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帝國の書庫番  作者: 跳魚誘
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帝國の書庫番 九幕

夏の初め。変わるのは関係か、心か。

 男は、山中で育った。猟を生業としていたが、学制の恩恵で入学の機会を得られた。学校は首席で卒業した。教師に勧められた事もあり、猟で培った射撃の腕と、父から伝えられた剣を頼みに、軍に入りたいと伝えた時、嫌な顔一つせず送り出してくれた両親には、ずっと感謝している。その時には、自分の外見など誰も気にしていなかったから、帝都へ出てこんな事になろうとは、想像すらしていなかったのだ。

「役者のよう」「二枚目」などという見てくれへの賞賛は、力を発揮すればする程、誹りへと変わった。猟師の出で、婦人の目を攫ってしまうのも原因だったろう。妬み嫉みとはそういうものだ。そのうち、金持ちの女だけでなく男にも身を売っているのだと、「陰間」「陰子」「色売り」等と言われるのが当たり前になった。妻も娶ったというのに可笑しな事だと、自分では気に留めていないつもりだった。所詮遊戯の狩りと的当てしかした事がないのだろう、上流出の同輩達に、銃の腕は負けなかった。それに、いざとなれば剣がある。だから。


『……おい、手前ぇ。』


 新設の試験部隊に選抜され、身体検査を受けに行った先で。


『こいつに謝罪しろ。膝ついて頭を下げやがれ。』


 白衣の男が当たり前のように割り込んで、相手を叩きのめした時、只々、驚く事しかできなかったのだ。


「……狭い家で満足なおもてなしもできず、済みません。」

「いや、俺が無理を言ったんだ、気にするな。そこのは……、」

「家内です。」

「失礼しました、お内儀。突然の訪問ですから、どうかお気遣いなく。」

「いえ、まさかウチにその、衣笠様がいらっしゃるなんて……お湯を沸かしますね。」

 戸口で呆然としていた女がぱたぱたと土間へ駆けていくのを見て、気遣いは要らないと言ったのにと理一は苦笑した。土間と板の間だけの小さな町屋。奥には寝所があるのだろうが、大店からそのまま衣笠邸に移った理一にとっては、初めて見る「一般人の家」だった。

「俺の事、話したのか? 細君に。」

「ええ、自分を庇ってくれたのが、貴方だと聞いて。『どう御礼をしたらよいか』と二人で話し合いましたが、自分の立場で貴方に満足していただけるような案もなく。せめて頭を下げねばと伺った次第です。」

 互いに円座に腰を下ろして向かい合う。理一は下座を選んだ。男は驚いた顔をしたが、この家のあるじは彼だ。理一が礼をすれば黙って礼を返した。

「さて……名前を訊いてなかったな。」

ししを狩る、で猪狩いかりです。自分は山を降りましたが、家業は猟師で。」

「成程、下の名は?」

雁平がんぺいと言います。がんは『かりがね』のガン。」

「鳥撃ちもやるのか?」

「ええ。よくお分かりで。」

「銃兵で猟師で鳥に因んだ名前と揃ってりゃ、腕は猟で磨いたんだろうと推測は立つさ。」

「因みに、父は鵙平もずへいと言います。」

 ふ、と男――雁平は微かに笑った。しかし改めて見ても男前だ、と理一は思う。自分は母親似だが、彼の美しさはそうした女性的なものではない。例えるなら、彫刻刀で切り出した神像を滑らかに磨き上げたような、鋭さと強さの中に静けさを湛える、そんな顔だ。どことなく、高貴ささえも感じさせる。

 女が茶碗を盆に載せてやってきた。二人の前に置くと、雁平の斜め後ろで頭を下げる。

「改めまして、妻の『みわ』です。」

「そうか。おみわ殿、差し支えなければ、どうですか、お座りになっては。」

「えぇ! アタシなんかがそんな、いいんですか?」

 みわは目を丸くしたが、夫が目で頷くと恥ずかしそうに床に腰を下ろした。敷物はないのかと尋ねれば、雁平は首を振る。

「ここを譲ってもらうのに殆ど給金を注ぎ込みまして、まだ部隊を移って間もないので、二人分のものしか用意が無いのです。」

「だったら俺はいらないから、おみわさんが座りな。」

「えぇっ。」

 みわが目を白黒させて驚く様が新鮮で面白く、理一は笑いを堪えながら円座を取って、みわの前に敷いてやる。流石に雁平も目を見張っていたが、床に座り直した理一に向かい居住まいを正し、言った。

