帝國の書庫番 十二幕
二人にとっての「あの日」。そして、その先へ。
花壇に咲き誇る花々に当たる日の色が彩度を落とし始める、晩夏の午後。美しい鐘の音色が告げるのは、少女達が解き放たれる時間だ。まだ新しい校舎は花吹雪のように少女達を吐き出し、乾いた風に吹かれるように、彼女達は思い思いの方角に散ってゆく。その中に、伸ばした髪を腰まで下ろし、耳の上に縮緬細工の刺し飾りを着けた少女の姿があった。彼女は夢見るような表情で校門へ向かう。あの一日を思い出すと、何もかもが霞の彼方へ消えて行ってしまう。
少女の言葉に俯いた、烏羽色の軍服を纏った少年――いや、彼の年齢すら、まだ少女は知らないのだ。落ち着き方からして、見た目よりも年長なのだろう、と彼女は思っていた。その彼は、微動だにしないまま、考え込んでいるようだった。無理も無い、彼女の言葉は、貴族の女が吐くには余りにも非常識であると、彼女自身が一番理解している。貴族の娘は、親か相手が決めた先に嫁入りし、夫の陰となって尽くす。それが当然なのだ。勿論、彼女とて伯爵令嬢である。嫁入りに必要な技術は一通り身に付けているし、学校でも成績は良い方だ。けれど、そうして言われる侭にしているよりも行動する方が性に合うのは、長い歴史を生き抜いた先祖の血故なのだろうか。少女が考えながら待つ間黙していた麟太郎が、漸く顔を上げる。
「大変、失礼致しました。」
「大丈夫です、いつまでも待つと言ったばかりですし。」
その言葉に麟太郎は瞼を細めたが、今度は俯かなかった。
「初めに言った通り、私は貴女の申し出を断りに参りました。けれど、貴女にその気が無いのなら……貴女に、誤った選択をさせてしまうなら。私は全て話します。」
少女は僅かに表情を曇らせる。が、すぐに彼女は「全て聞きます」と応え、微笑んだ。感情の機微に疎い麟太郎には、何故彼女の表情が曇ったかなど理解できる筈もない。麟太郎は話した。自分には生まれの記憶がなく、飢えている所を有坂孝晴に拾われた事。有坂公爵家で育てられたとは言え、有坂家に迎え入れられた訳ではなく、平民の身分である事。自分が警兵になったのは、東都の治安を守る事で、救ってくれた有坂孝晴に恩を返す為だと言う事。秘するべき部分は省略しているものの、麟太郎が言葉を重ねる度に、少女はまるで、それが自分事であるかのように表情を変えた。時には苦しそうに、時には心から安堵したように。それが麟太郎には不思議でならなかった。
(私には、自分事さえ分からないというのに、何故彼女は、他人の話に自分事のような反応を見せるのだろう。)
「……分かって頂けましたか。私は、何処の馬の骨とも知れない人間です。そして、今の生を与えて下さった有坂様に生涯尽くすつもりで生きています。自分が妻を娶るなど、考えた事も無い男です。貴女が単に衝動的なだけでは無いと分かりましたが、であれば余計に、私は貴女に選ばれるべきではありません。」
淡々と、最後まで語調を変える事なく、麟太郎が話し終える頃には、少女の表情は落ち着いていた。少女は言った。
「それが、あなた自身の、あなたへの評価なのですね。」
「はい。」
「……じいやは、どう思いました? 今のお話を聞いて。」
唐突に振り向いた少女につられて控えていた老人を見ると、……老人はなんとも複雑な顔をしていた。強いて言えば、何かに耐えているような、そんな顔だ。
「お嬢様……私めも、父祖の代からお仕えしている身でございますが、この方の忠義と、生涯を賭して恩に報いる覚悟には、感服せざるを得ませんでした……。」
「ご老人は何故涙を?」
