなげに発された声に対する驚愕の反応が、孝晴の言葉に間違いがないと示している。一本線に一ツ五弁花の袖の鳶服ーー小田切は既に相手が全てを察していると悟ったのか、口を開いた。

「何故我々だと分かった?」

「陸海警全員の出身・階級・姓名は頭に入れたんでな。特に出身は判断材料になる。つまりだ、候補の中からあんたらだって分かったのは、今ここに来てからっつう事になる。」

 そんな馬鹿な事があるか、と三人共に思っただろう。軍部に所属する全員を覚えている、と言ったのか、この男は?

 小田切は一つ息を吐いた。切り替えが早い。そこは流石に佐官といったところか。

「貴様の目的はなんだ。ただ我々の名を当てに来たのではあるまい。」

「まずは『それ』を返してもらう。で、あんたらの蹶起けっきも止める。俺ぁその為に来た。」

「……どこまで知っている?」

「まず、あんたらは旧幕臣、もしくは反政府側で戦った藩の出身で、戦争後に割を食ってる。次に、新政府の体制が整って、軍備増強と都市整備が始まった。武器輸入もその一環だ。最後に、各駐屯地、部隊、それぞれに必要な小銃の備品数に応じた発注数に対して、一番少なくて三点、多けりゃ二箱……納入数が減った事例がここ四年で丗件余。備品の小銃が『不良品』として処分されたのが三年の間に百廿余挺。納品書にも廃棄記録にも書き換えた跡はねぇ。偽造がないのは、『最初から虚偽の内容を書いていたから』だ。納品数は色々と理由つけて誤魔化してたよなぁ。小銃は安いもんじゃねぇし、ここまで廃棄が増える理由もない。だが、『頻度』の問題だぜ、少佐。事が起こるまで時間がねぇって分かったのはな。よくもここまで長い間、こつこつやり続けたもんだ。」

 滔々(とうとう)と語る孝晴を睨みながら、三人は一様に薄ら寒いものを感じていた。彼らは、長い間、長い長い間息を潜め、少しずつ計画を進めてきた。怪しまれないよう細心の注意を払って来たのだ。それを書面の上だけで見抜いたと?有り得なかった。

「で、今動くことにしたのは、『帝國帝都詳細図』が完成したからだろ。あんたらが動くにも、詳細地図が手元にありゃ都合がいい。旭暉を狙う外つ國にちらつかせる餌にもなる。帝都の構造を知れば攻略の戦術が立つからなぁ。寧ろ、外つ國も味方につけてんのか?ただ、一個解んねぇんだな。」

「……ほう?」

「あんたらの『目的』。」

 孝晴は柔らかな笑みを崩さずに言った。

「碌な事じゃねぇのは少なくとも分かるが、武器集めて、どこを最終目標にどう動くのかが解らなかった。目的が分からねぇからな。だから、あんたらに近しい人間のいる部隊と、帝都外への連絡が飛ばしやすくて、かつどこの邏隊・警兵隊の目も届きにくい境界地点……つまり、此処を張ってたって訳だ。」

 烏羽の外套を着た青年ーー徒野が、ぴくりと反応した。まさにそれを考慮し、開発も及んでおらず灯りもない、つまり移動を悟られにくい場所をと、彼がそれぞれの管轄範囲を調べ尽くして選んだ場所だったからだ。彼は音もなく立ち上がった。他の二人も、義永は孝晴を睨みながら、小田切は気が乗らない風にゆっくりと、立ち上がる。徒野は言った。

「目的を貴様に伝えて、なんになる。」

「なんにもならねぇ。ただ、地図は返して貰わねぇとな。」

 孝晴は目を細めた。

「それは『原本』だ。今書庫にあるのは『うち』が作った複写でな。あんたらが事を起こしたら、俺らにも火の粉が降ってくる。」

「……成程。お前は、第三書記部の者か。いや、そうか……有坂の三男か、お前は。」

「知ってくれてんのかぃ。嬉しいね。」

「よく見れば、有坂大尉に似ている。」

「はは。」

 小田切は息を吐く。何度目の溜息だろうか。有坂家二男の有坂孝成には一度、合同演習で会った。新政府に繋がる者として排除対象ではあれど、彼の指揮能力には舌を巻いた記憶がある。演習後、それとなく話しかけた。いや、見事な采配だった。噂には聞いていたが、有坂家の者はみなそうなのか、と。青年大尉は謙遜するように微笑み、私など兄に較べたら、と述べた後、複雑な表情を浮かべ、言ったものだ。

