表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帝國の書庫番  作者: 跳魚誘
16/41

帝國の書庫番 十四幕

白き秋の終わりは、彼誰時にも似て。

 男は、幼い頃から頭が切れた。当時であれば、天才と言っても差し支えなかっただろう。彼が少し言葉を操ってやれば、たちまち大人は自分の手足となり、何でも叶えてくれた。その才が少年を傲慢な男にしてゆくのに、時間はかからなかった。自分の思い通りに他人を操る彼は、内心では常に他人を見下していた。他人など、自分の為に動く駒としての使い道しか無いからだ。勿論彼は、必要な努力は怠らなかった。いくら口が達者でも、実力が伴わなければ張子の虎でしかないと、聡い彼は分かっていた。幼少の頃の一時の恥など、将来得られる対価に較べれば微々たるものだ。分家とはいえ、名家の出である男にとって、取り巻きにできる人間は腐る程居た。成人するまでにそうして人脈を張り、表向きはそれなりに義務を果たしながら、その実上手く騙し取った金で博打や女遊びを楽しんできた。

 しかし男にとって最も楽しい――楽しかった――のは、広い私有の狩場に乞食や人買から買った子供を放し、文字通り「狩猟」する事だった。始めは、何があったか等とっくに忘れてしまったが、許しを乞う相手に「自分の銃から逃げ切ったら赦してやる」と持ちかけたのだが、それが心底愉快だったのだ。下等民が恐怖に顔を引き攣らせ、逃げ惑い、馬上の男に泣いて縋ろうとする。極上の愉悦に浸りつつも、止まっている獲物を撃ってもつまらない。そういう時には、わざと狙いを外すのだ。至近距離で弾ける土草を目にした獲物は、恐慌状態で再び逃げ出す。気の済むまで追い回したら、あとは適当に獲物のどこかに弾を当てて終わりだ。当然、獲物の確保や運搬は自分ではなく、取り巻きに行わせる。腕やら足やらが吹き飛んだり、腹から血を流しのたうち回る下民共がその後どうなろうと、男の知った所ではない。

 そうした趣味で狙撃の腕を上げた事で、実力主義の軍でも一目置かれていた。無能な癖に偉そうな上官達は、軽く擦り寄ればすぐに懐柔出来るのだから楽なものだ。狙撃兵の運用法を研究する為に新設された試験部隊に転属が決まった時も、これで更に銃が撃てると悦びさえ感じていたのだが。あの時に全てが変わってしまった。下民の癖に正確無比な狙撃で抜きん出た結果を出す稚児ちご野郎、そして何故か奴を庇った白衣の一匹狼。内心、こんな女男に何が出来ると高を括るっていた事は否めない。しかし、次の瞬間に男を襲ったのは激痛だった。肩が爆発でもしたのではないかという程の痛みに悶える男に、奴は言った。「暫く安静にして動くなよ。……俺の言う事をちゃんと聞く耳がまだあれば、手前の肩は治る。けど、安静に出来なきゃ悪化する。肩と一緒に性根も治すかどうか、手前で選ぶんだな」と。何故だ。どうして自分は「見下されている」。お前などにそんな権利があるか。嫡子ですら無いのに家督を掠め取った郭公かっこうの癖に。煩い、触るな、あんなカマ野郎の言う通りになってたまるか。肩の痛みは強くなる一方で、仕方なく侍医に診せれば「何故すぐに言わなかったのですか」などと糞のような言葉。殴り倒してやったが、肩から厭な音がして男も倒れた。名前にしか利用価値の無い馬鹿な異人は、何か心配しているとでも言うような事を文に書き付けて来たが、心配などと言う言葉が見えた瞬間に破り捨てた。何故お前らは皆上から目線なんだ。馬鹿の癖に、愚かな癖に、下等民の癖に!