本当に理解できないのだろう、首を傾げる麟太郎。少女は優しく微笑みかけた。
「じいやも、あなたがとても素敵な方なのだと、分かったんですよ、麟太郎さま。」
「分かりません、何も特別な事はお話していませんが。私が言ったのは事実だけです。」
それに、と麟太郎は続ける。
「仮に私が人として認めて頂ける何かを備えているとしても、貴女が今まで送ってきたような生活を私は出来ませんし、貴女を満足させられるとは到底思えません。」
「麟太郎さまは、わたしだけでなく、女というものをご存知ないのですね。」
初めて少女は、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。理由の分からない麟太郎は、当然素直に頷く。
「女の子は、好きな人の為なら、なんでも出来るんですよ。わたしは麟太郎さまのお邪魔をするつもりはありませんし、お支えしてゆきたいと思っています。それが、わたしの『満足』なんですよ。」
「……成程。」
麟太郎の脳裏に、理一の言葉が過ぎる。
――女ってのは、繊細かと思えば、意外に大胆で思い切りのいい所もある。秋の空なんて言われる事もあれば、一途に死ぬまで想い続ける事もある――
その「一途」な方の女というのが、少女の言う所の「女の子」なのだろう。麟太郎は一つ、息を吐いた。
「分かりました。私は、貴女を傷付ける覚悟を決めて参りました。しかし、私が頑なに貴女を拒み続ける方が、きっと貴女は苦しみます。それは本意ではありません。貴女の心が動かないのなら、私が覚悟を曲げます。結婚、は、今は考えられません。しかし必ず、貴女を知った上で、お返事すると誓います。」
それまでに彼女の心が離れるかも知れない、という言葉は言わなかったが、麟太郎は上衣の内側から小さな箱を取り出し、机の上に置く。
「……私が誓いを果たすまで、持っていて下さい。」
少女は箱を手に取り、開けた。そこには紅と桃色の組紐が可愛らしい、縮緬細工の飾り簪が一本入っている。少女は目をまん丸にして麟太郎を見る。麟太郎は抑揚なく言った。
「本来は、申し出を断るお詫びのつもりで買いました。そのような時に何を差し上げるべきか、分からなかったので。女性の身に着けるものであれば良いだろうと。」
「……ふふっ、本当に女心の分からないお方ですね。」
そう言いつつも、彼女は大事そうにそれを箱から取り出すと、耳の上辺りに差す。頬が紅い為だろうか。似合うな、と麟太郎は思った。
「麟太郎さま、今日はもう遅くなります。だから、わたしが一番知って欲しい事を知ってからお帰り頂きたいのですが……お聞き頂けますか?」
「はい。誓ったばかりですから。」
少女はそれを聞くと、にっこりと微笑んで、言った。
「『留』です、わたしの名前。勘解由小路留子。『とめちゃん』と呼んで頂けたら嬉しいです……!」
あの時貰った簪は、それから毎日身に付けている。父親に、手紙の遣り取りも許して貰った。終業直前に夕立ちを降らせていた雲も、今はすっかり姿を消して、空は留子の心のように晴れやかだ。今日は手紙に何を書こう、と想像を膨らませていた時。
『危ない、足元に気を付けて!』
「えっ!? ……あっ!」
留子は、足元よりも声の方に気を取られた。何故なら、その声は旭暉語ではなく――学校で習っている為、理解はできるが――瑛國語だったからだ。声の先に、白いふんわりとしたドレスと、リボンのついた帽子、傘を差した少女の姿を認めた瞬間、留子は泥濘に足を突っ込んだ。ぐらりと傾ぐ体。倒れる。このままでは顔から倒れる。けれど。
(頂いた髪飾りに泥がつくのは、嫌です……!)