「……お尋ねしたかったのですが。何故、自分にそこまでしてくださるのですか。自分はまだ一等兵ですし、貴方と面識もなかった。だから、『あれ』が原因で貴方が処分されたと聞いた時は、自分にも咎めがあるだろうと覚悟していたのです。それが……何事もなく。申し訳なさと、あの時、驚くしか出来なかった自分への情けなさが、ずっとわだかまっていました。貴方は、何の為に、自分を庇って下さったのですか。」

「……。何の為に、ね。」

 理一は胡座をかいて背筋を伸ばし、笑う。

「『俺の為』、だよ。少なくとも、あいつらが気に食わなかったから、手を出した。それだけだ。」

「貴方は、銃を撃ちますか。」

「……ああ。」

「知っての上で、その、肩を……?」

 理一は笑みを消した。小銃を撃つ時は、肩と頬で保持する。肩甲骨の関節窩に銃床を嵌め込むような形だ。肩が使えなければ、当然、銃は撃てない。しかも、理一はあの時、捻り上げた肩を「後ろ側にずらした」。すぐに整復し、暫く固定して動かさないよう告げたが、相手がそれに従った保証もない。もし癖になったとしたら、今後、あの男は銃を撃つ度、いや、鍛錬の度に、肩が外れる恐怖に怯える事になるだろう。そう思うと、非道な事をしたものだ。

「その通りだよ。医者が他人の体を壊す為に知識と技術を使ったんだ。処分も妥当どころか、軽過ぎるくらいだわな。有坂の野郎が縮めてくれやがったが。」

 理一は自嘲したが、雁平は笑わなかった。

「自分は病院の研究室にも謝罪に向かいました。皆、自分の話を聞いて、貴方は『理由もなく暴力を振るうような人ではないから、納得した』と言っていました。そんな貴方をそれほど怒らせた理由は、何なのですか。」

「訊くのか、それを。」

 雁平は一度、おみわに目を向ける。おみわは少し目を伏せた。

「自分はもう、あんな言葉には慣れ切っていました。顔は変えられないのだし、自分以外は皆士族や貴族出の者です。仕方ない、怒りなど感じないと。けれど、貴方の憤りを見て、正直に言えば……嬉しかった。自分の代わりに怒ってくれたようで。けれど理由が分からない。どう感じたらよいのか、今日まで悩み続けていたのです。」

 だから、聞きたい。そう雁平は結ぶ。理一は一つ、息を吐いた。

「……お前、廓には行った事があるか。」

「いえ。」

 雁平は首を振る。猟師の出で、暮らしも質素だ。そんな金があろう筈もない。理一はじっと雁平の凛々しい顔を見詰めた。

「春をひさぐ仕事は命を削る。どういう経緯でそうなろうと、手前の命を売って、手前の命を繋いでんだ。しかも、自分の品物としての魅力を高めなければ金にならないから、また身を削って努力する。女だろうが、男だろうが、同じだ。……お前の過去は知らねぇが、俺はあいつが『陰間』を見下して、馬鹿にしてんのが、許せなかった。」

「そうですか……。」

 自分の「家族」まで馬鹿にされた気がして、という本心は、内に秘める。雁平はじっと理一を見ているが、その目が少し細められた。何か思うところがあったようだ。

「ならば何故、貴方は廓に通うのですか。」

「そう、思うよな。俺の噂を聞いてりゃあ……。」

「廓狂い」「色情狂」の衣笠家当主。その噂を敢えて肯定しているのだから当然だ。周囲にじっと耳を澄まし、此方を探るような気配は無いと確認すると、理一は雁平を、次に、おみわを見遣る。