ーー弟は才覚に乏しい訳ではないんですが、ただ、何もする気がないようなんです。

「その三男坊が、まさかこんな世直しごっこに興じていたとはな。」

「世直しなんかじゃねぇさ。あんたらの方が、自分らをそう思ってんだろうよ。正義の志士だってな。俺がやってんのは、ただの『どぶ浚い』さね。」

「なんだと……!」

 黙って孝晴を睨んでいた義永が低く声を絞る。孝晴は眉を下げて苦笑した。

「で、武器掻き集めて、政府に反旗を翻して、どうするつもりなんだぃ?」

「……今の政府は一部特権を得た藩の人間が動かしている。それは当然変える、そして、政府に迎合するみかどを排除する。」

「義永!」

「おっと……。こりゃ、『万華ばんか』の案件だったかねぃ。」

 鋭く制した小田切の声を気にするでもなく、孝晴は腕を組んだ。それまで静かだった義永は耐え切れなくなったのか、呪詛を込めるように吐く。

「あんな衛士えじ風情の集まりが何だと言うんだ。政府側の貴様にはわからんだろう……我らや、少佐が、ここまで来るのにどれほどの経験をしてきたか……一族の者がどんな目に遭ったか……貴様に……!」

「んにゃ、まぁ、そりゃあ有坂家(うち)は、な。けど、俺も部下と飼い犬が厄介な目に遭うのは捨て置けねぇ。あとは、俺の個人的な話になっちまうがねぃ。」

 口調だけは崩さずに、孝晴は一歩前に踏み出した。徒野と義永は既に、剣を抜いている。小田切は後ろに下がった。彼らは孝晴を生かして帰す訳にはいかない。そして孝晴も。


「感傷に浸る気はねぇんだが、『ここ』が暴徒の巣にされんのは、我慢ならねぇんだ。」


 はじめから、斬るつもりでここへ来ていた。


 手ぶらのまま踏み込んで来た孝晴に虚を突かれ一瞬二人の動きが止まるが、背後の小田切は守らねばならない。ならば、寧ろ二人の間に無警戒に割り込んだ孝晴を斬らない手はない。同時に二人は刀を振るう。右袈裟に、そして胴一文字に。捉えられない筈がなかった。しかし。

 背後で拳銃を構えていた小田切は、信じられないものを見た。二人が斬りかかった瞬間、孝晴が「消えた」。いや、跳んだ。床がメシッと軋む音が後から聞こえ、その時には黒い羽織の姿は、二人の身長を優に越える位置にあった。刀は空を斬り、そして義永の上衣を一文字に、――徒野の右手首から先を斜に斬り飛ばした。

「えっ、」

「な……? ッ、ぁあ、あ、ぐ、ぎっ……!」

 呆然とする義永と、一瞬の後に何が起きたか理解した徒野が驚愕と混乱の呻きを上げる。刀を握ったまま転がった手首が、蝋燭を倒し、消した。天井の隙間から月光が差し込む中、とん、と軽い音と共に着地した孝晴。だが、小田切は動揺を鎮め、引き金を引いた。


(拳銃!)

 孝晴は既に、それを認めていた。指に力が入り、引き金がゆっくりと動く。煙と弾丸が飛び出すのが見えた。銃の弾は、完全な真円形ではない。羽織の下の刀を抜く。そして刃の、最も薄い部分が、弾の頂点にくるように。中心から、髪一本ほど左か。床の血に触れないように着地してから弾丸が刃に触れるまでの刹那だけ、孝晴は限界まで“集中”した。


 ぱきん。


 膝をついた徒野の頭上と義永の頬を何かが掠め、今度こそ、小田切は目を見開き、頭から血の気が引くのを感じた。目の前の男は、刀を右手で正眼に構えつつ、左手で峰を押さえるようにして立っている。こいつは、いつ、刀を抜いた?

「貴様……今、何をした?」

 声が震えていた。銃把を握る手も震えているだろう。月の光を反射して、目の前に立つ男の瞳が青く光った気がした。

「答えろ!何をした!」

同時に、再び小田切は引き金を引いた。回転式拳銃には、まだ弾丸が残っている。

ぱん。

 余りにも軽い音と共に、倒れたのは義永だった。目の前には、長身の優男が妖しい笑みを浮かべている。その右手は刀ではなく、小田切の握る銃を上から握り、銃口の向きを――義永の方へと――変えていた。

「やめときなァ。俺は『この距離でも避ける』ぜ。」

「お前……お前は一体、」


 何者なんだ。

 いや。

 “何”なんだ。


 その言葉を言う前に、小田切は熱いものが腹に突き刺さるのを感じた。孝晴は、感情のない目でそれを見ている。右手を失った徒野が、この暗がりでも分かるほど真っ青な顔をしながら、有坂孝晴に向かって左手で突き出した刀。それを孝晴は半歩体を捻っただけで避けた。当然、その刃は、彼の目の前にいた小田切を貫いた。ただそれだけの事だ。