彼女は地面に手を付くのではくなく、簪を覆うように顔全体を腕で庇った。
ぼふ、
思っていた物と違う音と感触に、留子は混乱する。そのまま全身泥塗れになると思ったが、膝から下以外に濡れた感触もない。
『大丈夫ですか? 怪我をしてしまうところでしたよ。』
高く、優しい声。瑛國語。ゆっくりと留子が腕を解き目を開けると、目の前には、フリルのついた白い布。その裾は泥塗れだ。背後には放り出された傘が見える。彼女は倒れ込む留子の前に滑り込み、ドレスのたっぷりとした布で受け止めたのだ。留子は呆然としていたが、我に返って顔を上げる。
『す、すみません! 助けて下さって……、』
そこで彼女の言葉は途切れてしまう。ふわりと波打つ見事な金の髪、晴天を映したような空色の瞳。薔薇色の頬をしたその少女は、長い睫毛を瞬かせ、にこりと微笑んだ。
『このような時は、<すみません>ではなく、<ありがとう>と言うんですよ。』
異人の少女は、固まってしまった留子に向かい、優しく手を差し伸べるのだった。
東都中央兵団屯所付近にある食堂。飯時には屯所内宿舎を利用する将校達の姿が多く見られるのが常だった。外では緊張を漲らせている警兵達も、食事時は談笑するような素振りも見せる。しかしその一角に、壁に頭を預けるように座っているのは、あの「有坂の犬」だ。しかも、屯所の玄関である広間で起きた一件で、彼に貴族の少女が求婚した事も屯所内に知れ渡っている。周囲から様々な感情の籠った視線が彼に突き刺さっているのだが、当の麟太郎は完全な無表情で、周りを見てすらいない。そんな彼に向けられている視線の糸を引き千切るように、机の間を横切ってやって来たのは、石動だった。
「はい、隊長の分です!」
どん、と勢いよく置かれた盆には、飯と汁と炙った魚の干物が乗っている。向かいに座りながら、自分の盆から二人分の湯呑みを下ろす石動。
「有難うございます。」
「隊長が自分で取りに行ったら、また足引っ掛けられるでしょう。」
ふん、と息を吐き、右目で周囲を睨み付けると、石動は飯を掻き込み始める。麟太郎は壁から椅子の背凭れに体重を移しながら、焼けた魚の尾をじっと見詰めた。
「足を出されても、特に物を落としたりしませんでしたが。」
「いくら休憩中とは言え、『引っ掛けられた』時点でいつもの隊長じゃないですよ。その前に気付くのが隊長です。」
「そう、ですね。」
淡々と応えて箸を取る麟太郎だったが、石動はその語調の微妙な変化に気付いていた。
「隊長、ここ数日元気無いですよ。あの御令嬢の件が関係無いとは思いませんが、それだけじゃないでしょう。」
「何故分かるんですか。」
「貴方を良く見ていればちゃんと分かります。まあ俺は耳も良いので、それもあるでしょうけどね。」
石動の言葉に、麟太郎は目線を逸らす。自分でも分からない自身の内心を読み取ったのは、彼と――留子だけだ。石動はまだ、何年も付き合いがあるからだと理解できる。が、彼女は……。口に詰め込んだ飯を汁で流し込んだ石動は息を吐くと、右目を細めた。
「休暇後から、ですよね。何があったんですか。」
「話してもよいものでしょうか。」
「自分で解決できないなら、話すしかないですよ。俺は聞きます。取り敢えず、飯はさっさと食いましょう。午後の勤務もありますし。」
「そうですね。」
漸く魚を口に入れ、骨ごと噛み砕きながら麟太郎は考える。任務中に集中を切らしてはいない。が、それ以外の休憩時間や自由時間には、どうしてもあの日の事を考えてしまう。話せば何か変わるのだろうか。分からない。けれど、自分ではどうしようもない事も確かだった。ただ、話すとしたら夜だろう。こんな場所で話すべきでない事くらいは、麟太郎にも分かる。食事を早々に平らげた麟太郎が顔を上げると、石動は先程までとは違う、なんとも微妙な表情を浮かべていた。
「隊長……いつも思うんですが、骨、刺さらないんですか。」