 そんな時に男は出会った。その「青年」と。



 秋も深まり、冷えた風が頬を撫でる。栗や茸が美味い季節だ。乾燥させた銀杏の殻を指先でぱちりぱちりと割りながら、麟太郎は考える。

(……今夜だ。)

 今日は通常休、呼出も無かった為、予定通り計画は実行されるだろう。後ろめたさが無いとは言えない。しかし、これは自分の為だけに行う訳では無いのだ。

『おかしいと思わなければだめです、隊長。いくら恩人に言われようと、命じられようと。貴方が孝晴さんについて話す時、声が優しくなるのを俺は知ってます。』

『孝晴様が、麟太郎様の仰る処の忠義を受け容れておられるならば、孝晴様も麟太郎様を心から必要としているのでしょう。』

 石動の言葉と、留子の手紙。どちらが欠けても気付かなかった。自分にとっては絶対の存在である孝晴が、――逆に自分を求めているかも知れないという可能性に。ぱちり、ぱちり。銀杏の硬い殻を指先で割るのは、初めは修練の一環だった。礫や手裏剣を、指先だけで飛ばせる力を得る為だ。師である義父ちちは、後ろの板の間で静かに座っている。好々爺にしか見えないこの老人が元庭番だなど、孝晴以外には突き止められなかったのではないかと、麟太郎は思う。



――「『リン』。お前は、『麒麟児』という言葉を知っているか。」

 そう言われ、黙って頷くリンを見て、床に紙と硯箱を置きながら、彼は言った。

「『麒麟』とは、平らかな世に現れるとされる瑞獣だ。故に、そのような世をもたらすであろう、優れた能力を持つ者の事をそう呼ぶ。又、一説にこの麒麟、雄雌を合わせた物だとも言う。雄が麒、雌が麟だ。」

 老爺ろうやはリンの目をじっと見据える。老人らしく皮膚の垂れた瞼の隙間から覗く光は、真っ直ぐで、強い。

「孝晴様が優れた力をお持ちである事は疑いない。儂の過去をお一人で暴いて見せたのだからな。しかし、優れた者も、支えが無ければ立てなくなる時が来る。お前があの方の為と世の泰平を目指すならば、お前はあの方を支える『麟』となれ。」

 老人は筆を取る。白地に浮かび上がる三文字を、リンは瞬きすらせずに見詰めていた。

「……儂はこの名でお前を籍に入れて来た。お前は今日から、『麟太郎』を名乗る。儂の息子としてな。」

「謹んで、御名前、頂戴致します。……親父殿。」



 "ちび"の「リン」は、そうして、神獣の片割れの名を戴く者となった。麟太郎は、あの時義父に言われた通り、孝晴を支えてきたつもりでいた。しかし、雄と雌であると言っても、麒と麟は「夫婦めおと」ではない。麒麟という一つの存在を成すものだ。ならば、ただ「仕える」だけでは不完全であるし、一方的に切り離されて、黙って従う訳にはいかない。例えそれが、此方が勝手に決めた事であっても。

(それに気付けたのは、衣笠先生や、石動や、留子お嬢様が居たから、か。)

 ぱちん。最後の殻が指先で弾ける。孝晴しか存在しなかった筈の麟太郎の世界に、いつの間にか色々な物が増えていた。義父。理一。石動。隊の仲間。上官。饅頭屋の女将も、随分良くしてくれていた。そして、出逢ったばかりの留子までも、皆、麟太郎の為にと。今思えば、――自分で選んだ首輪以外に――麟太郎に繋がる別の絲に気付いてしまったら、独りぼっちの孝晴の世界が遠くなる気がして、見ない振りをしていたのかも知れない。「孝晴と対等で居たい」と言った理一の気持ちが、漸く理解出来たような気がした。

 考えているうちに釜の蓋から泡が噴く音が聞こえ、麟太郎は顔を上げた。足元の七輪では、秋刀魚が二匹並んで腹から脂を滲ませている。麟太郎は割った銀杏の中身を細く削った竹串に刺し、ひっくり返した秋刀魚の隣に並べると、飯の様子を見る為、竈の方へ向かった。


 煌びやかな装飾に、蝋燭の立てられた硝子の吊飾燈シャンデリア。床には毛足の短い絨毯が敷かれ、複雑に編まれたその模様の上を革靴が歩き回っている。大広間の奥にはガラスの嵌め込まれた窓が並び、紅く色づき始めた木々と石が配された広い芝生の庭が、窓から漏れる明かりに浮かび上がっていた。

(眠ぃ。)