「少、佐、」

「逃げろ、徒野。」

 小田切は、喉の奥に鉄の味を感じながら声を絞った。

「逃げろ。こいつは、化け物、だ。」


 全身が心臓になったようだった。興奮しているからか、血は一向に止まらない。呼吸が苦しい、肺が痛い。噴き出す鉄の臭いを獣道に撒き散らしながら、漸く徒野は小道にまろび出た。追ってきてはいない、のだろうか、あの男は。何年かけただろうか、みなそれぞれの組織に潜り込み、時を待ち、外つ國とも密約を交わした。あとは同志達に決行を呼びかけるのみ、だった。それを、たった一人の男に……。汗なのか涙なのか、それとも血を流した所為なのか、霞む目が一瞬、影を捉えた。今すれ違ったのは。――何故、「すれ違った」?奴は、後ろに――

「その軍服は、斬りたくなかったんだが……悪ぃな。」

 その哀しげな声が、徒野が聴いた最後の音となった。



「……師匠。」

 少年の声は震えていた。膝をついた男の体から噴き出す血が床を染めてゆく。少年は、「何故」に自ら答えを出した。男は、――斬られたいのだ。そう結論を出した時、少年の心は凪いだ。そして、一閃。男には視えなかっただろう。袈裟斬りにされたと理解した瞬間、果たして、男は笑った。笑って、膝をつき、倒れる前に、背後の床の間を指差した。刀が少年の足元に放られる。そして男は、倒れ伏した。指された先には、丁寧に畳まれた手紙があり、それを見て、少年は無意識に声を出したのだった。


「名も知らぬ少年よ

お前は私の剣技ではなく、剣を御する自制の技術を求めていた。故に、私は私自身を全てお前に与えることにした。この刀は決して折れない。持っていけ。お前と剣を交えられたことに感謝する。


水鏡之心曇勿」


 美しい字だった。教養もあったのだろう。しかし、男が存在した証はもう、孝晴の中にしかない。



「あーー……ハラ、減ったなァ。」

 月を見上げ、孝晴は呟く。足元には、烏羽の軍服を纏い、背中を袈裟斬りにされた死体が横たわっている。まだ若い彼にとっては無念だったに違いない。しかし。

(いざ事が起これば、鎮圧されようが、あらゆる組織が捜査されるはずだ。刀祢の爺さんが『庭番』だったのを知ってるのは俺と理一だけとはいえ、政府も馬鹿ばかりじゃあない、お麟に万一の事がないとも言えねぇ……。)

 そこまで考えて、孝晴は苦笑した。

「なんで、あんな忠犬になっちまったかねぃ。いや、俺が拾っちまった報いか。」

 手を出したら、最後まで責任を取る。その最後は、まだまだ先のようなのだ。孝晴は振るった刀を見る。あぶらはどうしても付くが、血振りするまでもなく、血の一滴も残っていない。斬られた瞬間は、痛みも感じなかっただろう。ただ、と孝晴は背後を振り返った。頭を撃ち抜かせた義永中尉はすぐに絶命しただろうが、小田切少佐は、命を絶ってやる事もできなかった。動く気力があれば、拳銃で自決しているかもしれないが、それでも苦しませたのは確かだ。


――水鏡の心を、曇らせてはならない。――


「俺の心が水鏡なら、多分、モノが映るのは黒く濁ってっからだと思うぜ、師匠。……なぁ、『鏡丸かがみまる』?」

 物言わぬ刀に語りかけ、小さく自身を嘲笑すると、孝晴は刀を納める。小袋から取り出した飴をガリと噛み、誰にも見られる事なく孝晴は姿を消した。


 惨殺された警兵の遺体が道に放置されていると、通りすがった行商人から邏隊に通報があった。何かから逃げるように倒れていた遺体の背後には、森の中まで点々と血痕が続いていた。それを辿った先にあった荒屋の中も惨状で、二人の軍人の遺体が見つかった。また、國土全図と帝都の詳細地図に加え、反乱の実行を指示する書状も発見され、陸軍・海軍・邏隊・警兵隊内で大々的に反乱分子の摘発が行われた。現場の遺体は、それぞれが自らの得物で互いを攻撃している状況から、仲間割れを起こして殺し合いになったと判断された。そこまで目を通すと、有坂孝晴は新聞を長椅子の脇に放る。