「お前は口が堅いか?」

「貴方が感じている通りです。」

「だろうな……おみわさんは?」

「えっ、アタシは、大丈夫です、約束は守ります。」

「……これは素直な女ですが、他人の秘密を言い触らすような事はしません。」

「分かった。」

 理一は言葉を選ぶ。嘘は言わないが、出生を悟られる事もないように。

「……餓鬼の頃に世話になった女が、廓に居る。」

「それは……。」

「理由は関係ねぇ、門の中は、外とは世界が違う。ただ、俺には両親りょうおやがない。昔馴染みは、そいつしか居ないんだよ。……だから、俺は廓に『話をしに行ってる』だけで、廓の女を抱いた事はない。けど、そんな事の為に金を注ぎ込むなんてのは『女々しい』だろ。だから、色好みだって事にしてんだ。『英雄色を好む』なんて言うしな。」

 その方が「男として」受け入れられ易い。上からは睨まれても、こうしておいた方が、廓には通い易いのだ。雁平は神妙に頷いた。

「そうでしたか。貴方はその方を大切に思われていて……だからこそ、身売りの職を見下す言葉が許せなかったと。」

「そういう事だ。……絶対にばらすなよ。」

「ええ、勿論。」

 雁平は答え、目を向けられたおみわも、激しく首を縦に振る。二人を疑う訳ではないが懸案事項が一つ増えたなと思いつつ、理一は話題を変えた。

「しかし、そうか、今まで何事もなかったんだな。あの野郎がお前を逆恨みして手を出してくる可能性もあったから、頭冷やしてから、後悔しない事もなかったんだよ。」

 雁平は少し目を開いたが、小さく微笑む。その笑みは、今までのものとは種類が少し異なっていた。

「もしかしたら、これからかもしれません。数日前に少尉は部隊を抜けられましたから。ただ、私には剣があります、そう簡単に受けに回る気はありませんよ。例え、相手が少尉殿であっても。」

「剣? お前、試験研究の為に選抜された銃兵だろ。」

 先程も猟師と言っていた筈だと不思議そうな理一に、雁平とおみわは顔を合わせ、おみわが席を立つ。すぐに戻って来た彼女は、風呂敷に包まれた棒状の物を捧げ持っていた。雁平が「話を伺ったお返しという訳ではありませんが」と言いながら包みを解いてゆくと、中から三尺はあろうかという太刀が現れた。

「これは……見事な拵だな。」

「我が家に伝わるものです。西都東宝院派の造りで、銘は叢雲そううん。紋は剥ぎ取られて残っていませんが、自分の祖先は、一九〇五年の戦役で各地に散った、帝の血を引く武将の末裔だと言われてきました。先祖は敗将ゆえに姓を変え、山に潜んで猟師となりましたが……同時に、自分に至るまで、刀と太刀術を受け継いで来たのです。」

「……成程。それが本当なら、衣笠家より古い血統って事になるな。」

「自分は、しがない猟師上がりの一等兵ですよ。」

 ふ、と笑って雁平は太刀を包み直す。彼から感じる高貴さは、受け継がれて来た血ゆえのものかもしれない。太刀を包み終え、おみわが仕舞いに戻るのを見ている雁平に、理一は言った。

「どうだ、手合わせしてみるか?」

「!?」

 声はなかった。が、これまでずっと端正な表情を崩さなかった雁平が息を呑み、目を剥いた。理一は楽し気に笑みを深める。

「お前の話だと、お前の剣はお前の一族にしか継がれてないものなんだろ。一応、『武芸百般』なんて呼ばれてる身だからな。興味が湧いただけだ。」

「そう、ですか……。」

「嫌か?」

 訊ねる理一に、雁平は首を振る。

「自分を庇ったのがあの衣笠様だったというだけでも、身が震えたというのに、まさか貴方と剣を交えられるとは、なんと光栄な事だろうかと。」

 答えた雁平の真っ直ぐな瞳は、鋭く、純粋な光を帯びていた。


 木刀を互いに持ち、狭い部屋の中で、それぞれに構えを取る。理一は一般的な木刀を借りたが、成程雁平は使い込まれた長い木刀、しかも柄頭に紐――手貫緒が結ばれたものを、佩刀の姿勢で握っている。馬上で太刀を使用していた頃の名残だろう。もし二人が握っているものが真剣であったなら、まるで演劇の一場面のようだ。簪のように美しい理一と、切先のように美しい雁平。互いに見合い、同時に動く。速さは互角、間合いは僅かに雁平の方が広い。理一は真剣と同じように鎬に滑らせながら木刀を受け、すぐに身を引き距離を取る。隙を伺うが、成程、理一の目から見ても、安易に飛び込めるような隙が雁平には無い。相当な剣の使い手なのは間違いないようだ。