 有坂孝晴は、くぁ、と軽く欠伸をしかけるが、なんとかそれを噛み殺す。貴族は定期的に親睦会を開いているのだが、最有力貴族の一つである有坂家の現当主・父督孝よしたかは実質隠居の身、母十技子とぎこもあれで人前には滅多に出ない。次期当主と決まっている長兄・孝雅たかまさを出席させ、貴族達に印象付けておくのも母の目的の一つなのだろうが、生憎今回は次の議会準備の為出席不可だそうで、孝成は当然軍務で不可。という訳で、仕方なく孝晴が出席する事となった。とは言え、旭暉人の中では長身の孝晴である。身の丈に合わせて仕立てた三ツ揃いの背広を卒なく着こなし、髪も洋装に合わせて普段よりも下の位置で結っている。このような時にも「使える」からこそ、まだ自分は母に目溢しされているのだろうと、形式的な挨拶を只管こなしながら孝晴は思った。

 この國の貴族には、元公家・元武家の双方含まれているが、実際に貴族として扱われるのは爵位を持つ家のみ。政界で出世する事によっても爵位は得られる為、そうした者は「有坂家への手蔓」を求めて挨拶に来る事引っ切りなしだ。孝晴自身は一度自己紹介されれば全て覚えてしまうのだが、「有坂家の人間に覚えられた」と勝手に名前を使われては面倒なため、「私は物覚えが兄ほど良くありませんので、名刺を頂けますか。ご挨拶頂いた事、兄に伝えておきます」と答え続けていた。既に片手で持ち切れなくなりそうな紙束をどうしたらよいものか。これだから、懐もない窮屈な洋装は好きでは無いのだ。苦笑しつつ孝晴は周囲を見遣る。目線の先、理一は反対の壁際で、二回りも年長であろう男と談笑していた。衣笠家当主である彼が此処に居ない筈が無い。今回は運が悪いと思いつつ、常に彼の視界に入らないよう、理一の視野角を計算しながら孝晴は動いていた。彼の視線を避けるように大広間の隅にゆっくりと歩いて行くと、よく通る声が聞こえ、思わず孝晴は其方に目線を向ける。果たして、其処には彼女が居た。確か歳は十五。彼女の周囲にも人が途切れる事はなく、笑顔で対応しているようだ。大方、誰に求婚したのだと訊ねられているのだろう。勘解由小路家の末娘に、突如として湧いた大きな噂だ。相手が誰であるか漏れていないというだけでも、良くやっている方だろう。孝晴が頭を押さえて小さく息を吐いた、丁度その時。

「失礼、お疲れでしたか。」

 横から声を掛けられ、孝晴は「いえ……」と首を振り掛けたが、相手を見て言葉を変えた。

「確かに少々、気疲れしたかも知れません。私は君と違って政治には明るく無いので。」

「それでも、貴方は御立派ですよ。僕は今回、妹のお守りに来たようなもので気楽ですが、貴方は確り務めを果たしておられるじゃありませんか。」

 声を掛けて来たのは、勘解由小路家の三男で、四番目の子である勘解由小路鐵心てっしんだった。まだ二十歳を過ぎておらず、議員の元で書生をしている青年だが、頑健そうな体躯は父である大臣によく似ている。あまり集まりに出ない事にしている孝晴ではあるが、それでも勘解由小路家の人間とはある程度面識がある為、多少は憚り無く応対しても問題無いだろうと孝晴は笑って見せた。

「気楽だなど、御冗談を。妹御の周りは人集りが出来ていますよ。捌くには骨が折れそうですが。」

「あれで留子は人をあしらうのが上手いので、僕は心配していません。くだんの相手も、僕らにすら名前を教えてくれませんし、不要な騒ぎは起こさないでしょう。」

「はは、そうですか。」

 少し前は、大人達の間を走り回っている天真爛漫で騒がしい娘だという印象だったが、なかなかどうして、大人の女らしくなっているようだ。最近訪ねていない長兄の娘も、大きくなっているだろう。隣の鐵心を見れば、留子を見るその目は穏やかで優しい。本来はこうあるものなのだろうか、兄弟というものは。孝晴は、有坂家にあって「真っ当な」人間は、長兄の孝雅だけだと思っている。しかしその長兄は早くに軍に行き、妻を娶り、当主を継ぐまではと家を出て所帯を持ちながら、今は議員の激務に身を置いている。他人に合わせられるようになるまで時間を要した末弟の孝晴は、長兄とまともに接したのは、孝雅が既に大人になってからだ。子供同士で共に育つ兄弟関係とは、一体どのようなものなのだろう。