「骨も砕き切ってしまえば食べられますよ。作法としてよろしく無いのは知っていますが、食べられる部分を残すのは嫌なので。」
(食べられる部分……。)
石動は自分の盆に目線を落とす。麟太郎の事は尊敬しているし、命を救われた恩もある。彼が悩んでいるのなら、力になりたいという気持ちは変わらない。しかし、魚が乗っていた痕跡すら残っていない麟太郎の皿と、頭と骨と尻尾が残された自分の皿を見比べ、こういう所は真似できない、と思う石動だった。
一日の勤務を終えれば、警兵達も宿舎へ戻って来る。緊急の招集がかかる事はあっても、夜間勤務は基本的に当番制で各隊に回って来る為、当番でない日の夜は自由時間だ。将校宿舎内の談話室には煙草の煙が充満し、その中で本を読んだり、碁や将棋を楽しんだり、酒保で購入した菓子を食べたり、何か議論をしている者達も居る。石動と麟太郎は、衝立の裏にある椅子に並んで座った。ここならば話し声が目立たないし、裏で誰かが聞き耳を立てていれば気配で分かる。
「隊長の好物って、魚だけなんですか?」
「魚が好きと言うより、肉が苦手なだけですね。そういう意味では近場に食事処があって助かりますよ。」
「軍の糧食、洋食ばかりですもんね……。」
「初めて牛肉を食べた時に嘔吐したんですよ、私。」
「えっ、毒喰らっても何とも無い隊長が。」
「あれは訓練の結果です。」
他愛もない会話。勿論、本題に入る前に周りの気を逸らす為だ。暫く会話を続け、此方を窺うような気配がないと確認出来ると、漸く石動が切り出す。
「……で、話せますか?」
「はい。」
短く頷いた麟太郎は、語り出した。
勘解由小路邸。留子を部屋に戻す間待っていて欲しいと応接間に残された麟太郎の元に、老人が戻って来る。当然麟太郎は暇乞いをして帰るつもりだった。しかし。
「貴方をこのままお帰しする事は、出来ないのでございますよ、刀祢中尉。」
「どういう事ですか。」
申し訳無さ気に眉を下げる老人。麟太郎は首を傾げる。老人は「もう少しお待ち頂かなければならないのです」とだけ言うと、扉を塞ぐように立つ。殺意や害意は感じない。不思議に思いながらも麟太郎は従った。座り心地の悪い椅子の上で姿勢を正したまま、微動だにしない麟太郎を見る老人の表情は、何か心苦しさを感じているようにも見える。窓の外は、もう日が落ちている。暫く無言で待っていると、やがて、戸を叩く音がした。老人が扉を開けた先に居た人物を目にした麟太郎は、一瞬、いや、もう少し長く硬直した。
「君が噂の『あの方』かね。うちのじゃじゃ馬が随分世話になったようだ。」
瞬間、さしもの麟太郎も、その時ばかりは跳ね上がるように立ち上がり、気をつけの姿勢を取った。そこに居たのは、留子の父にして、現國務大臣――勘解由小路伯爵であったからだ。老人が、留子から麟太郎が来ると聞いた時に連絡をしておいたのだと申し訳無さそうに言う言葉も、「君と留にその椅子は大きかったか」と呟く大臣の言葉も、余り耳に入っていなかった。恰幅は良いが肥えている訳ではない。顔付きは四角張って厳しいが、鋭さと威厳を兼ね備えている。これが、大臣。気圧されたのだと気付いたのは、大臣が「着いて来給え」と声を掛けて背を向けた時だった。勘解由小路は公家の家系だが、その血には幾度もの戦乱の時代を戦い切り抜けて来た記憶が刻まれている。存在が違う、と思いながら、老人と共に麟太郎は彼の後に無言で従った。
人払いされた書斎には、直立する麟太郎と、革張りの長椅子に座る勘解由小路大臣しか居ない。大臣は煙管に火を点けると、ゆったりと一服した。
「座らんのかね。」
「御命令であるなら、着席致します。」
麟太郎の返答に大臣は口角を上げると、ゆったりと脚を組む。
「成程。君は軍人だったな。まあ、座り給え。今の私は、大臣ではなく父親として、君と話しているんだ。」
「……承知致しました。」
大臣が煙管を持つ手で軽く示した椅子に、麟太郎も座る。大臣の正面だ。此方の長椅子は応接間のものよりも硬い。大臣は満足気に背を椅子に預けて言った。