「おい、俺の部屋は手前のごみ捨て場じゃねぇぞ。」

「この部屋、煙草臭ぇから怠ィんだよ。」

「だったら入り浸るんじゃねぇよ……。」

 溜息を吐く衣笠理一に対して、にへらと笑みを浮かべて見せる孝晴。

「まぁ、こっちもお前に用があったからな。」

「なんでぃ、衣笠センセの方からってのは、珍しい。」

 理一は眼鏡の奥から孝晴を見ると、白衣のポケットから何か小さなものを取り出し、親指で弾く。孝晴が受け取ったそれは、中心から真っ二つに割れた弾丸だった。

「……お前がやったな?」

「……。」

 孝晴は薄く笑みを浮かべ、弾丸の破片を投げ返す。理一も難なくそれを受け取りつつ、検死の為に現場に向かったと明かした。

「状況証拠で仲間割れって事になったが、多分俺以外にも『背中の刀傷だけサーベル刀の傷じゃない』って気付いた奴はいる筈だ。流石にこの弾が『斬られた』ものだって思った奴はいなかったがな。けどな、あまり一人で動くなよ、孝晴。いくらお前でも手に余る事はあるだろうよ。麟太郎がやられたのだって、こいつらが原因……、」

 そこまで言って、理一は一瞬口を止め、納得したような表情を浮かべた。

「あぁ、リン公の敵討ちか……。」

「ま、それが無いとは言わねぇよ。警兵隊の内部情報を流してたのはそいつらの同胞だ。警兵を排除しようとしたのは、『警兵狙い』だと思わせる目眩しと、単純に敵を減らすって目的の両方だらぁな。ウチの犬に手ェ出した報いくらいは受けてもらっても悪かねぇだろぃ。」

「はぁ……成程な。」

(どうせ『それだけ』じゃないんだろうが……。)

 理一の涼やかな目が、僅かに細められる。理一も、彼と麟太郎には恩がある。だが、有坂孝晴という男はやはり底が知れない。いや、誰も彼の「底」などには触れられないのかもしれない。それでも。

「麟太郎を行かせなかったのは、同胞を斬らせない為だろ。」

「はは、ばれてら。」

「あいつは任務とお前の為ならなんでもやるが、俺達みたいに捻くれちゃいないからな。同じ警兵なんか殺した日には相当堪える筈だ。お前も大概過保護だぜ、リン公に対してよ。」

「……リイチには敵わねぇな。」

「元から他人ひとの心を読むのには長けてるつもりだぜ。」

「ひと、ねェ。」

 長椅子に寝そべりながら呟いた孝晴は、普段と変わらない、柔らかな笑顔だ。しかしその笑みには、他人と距離を置こうとする拒絶と、拒絶の殻に覆われた寂しさとが表れている。その殻をより固くしてしまったのは、きっと自分だ。出会って間もない頃とはいえ、彼を「突然変異体」だと分析してしまったから。その時孝晴が見せた、諦観と失望の色が混ざった笑み。瞬間的に、理一は自分の誤りを悟った。彼が本当に求めていたのは、「孝晴も人間である」という答えだったのに。せめて「突然変異を起こした人間」とでも言えばよかったのだ。ほんの小さな違いだが、それでも理一はそれを今でも悔いている。だから。

「さて、俺からはもう何もねぇよ。リン公もこの件でまだ駆けずり回ってんだろ?俺は研究室を見てくるけど、今日はここに人は入れないから気の済むまで寝とけ。砂糖はないが、酒なら後ろの棚の下に入ってるからさっさと飲んどけよ。」

「なんでぇ、いやに優しいじゃねぇかぃ。」

「疲れてる友人を追い出すほど、冷血になった覚えはないぜ、俺は。」

 ただの友人として、対等な人間として付き合うと、衣笠理一は決めたのだ。


 襟元をはだけさせたまま、一升瓶を抱えて長椅子に寝転がっている自分の姿は、さぞだらしない事だろうと孝晴は思った。基礎代謝(と理一は言っていた)が高いらしい孝晴は、酒の分解も早く、殆ど酔わない。酒は米からできている訳だから、余りにも飯が足りない時には頼っている。液体で多少腹は膨れても、そこまで「頭が満たされる」感覚はないため、あくまで緊急時やそれ以外のものが用意できない時の措置だ。手っ取り早く頭を回すには飴や金平糖、もっと言えば角砂糖なんかが一番よいのだが、男がそんなものを頻繁に買う訳にもいかない。理一は女兄弟ばかり家にいるため、頼めばよいのかもしれないが、あれで彼も忙しい身だ。花街通いも、遊んでいる訳ではないのだろう。瓶を抱いたまま、ごろんと寝返りをうつ。あの日から思考を止められず、その分物理的に動かないようにしなければ体が保たなかった。あの荒屋は、建物ごと消える事になるだろう。男の記憶を留めるものが、また一つ消える。同じようにいずれ自分も消えなければならないとは思っている、のだが。

「友人、……か。」

 人から外れた化け物の自分が、人への執着を捨て切れないとは、なんと滑稽な事だろうか。ただ、悪い気分でないのも事実だった。孝晴は目を閉じた。眠っている間は思考せずに済む。今は“友”の好意に甘えてもよいだろうと、孝晴は、記憶も思考も全て、深い闇の中へと沈めていった。


帝國の書庫番

三幕 「有坂孝晴」

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