 ぼんやりと孝晴が考えていると、鐵心と留子の目が合った。留子は周りに断りを入れるような素振りを見せてから、ぱたぱたと此方に走って来ると、開口一番言った。

「酷いじゃないですか、お兄さま! 一緒に居て下さると約束しましたのに、わたし一人にして。もう、わたし疲れてしまいました。」

「存外何とかなっていたじゃないか。ほら、以前お会いしただろう。有坂家の孝晴様だよ。」

 鐵心は眉を寄せる留子の頭を軽く撫でると、隣の孝晴を紹介する。ごく当たり前の流れであるが、挨拶する前に留子の表情が僅かに強張ったのを、孝晴は見逃さなかった。自分が麟太郎にとってどのような存在か知っているのであれば、当然の反応。つまりこの娘は、そこまで聞いているのだ。しかし、そこで留子は意外な提案を口にした。

「ねえ、お兄さま。わたし、疲れてしまいましたから、上のバルコニーに行ってもよろしいですか? 風に当たりたいんです。……孝晴さまも、お疲れに見えますが、一緒に如何ですか?」

「!」

 一瞬驚いたが、留子の目は孝晴の手にある山のような名刺に向いていた。成程。鐵心も「確かに」といった表情で頷く。

「本日は上を使っていないので、人を避けて休むには良いのではありませんか、孝晴様。ただ、うちのは喋らせておけば延々喋るので、煩いかもしれませんが。」

「お兄さまー? わたしだってそれくらいの分別はあります!」

 むうと頬を膨らませる留子に、鐵心は笑いながら「それは悪かったな」と言いつつ、外に出るなら上衣を忘れないように、灯りがないだろうから足元には気を付けるように、などと諭している。孝晴はその間に、上着の腰のポケットやら内ポケットやらに名刺を詰め込む。分けて納めれば、外から見て分からない程度にはなるものだ。物を詰めてポケットを膨らませるのが不恰好であるなら、何故こんな物が付いているのかと不思議に思うが、洋装はそうなっているのだから仕方ない。孝晴は二人を振り返ると、「では、先に参ります」と告げ、隙を見てそっと大広間から抜け出した。留子は暫く後に来るだろう。幾ら関わりのある家の者同士とは言え、一緒に出て行けば要らぬ誤解を招く。孝晴は明るい一階から、折れ曲がった大階段を昇って二階へ上がる。以前は外交の為に使われていたこの館。一階だけで充分な広さがある為、今夜は二階を使用しておらず、階段の先は、暗く静かな廊下に窓からの薄灯が差し込んでいる。階下の騒めきは背中に、歩む先には足音一つしない。どうやら同じように会場を出た者は居ないようだ。

 孝晴は廊下の窓の反対側にある扉を開ける。其処も広間になっており、此方は窓の先に広いバルコニーがあるのだ。薄暗い広間を抜け、ガラス扉を引き、夜風を身に受けながら孝晴は石造りの手摺に身を凭れさせた。長い髪が風に遊び、手に冷たい石の温度が伝わる。理一ならばこのような場所で煙草を吸っていそうだ、と思い、孝晴は組んだ腕の上に頭を載せた。

(絶対ぇ、怒ってンだろうなぁ、リイチの野郎)

 会場では孝晴が意図的に彼を避けていたものの、理一もどこか孝晴を視界に入れないように動いている節があった。孝晴は溜息を吐く。それを選んだのは自分なのだから、悔いる事など無い。だのに、どうして。

(辛い、なんて。俺は人間ひとに執着すべきじゃねェってのに。)

 後ろで扉が開く音がした。男にしては軽い足音だ。留子だろう。顔だけで振り返ると、毛皮のケープを羽織った留子が部屋に入る所だった。彼女は部屋の中程まで来ると、歩みを止める。

「孝晴さま。あなたとは、確りとお話しなければならないと思っていました。」

 静かな部屋に、良く通る声が響く。孝晴は苦笑した。

「さて……私は何を貴女にお話すればよろしいのでしょう。留子様?」

 留子は眉をきゅっと下げた。不思議な反応だ。はぐらかされたと憤るでもなく、言葉を重ねるでもない。表情としては、悲しそう、と喩えるべきなのだろうが、彼女が今の言葉でそんな顔をする理由は何だ。仕方なく孝晴は手摺から身を離し、彼女の元へ向かう。