「さて、どうだったかね。うちの娘は。」
「どう、と、申されましても。私は、お嬢様とまともに言葉を交わしたのも本日が初めてです。これから知ってゆくと誓いを立てたばかりですから、何とも申せません。」
「……これから知ってゆく、か。その間、娘を他の男と娶わせられない訳だが、君は娘を取り置きでもするつもりなのかね?」
大臣は目を細め、麟太郎をじっと見る。無表情を気にする素振りはない。麟太郎は首を振った。
「違います。私はこれまで、自分が妻を娶る等と考えた事はありませんでした。お嬢様にもそう話して、お話を一度お断りしました。ただ、お嬢様は、もっと互いを知ってから返事が欲しいと言われました。」
「それで、君はそれに乗ったと。」
「……私は、自分自身を知って貰う努力を怠ったが為に、部下を亡くしかけた事があります。人を知る事の重要性は、その時に理解したつもりです。だから、お嬢様の言にも理はあると……結果としてやはりお断りするとなっても、彼女の人となりを知る努力をした上であれば、より誠実であると判断しました。そもそも、私に決定権があるとも思っていませんが。」
そこまで言って、麟太郎は勘解由小路大臣の目を見据えた。
「閣下が一言仰れば、彼女も納得するのではありませんか。平民の私とお嬢様とでは、立場が違うのだと。」
大臣は煙管を吸いながら聞いていたが、大きく息を吐き煙管を口から離すと、喉で笑う。
「君はまだ、『娘を知る努力』が足りておらんようだな。あれは私の言う事など聞かんよ。刀祢麟太郎警兵中尉。」
「!」
素性を知っていたのか、と麟太郎は目を細めた。だが、考えてみればそもそも、留子が東都にある兵団のうち「中央兵団」への立入許可証を持っていた時点で、彼女が面会を目的とする相手、つまり麟太郎の所属については知られていたのだろう。彼女自身が一晩で許可を取るなど、出来る筈が無いのだから。
「留が『逢いたい』と駄々を捏ねるのでね。どんな男なのかと多少調べさせて貰った。君は命懸けで部下を救った事があるそうじゃないか。」
「!」
無言の麟太郎であったが、内心で呟く。一体何処からそんな話を。大臣は澄ました顔で煙管を咥えた。
「警兵の中でも、君の隊は結束が強いと知られてもいるらしいな。私は軍務大臣では無いので、軍の内情に疎いのは勘弁してくれ給え。」
「……。」
確かに、配属当初とは違い、隊員と軋轢は無く、皆指示通りに力を発揮してくれている。その中で、そこまで自分の事を善様に話す者がいるとしたら、真っ先に浮かぶのは石動だが、士族出の彼に勘解由小路家との繋がりはあっただろうか。煙が再び空気に舞い、大臣の視線と麟太郎の視線がかち合う。細められた大臣の目は何処か満足気だ。
「君は良い意味でも悪い意味でも目立つようだが、部下の為に命を張る、気骨のある男なのは確かだ。だろう?だからこそ部下に慕われている。娘が男に慕われる男を好いたならば『当たり』だと私は思うよ。」
「……私は、自分がそのような評価に値する人間だとは思っていません。」
その返答に、勘解由小路大臣は煙管の隙間から笑い声を上げる。そして息を吐くと、笑みを深めて言った。
「成程、君は私の娘を愚弄するのかね。」
「どういう意味でしょうか。」
「私の娘が選んだ男である君を、君は否定した。娘に見る目が無いと言っているようなものではないか。」
(これは、どうすべきだ? 何を言おうと、私が不利だ。そも大臣はどうしたいのか。まさか本気で私なぞに娘御を? ……そんな馬鹿な。)
麟太郎は初めて、事実を述べるだけでは済まない会話という物をを知った。これが、政治家か。しかし麟太郎は嘘を吐かない。黙ってしまった麟太郎を見た大臣は、ふ、と僅かに表情を緩め、「少し意地が悪かったかね」と笑った。先程までとは違う種類の笑みだ。