 空から、布の翻る音がした。


 弾かれたように背後を振り返れば、其処には、余りにも見慣れた烏羽の影。同時に、かちゃん。錠が落ちる金属音。か弱い月光を背にして立ち上がる麟太郎の気配を感じながら、広間の入口に目を向ければ、案の定、理一が立っていた。その手は今まさに、扉の鍵を閉めた形をしている。

「お前ぇら……!」

 謀られた、と、瞬間的に理解する。この場には留子がいる。彼女の前で消え去る事は出来ない。そして、バルコニーから飛び降りる選択肢も無い。何故なら、この真下は会場の大広間であり、窓が面している為、中に居る多数の貴族の目に触れかねない。孝晴は絞り出すように言った。

「……大臣閣下のお嬢様を囮に使うたァ、随分と太ぇ事しやがんじゃねぇかぃ。」

「こうでもしなけりゃ、お前は捕まらねぇだろ、有坂の。」

 理一の口調は淡々としているが、強く眉を寄せたその表情から普段の余裕は感じられない。対照的に、後ろの声は、全く抑揚が無い。変わらない声。意識して存在を考えないようにしていた、その声。

「私や衣笠先生が直接お声を掛けても、会って頂けないと判断しました。……だから、留子様に、御協力をお願いしたのです。」

「何処まで話した。」

「何も。しかし、彼女は信頼出来ます。」

 ぶちん、と。

 何かが切れる音を聞いたのは、孝晴だけだったろう。

「ハル様!」

「!」

 顔を覆った指の間から、生温い液体が、ぼたぼた、と床に垂れた。麟太郎と理一が同時に反応したが、床に膝をつく孝晴に、いち早く駆け寄ったのは麟太郎だった。

「孝晴さま!? どうなされたのですか……!?」

「気にする程ではありません、発作ですよ。……てめ、何してやがる!」

「……。」

 留子の悲鳴のような声と、素早く答えてから走って来る理一。孝晴は無言で自身の手を見た。視界の半分が黒い。左目から血が溢れていた。理由は単純、麟太郎の発した「彼女」という言葉に、何故か瞬間的に苛立った。そして、勝手に動きそうになった体を抑えつけた。それだけだ。理一の厳しさと心配の混じった声が降って来る。

「下で何も食ってねぇのか、手前?」

「あんな目立つとこじゃ、食わねぇよ……。」

 自分が感情を制御出来なければ、人が死ぬ。だからこそ、心を波立たせないように過ごして来たというのに、たった一言でこの様とは。ふと気付くと、麟太郎が何かを差し出している。孝晴に何かあった時の為にと、麟太郎が常に角砂糖を入れるようになっていた小袋。払い除けようとしたが、出来なかった。代わりに孝晴は声を出す。

「何してやがんだ。」

「何、とは。」

 麟太郎は首を傾げる。孝晴は歯噛みした。

「俺に構うなって意味が分からなかったか、え? そんな阿呆に育てちゃいねぇんだよ。分かったらさっさと嫁と一緒に失せろってんだ、お前なんてもう必要ねぇンだからよ、」

「嘘です。」


 孝晴が言い終わるとほぼ同時に声を発したのは、――留子だった。驚いた孝晴は左目を手で覆ったまま彼女を見遣る。彼女は眉を下げ、丸い目を大きく見開き、そしてその目から、涙を溢れさせていた。再び彼女の唇が動く。

「わたし、孝晴さまと余りお話した事はありませんけれど……今のお言葉は、嘘です。どうして、孝晴さま、何が、あなたをそんなに、苦しめているんですか……?」

 途切れ途切れにそう言うと、留子は手で涙を拭い始めるが、後から後から溢れるそれは、手では払い切れない。流石に言葉を失う孝晴をちらと見てから、理一が胸ポケットから手巾ハンケチを取り出し、留子に差し出す。

「どうも、留子お嬢様は他人の気持に敏感らしくてな。お前を連れ出す為の入れ知恵はさせて貰ったが、彼女が居ればお前の真意も分かるんじゃないか、ってのが、連れて来た本当の理由だ。だろ? リン公。」

「はい。」

 短く頷いた麟太郎は、手を差し出したままだ。

「私は、ハル様に要らないと言われて、今まで――ハル様と出逢ってから、初めての感覚を味わいました。それが『辛い』というものなのだと私に教え、そして、……私自身が、ハル様を一人にしないと誓った事、それを思い出させてくれたのは、仲間と、友人、そして留子お嬢様でした。ハル様。これは私の我儘です。しかし私の本心です。私はハル様に、お一人になって欲しくありません。ハル様が本当に私を疎むならば、私は即刻、消え失せます。けれど、ハル様が――嘘をつかれているならば、私は、此処を動きません。私は、私に立てた誓いを守ります。」

 感情を感じさせない、しかし強さを感じさせる目で、麟太郎は真っ直ぐに孝晴を見ている。孝晴は目を逸らした。

「リイチよぉ。」

「何だ。」

「俺ぁ言ったよな、これは『有坂家』の問題だってよ。それを勘解由小路のお嬢様の前で話せってか?」

 理一は少し俯き、屈んだ孝晴を見ている。そして一つ、大きく息を吐いた。

「それがどうした。俺だって、くるわ生まれだ。母は遊女。親父と血は繋がってやがるが、立場は養子だ。だから、未だに家族とも上手くいってない。表面上は取り繕ってるがな。」

「!? お前、」

「お前は俺の出自なんて、とっくに気付いてただろ。俺は親父を憎んでるし、姉さん達と話す時も、俺が存在してる事さえ嫌になる時がある。俺にはあの男の血が流れてる、ってな。手前の事、家の事で悩んでるのが自分だけだとでも思ってたか?」

 美しい目を細め、一度言葉を切る理一。隣の留子は驚愕の表情を浮かべて彼を眺めている。理一は腕を組んで立っているが、自身の腕を掴む手に力が入っており、何かを抑え付けようとしているのは明白だった。

「……お前の抱えてるもんがでかいってのは、俺も分かってるつもりだ。けどな、誰だって何かしら苦しんで、捥がいて来てるんだよ。俺だって……まだ、断ち切れてない。それでも、お前らと出会って、お前らの為になら力になりたいって思えるようになれたんだ。それでもお前が、俺を、俺達を拒絶するなら、理由くらい吐いてけ、馬鹿野郎。」

 言って、理一は俯いた。手に力を込めたのは、……恐怖の為。

(くそったれ、)

 内心理一は呟いた。駄目だ、まだ、怖い。いっそ女として育てられた過去まで、口にする覚悟を決めた、そう、思っていたのに。

「リイチ、もういい。」

 静かな声に、顔を上げる。孝晴は顔から手を離し、膝をついたまま理一を見上げていた。半分が血で汚れたその頬に、最後の一雫が下瞼から溢れて流れ落ちる。孝晴は無表情だが、血の雫の所為か、泣いているように見えた。

「お前さん、俺が何も言わねぇのは、お前も隠してる事があるからだって思ってんだろ。」

「……お前が話したがらねぇ事吐かせるんなら、俺の方も言わないんじゃ気が済まなかっただけだ。」

「そうかぃ。」

 短く答えると、孝晴は力を抜いて、床にどかりと腰を下ろす。胡座をかき、大きく息を吐くと、ずっと差し出されたままだった麟太郎の手から袋を取り上げ、中身を口に放り込んだ。数度噛んでそれを飲み込むと、孝晴は留子に目を向ける。

「見苦しい処をお見せしました、お嬢様。いや……まだお見せする事になりますので、どうかご容赦下さい。」

「……。」

 着物で寛ぐような姿勢で座り込んだ孝晴であったが、その目の奥にある何かがとても恐ろしく、けれど、同時に強い悲しみも感じさせる。留子は立ち竦んだまま、何も言えなかった。そして孝晴は、何故かある種の安心感を覚えていた。諦めと言った方が正しいかも知れない。ただ、留子の口が堅い事はよく分かったし、それを承知で二人は彼女を連れて来ている。大人しく話すしか無いだろう。

(聞かずに離れてくれりゃ、まだ良かっただろうが……此処までされたら、仕方ねぇやな。)