「留は昔からああだ、例え私の言う事でも、意思を違えれば頑として聞かない。だが、筋は必ず通す娘だ。あれが男であったなら、相当な快男児になっただろうな。しかし女は女だ、男にはなれん。故に私は、人を見る目、本質を見極める目を、留には特に養わせたつもりだ。誤った選択をしないよう、そして間違えたとしても自ら気付けるようにとね。」
ふと、先程一瞬だけ留子が見せた表情が思い浮かんだ。彼女が顔を曇らせたのは、麟太郎が彼女の選択を誤りだと否定した為だったのだろうか。
「閣下は、お嬢様の判断に間違いはないとお考えなのですか。」
「そうではない。が、信頼はしているよ。あれは見かけによらず聡い娘だ。その上で、聞いた話と今の君を照らして、少なくとも君は留に対して誠実であろうとしたという事実を評価している。」
大臣は煙管を吸うと、懐中時計を取り出し、一瞬眺めると、再び仕舞う。時間が迫っているのだろう。しかしもう一つ、結論を聞く前に、確認しなければならない事がある。麟太郎の「お訊ねしてもよろしいですか」という言葉に大臣が頷くのを確認し、麟太郎は言った。
「閣下ほどの立場の方であれば、私について調べる事は容易いでしょう。しかし、私が部下を救ったという話は、隊の者以外知らない筈。その詳細を知っているのは、更に一握りの者だけです。皆、……例え相手が大臣閣下であっても、安易に他人について口にするような者ではありません。閣下は、誰からそんな事を聞いたのですか。」
大臣は麟太郎の言葉を聞き、ふむ、と頷くと、煙管を咥えて手を組んだ。
「君は『鷹峰』という警兵に心当たりはあるかね。」
「……はい。」
「鷹峰家も公家で、長い付き合いがあるのでね。世四郎君が警兵学校を出た時には、ちょっとした祝いも贈ったものだ。そこで、手紙を送ってみたという訳だよ。君も言った通り、人を知り相手を知る事は非常に重要だ。政治家にとっても、父親にとってもな。」
そうして大臣は背広の内側から手紙を取り出す。折り畳まれた紙の表面には、非常に達者な筆で「勘解由小路大臣閣下」と宛名が記されている。
「機密漏洩だと怒らないでくれ給えよ、何せ私は、数年前まで世四郎君から『勘解由小路のおじさま』と呼ばれていたのだからね。『実は留が彼の事を好いたらしく、どんな男なのか知りたい』と書かれた手紙を見れば、世四郎君は断れんよ。まさか、あの子が君についてそこまで知っているとは思っていなかったがね。さて、全て読み上げる訳にはいかないが、ざっくり言えば『無表情故に損をしているが、それを当人は気にしていない、実力は確かだが驕らず、周りばかり優先している様な男だ』というような内容でね。あの気の強い世四郎君がこうまで認めるとは、面白そうな男だと興味が湧いた所で、丁度連絡を受けてね。おっとり刀で君に会いに来たという訳だ。」
内心驚きながら、麟太郎は大臣の言葉を聞いていた。鷹峰。鷹峰世四郎。石動の同期で、あの時――病室に殴り込みに来た青年だ。そう言えば彼は、あの場で石動との会話を聞いていた。以後、特に麟太郎と関わる事は無かった筈なのに、そんな彼が何故、そこまで自分の事を。麟太郎は、ゆるゆると首を振った。
「分かりません。私は何も大した事はしていません。ただ身命を賭して、受けた恩を返したい方が居るというだけです。それ以上は何も求めていないのに、何故……。」
「本当にそうかね。そこまではっきり心が決まっているならば、君は見知らぬ相手の猫なんぞ放って置けば良かった。留の言葉なんぞ聞かず、切り捨てて帰れば良かった。恩人以外どうなろうと構わないならば、部下も放って置けば良かった。そうしなかったのは何故かね。君の性根が、そう『させない』のではないのかね。そこを留は『優しい』と表現しているのだよ。成程君はある意味、とても分かりやすい。」
「その様に言われるのは初めてです。」
「口調と表情で感情を判断する人間にとっては、君は不気味に映るだろう。だが今の会話で充分、理解可能だよ。君は真っ直ぐで、良い意味で純粋な男だ。だが、君の中には『君』が居ないのだよ。」
そう言うと、大臣は既に煙の消えた煙管から灰皿に葉の燃え滓を掻き出し、立ち上がった。
「留を知ると誓ったのなら、その間に『君自身』も探すと良い。それまで嫁にやる事は出来んな。しかし、頻繁に出入りするのは難しかろう。まずは文の遣り取りでもし給え。」
一瞬呆気に取られた麟太郎であったが、その言葉に弾かれたように立ち上がる。
「お待ち下さい、閣下、まさか本気でお嬢様を私に嫁がせようなどと考えておられるのですか。」
「『今はやれん』、私はそう言ったつもりなのだがね。」
大臣は意味深な笑みを浮かべると、扉を開けて出て行く。外から複数人の足音と「話は終わった、さっさと戻らねばな。ああ、客は自分の足があるそうだ、手配は不用だよ」と声が聞こえ、やがてそれも聞こえなくなる。麟太郎は一人、扉へ近づく。外には留子と共に居た老人が、麟太郎の外套と帽子を持って立っていた。老人に丁重に礼を言うと、麟太郎は周囲を見渡す。大臣と共に出て行ったのか、廊下にも、その先の階段から見える玄関の広間にも誰もいない。ただ、そんな瞬間は今だけだろう。
「本日は、御暇致します。……失礼致しました。」
老人は何か言いたげな表情だったが、黙って礼を返す。麟太郎は階段を飛ぶように降り、一瞬で玄関扉に辿り着くと、来た時と同様にするりと隙間を擦り抜けて出て行った。
月の位置から見て、日付は変わっているだろう。それでも麟太郎は有坂家へ向かった。もう夏も終わりで、夜更けともなれば空気も消えかけの月も寒々しい。静まり返った離れに上がり込み、孝晴の姿を探す。いくら将校とはいえ、そう頻繁に休暇は得られない。今日の事は今日、手紙ではなく自分の口から話さねばならない。孝晴は寝所ではなく、彼がよく昼寝をしている、文机のある書院に居た。麟太郎は違和感を覚える。この時間に孝晴が起きているのなら、絣に黒羽織を着ている事が殆どだ。しかし今の孝晴は寝間着姿で廊下に背を向け、胡座をかいている。麟太郎はわざと廊下の板を軋ませてから、部屋の中へ入り、孝晴の背後に座る。
「戻りました。」
「ん。どうだったぃ。」
すぐに返事が返って来た。どうやら起きていたようだ。麟太郎は頭を垂れながら言った。
「勘解由小路家で話を致しました。」
「そうかぃ。」
「婚姻については、お断りしました。が、お嬢様には、気持ちを変えるつもりは無く……互いを知った上で改めて返答する、という事になりました。」
「……。」
孝晴は背を向けたままだ。その表情は窺えない。何故か、嫌な予感がした。
「ハル様、私は、」
「お麟。」
静かな一言。しかし麟太郎は動けなくなる。感情には疎いが、孝晴の気持ちだけは感じられると思っていた。けれど。
「さっさと心決めて、お留お嬢様ンとこに行ってやんな。ちと騒がしいが、悪い娘じゃねェだろぃ。そもそも、貴族の娘が好いた男と一緒になる事なんざ、殆どねぇんだ。余程馬が合わないなら別だが、そうでないなら、受けてやるべきだと思うぜぃ。」
孝晴が何を思っているのか、どのような意図でそう言ったのか、分からない。見えない。
「私はまだ彼女の事を知りません、それに所帯を持てば、これまでのようにハル様にお仕え出来なくなります。」
孝晴は無言だった。その無言が暫く続き、唐突に、孝晴が消えた。麟太郎は瞬間的に背後を振り返る。廊下の窓の先に見える月を背にした孝晴の目に宿っているのは、まさにその月の光のような冷たい色だった。
「俺にゃ、もうお前は要らねぇよ。だから、お前を必要としてる女を幸せにしてやんな。」
言い残し、歩き去る孝晴。麟太郎は動けない。動かない。何故。体が動かない。月の位置が変わる程の間そうして固まっていた麟太郎は、漸くのろのろと手を動かし、棒手裏剣を取り出すと、左手の平に突き立てた。鐵の棒を伝い、膝の上に落ちる血の雫。微々たる痛みだが、少しは視界が明るくなったような気がする。