 ふう、と一つ息を吐く孝晴。三人は、黙ったまま動かない。開いたままの窓から、冷たい風が流れ込んでいる。

「俺の兄貴の話だ。」

 唐突に、孝晴は言った。

「二番目の、孝成兄さんが九つの時。河川敷で悪餓鬼共が、片端の犬に石を投げて遊んでた。兄さんは割って入って、大喧嘩して、その犬を抱えて帰って来た。今は負け無しの兄さんも、その時は多勢に無勢で相当やられてな。俺は心配して兄さんにくっついてたし、流石に母上も庭に出て来た。うちを取り仕切ってんのは母上だからな。それで兄さんは、血塗れで息も絶え絶えの犬を抱えて、今の話を母上にした。母上も、それを見て大層哀れに思ったみたいでな。こう言ったよ。『可哀相にのう、その有様では、まともに生きてはゆけぬ。早う首を刎ねてやるがよい』。」

 留子が息を飲む。理一は眉を寄せた。麟太郎の表情は、変わらない。孝晴は自嘲するように、喉の奥で笑った。

「あン時の兄さんの顔、俺ぁ忘れられねぇ。あの兄さんが、固まっちまってな。母上は不思議そうだったよ。『手を出したら、【最期】まで責任を取れと、教えたであろう?』ってな。兄さんはそのまま、裏庭に行った。で、今うちの裏庭の奥には、『犬塚』がある。此処まで言えば、分かるか?『リン』。」

 理一は、何と言ったら良いか分からないという表情で、麟太郎を見た。留子は、手巾を口許に当てて握り締めている。そして孝晴は、漸く麟太郎の顔を見て、言った。

「俺ぁ、お前を助ける為に拾ったんじゃねぇ。殺す為に連れ帰ったんだ。」


 ああ、だから。

 だから、あの時の孝晴は。

 冷たく、諦めを孕んだ表情をしていたのか。


 麟太郎は理解した。そして、今。孝晴の目に宿るのは、同じ諦めと、更に深い絶望。

 一度目を閉じると、麟太郎は口を開いた。



 月の光は弱い代わりに、星の美しい晩秋の夜。今宵は会館で親睦会が開かれている為、太田家の屋敷では、会場に出掛けた太田公爵の帰宅に向けた準備が整えられている。まだ予定まで時間があるものの、他の仕事に不備が無いか館内を回っていた四辻鞠哉は、来客の報せに内心驚きつつ、玄関ホールへ向かった。予定は無かった筈、しかも、相手は……。

 鞠哉は素早く玄関を整え、他の使用人は不要と退がらせてから、扉を開けた。その先に立っていたのは、鳶色の軍服に、右腕を布で吊った男。男は、鞠哉以外に誰も居ないと見るや、開口一番に言った。

「折角御主人サマの友達が来てやったって言うのに、出迎えが遅くないか?」

「大変失礼致しました、武橋様。」

 頭を下げる鞠哉。此奴――武橋金次の相手は、下手に他の使用人に任せる訳にいかない。性根は腐っていても、頭は切れるのだ。何か一言でも隙を見せれば、そこから見えない細い針を突き刺して来るような男。鞠哉は姿勢を正す。

「突然の御訪問でございましたので、御迎えの準備も出来ず、申し訳ございません。御用件を御伺いしても宜しいでしょうか。」

「榮羽音、居るだろ。出せよ。」

 笑みと言うには、余りにも神経を逆撫でする表情。相手が榮羽音や太田公爵であれば、こんな顔はしない。鞠哉はもう一度礼をして、眉を下げる。

「榮羽音様に、どういった御用が……」

 パシ、と頬が鳴った。

「下男の分際で一々探り入れるのは無礼だぜ。俺はお前と話しに来たんじゃねぇんだよ、鞠哉ちゃん。友達がちょっと顔見せに来た、それだけなんだけどなぁ?」

「申し訳ございませんでした。客間でお待ち下さい。」

「『此処でいい』。時間が無いからな。ほら、さっさと行ってこいよ。」

「承知致しました。」

 鞠哉は静かな表情を崩さずに踵を返す。距離が離れてしまえば騒がないのも、頬を叩く時に音が周りに響かず、跡も残らない程度に留めているのも、武橋金次は全て計算ずくだ。当然、鞠哉がそれを主人に伝えない事も分かっている。榮羽音は「『あいつら』が来るなら行きたくない」と言い張った為、今夜の会には出席していない。武橋金次の訪問を伝えれば、目を丸くして玄関へ走るその様子は、余りにも純粋で、無防備だ。