「……戻らなければ。」
ぽつりと呟いた麟太郎は、手裏剣を手から引き抜き、有坂家を後にした――
「そ、それは……その……大変な一日でしたね。」
淡々と、しかし石動から見れば明らかに沈んだ様子で話し終えた麟太郎に、石動は何か苦い薬でも飲み込まされたような顔で言った。麟太郎は黙って頷く。一日中駆け回って助言を集め、今まで考えた事もない「結婚」という話に彼なりに真摯に向き合い、挙句待っていたのは、最も慕う人間からの拒絶。それは放心もするだろう、と石動は片手で頭を抱えた。心に受けた傷の大きさに比して、麟太郎がまだ動けているのは、麟太郎自身が自分の心に対して疎いからなのだろうと推測しつつ、石動は言葉を選ぶ。
「隊長は、辛い、って気持ち、分かります?」
「辛い……痛いや苦しいと似た物と認識していますが。」
「普通ならそう言えるでしょうが、隊長は物理的な痛みには強いですからね。今、どうですか。胸の奥の方に、体の不調は無いのに違和感があったりしませんか。」
麟太郎は胸に手を当てた。鼓動が僅かに速い気がする。感情が乱れているという事か。
「……少しおかしいようですね。」
「おかしいと思うなら、それが『辛い』って事です。隊長は鈍いんで普通に仕事してますけど、『心の傷』って、場合によっては動けなくなってもおかしくない程の負傷なんですよ。」
「私は貶されているんですか。」
「事実でしょう。問題は其処じゃ無いんです、隊長。」
ちらと背後を確認しつつ、石動は話す。特に此方を気にしている者は居ないようだが、人が減って来た。消灯時間も近い。
「考えなきゃならない事は色々あるでしょうけど、今一番苦しいのは、孝晴さんに『要らない』って言われた事ですよね?」
「はい。……恐らく。」
「何か前兆はあったんですか。」
麟太郎は首を振る。その日の朝に訪れた時には、普通に会話をした。ただ、自身の母について口にした孝晴は、暗い目をしていたが……。
「少なくとも私に対する態度に、変化を感じたのは、夜に訪れたその時からです。」
「……なら、多分、原因が孝晴さんの方にもあるんだと思いますよ。隊長を遠ざけたい理由が。今までずっと、隊長が誹りに耐えてまでお側にいて、それを拒まなかったんでしょう。なのに、急に『要らない』だなんて、おかしいですよ。」
「そう、でしょうか。」
俯く麟太郎の手を、石動は隣から強く握った。骨張って硬いが、本当に小さな手だ。じっと石動を見る麟太郎の目を、石動は右目で真っ直ぐ見詰め返した。
「おかしいと思わなければだめです、隊長。いくら恩人に言われようと、命じられようと。貴方が孝晴さんについて話す時、声が優しくなるのを俺は知ってます。孝晴さんは、尽くして来た貴方を、要らなくなったら捨てるような人じゃ無いんでしょう。」
「……。」
「それとも、本当はそんな人なんですか?孝晴さんって。」
麟太郎は握られていない方の手を、もう一度胸に当てた。成程、麟太郎は孝晴の秘密を守り、尽くす事しかしていない。孝晴自身が語らない事には触れて来なかった。けれど、それはやはり間違っていたのかも知れない。鼓動は通常の速さに戻っていた。
(――私が、本当にハル様を思うなら。真意を確かめなければならない。)
「有難うございます、石動。次にすべき事が見えました。」
石動も、麟太郎の手を通して変化を感じていたようで、「お役に立てたなら良かったです」と笑みを浮かべた。
「ところで一つ君に訊きたいんですが。」
「何ですか?」
「婚姻を断るお詫びに贈物を持って行ったら、『女心の分からない人』と言われまして。どう言う意味か分かりますか。」
「贈物なんて貰ったら好意を抱かれていると思うし破局したら残ったそれ見て余計悲しくなるからに決まってるでしょお!」
思わず叫んでしまう石動。そうなんですか、と呟く麟太郎に、次は恋愛相談かと再び石動は頭を抱えるのだった。
「帝國の書庫番」
十二幕 「杪夏に思うは其々の君」