 後について行けば、榮羽音は金次の姿に驚いているようだった。久し振りと笑顔で言う金次に、少し戸惑ってもいる。当然だろう、奴は金や名前が必要な時以外、榮羽音の元には来ないのだから。

「金次、え、何で急に……そうだ、腕! 大丈夫なのか?」

「まぁな、腕こんなにされちまったからよぉ、返事出来なかったんだよ。手紙、くれただろ? だから礼を言おうと思って寄っただけだ、すぐ帰る。」

「そっか……何かあったら言えよ、ボク、金次みたいに強く無いけど、味方だから。」

「それでこそ公爵の息子だぜ、榮羽音! 俺も、こんな有様でも軍には居られる事になったし、お前も御父上みたいにもっと立派になれよ。閣下、また新しい事業の援助してるんだっけ?」

 その言葉に一瞬、榮羽音がびくりと反応したが、彼は笑顔を作って見せる。

「うん、パ……父上は外ツ国の技術や化学の研究に援助金を出す事にしたみたい。それが旭暉の為になるんだって、」

「榮羽音様。」

 少し後ろに控えていた鞠哉の静かな声に、榮羽音がはっとして口を閉じる。

「そうだ、うちの仕事とかお金の事、あんまり喋っちゃダメなんだった。ごめんな金次……。」

「気にするなって、お前はよくやってると思うぜ。まだ十六なんだから。」

 一見すれば人好きのする笑みを浮かべる金次だが、鞠哉には分かっている。金次は敢えて太田公爵と榮羽音を比較する言葉を選んで榮羽音の劣等感を刺激し、言う必要のない内情を語らせるように仕向け、それを止められた榮羽音に罪悪感を覚えさせ、その感情を利用して彼を肯定する言葉をかけた。榮羽音の中には劣等感と「褒められた」という事実だけが残り、それ故にまた金次を慕うようになる。榮羽音が純粋である事を利用した姑息なやり方だ。しかし、ちらと鞠哉を見た金次は充分だと感じたのか、身を翻す。それを確認した鞠哉は、榮羽音の隣に歩み寄った。

「榮羽音様、御部屋にお戻り下さい。」

「鞠哉は?」

「御見送りを致します。」

「分かった。金次、早く怪我、良くなるといいな!」

 武橋金次は背中を向けながら左手をひらひらと振ったが、彼がその見えない貌にどんな表情を浮かべているか容易に想像出来、鞠哉は内心溜息を吐いた。

 玄関を出て、扉を閉めてすぐ。鞠哉が振り向いたのと、その頭に金次の手が伸びたのは同時だった。

「!」

 髪を掴まれ、顔を近付けさせられる。髪が抜ける音がしたが、鞠哉は表情を崩さない。金次は舌打ちをして鞠哉の青い目を睨み付ける。

「ったく、邪魔しやがって。つくづく目障りだなお前よぉ。」

「……。」

 手を離された鞠哉は姿勢を正しつつ、内心驚いていた。おかしい。今までも侮蔑の目を向けられたり、嫌味を言われたり、他人に分からないように小突かれる事はあったが、此処まであからさまな言葉を吐いたり、手を出して来るのは初めてだ。それに、今一瞬見えた奴の襟元、首筋に何か――あんなものは今まであっただろうか――少し眉を寄せる鞠哉に、金次は心底愉し気な笑みを浮かべて言った。

「いずれ、お前の毛皮引っぺがして、襟巻きにでもしてやるから、精々待ってろ、化狐。」

 金次が軽く手を叩き合わせると、抜かれた銀色の髪が風に散って行く。やはり右腕も動かせない訳では無かったのだと思いつつ、黙って頭を下げると、鞠哉は思考する。

(あれは……何だ? 入墨? 赤い点、いや、もう少し大きかった。円か? 一部では分からないが……。)

 頭を上げた時には、金次は既に門を出ていた。奴が急に態度を変えたのは何故だ。何か新しい後ろ盾でも得たのか。首筋に刻まれていた印は、それに関係しているのだろうか。鞠哉は一度髪を解き、乱れを直して結い直す。冷え切った空気の中、言い知れぬ違和感を覚えながら、忠実な狐は主の帰りを待っていた。


「帝國の書庫番」

十四幕「玄冬の先触」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