と。

「あ、あんた、頑張って! 衣笠様も〜!」

 思わず、といった調子の熱の籠った声。二人は同時に動きを止め、互いに顔を見合わせると、やはり同時に吹き出した。おみわはキョトンとして「へ?」と声を上げ、雁平は腕で口元を隠しながら「す、すみません、みわは素直なんです」と笑いを堪えながら言う。理一は腹を押さえていた。ひとしきり笑い、理一は息を吐く。

「おみわさんの勝ちってとこだな、こりゃあ。」

「面目ない……。」

「なんでです! 応援はだめでしたか?」

「いや、だめって訳じゃないんだがな、ふふっ、くそ、笑いが止まらねえ。」

「だって……二人とも見合う姿が凄く綺麗だったんですもん。どっちも応援したくなるじゃありませんか。」

 おみわの言葉には、一切の嫌味がない。雁平は優しい眼差しで彼女を見ている。だからこそ彼は、おみわを妻としたのだろう。

「まあ、あれだけでも充分楽しかったよ。」

「ええ、自分はもっと精進しなければいけませんね。やはり貴方はお強い。」

「そうか?あのまま続けてたらどうなったことか。お前も相当の手練れだよ。」

「恐縮です。」

 頭を下げる雁平。さて、話は済んだと理一は立ち上がる。

「いつでもうちに手合わせに来い……って言いたいとこだが、俺にはあまり近付かない方がいい。今は特にな。」

「承知しています。ですが……貴方の心と、御恩は忘れません。」

「気にするな。言っただろ、『俺の為だ』ってな。」

 深々と頭を下げる雁平と、何度も頭を下げるおみわを背中に、理一は玄関を後にした。


 雁平宅を出て少し歩いた理一は、足を止め、地面に落ちている小石を拾い上げる。そして、目を細め、腕を振りかぶり、勢いよく民家の屋根に向かって放り投げた。暗闇に吸い込まれた石が屋根に当たる音はない。代わりに、屋根から小柄な影が音もなく飛び降りる。

「そういう理由わけだったのですね。」

 立ち上がった麟太郎の手には、先程理一が投げた石が握られていた。

「俺が気配を感じ取れないのは、お前くらいだよ、リン公。」

「感情の起伏が少ないからでしょう。私は。」

 苦々し気に言う理一に、澄まして応じる麟太郎。理一と初めて出会った時、自分以外の人間を抱えてなお、気配を悟らせなかった男である。先程探った時に気付けなかったのも当然だった。しかし。

「有坂の野郎に言うのか。」

「はい。」

「……言うなって言ったら?」

「何故ですか。」

 麟太郎は無表情に首を傾げる。理一は内心舌打ちをした。きっと孝晴は自分の出生に気付いている。これ以上弱味を晒して、対等な関係を壊したく無い。

「お前は、有坂のをどう思ってる?お前にとってあいつは何なんだ。」

 薮から棒に、理一は訊いた。

あるじ、です。」

「……。」

 当たり前のように答えた麟太郎には、理一が不満気な顔をしている理由が分からなかった。しかし無言の理一に促されるように、別の答えを考えてみる。

「もしくは……『世界』でしょうか。」

 麟太郎は、掌に握った石を見た。

「私には記憶がありません。私の最初の記憶は、ハル様と出会った時……あの時の感情が何なのか、未だに私には分かりません。けれど、私は、その瞬間から、人としての生を与えられました。ハル様が私を作った……私にとっては、ハル様が、全てです。」

 麟太郎はそう言って、理一に目を向ける。

「どうして、そんな事を?」

 理一は大きく溜息を吐いた。

「お前の中に、俺は居ねぇのかよ。養父おやじさんは。あの石動って野郎は。隊の仲間は。」

「…………。」

 黙り込んでしまった麟太郎の隣で、理一は静かに、言った。

「俺は、お前を友達だと思ってるよ。」

 大っぴらにはしねぇがな、と付け加える理一を、麟太郎は無表情に見ている。

「友人に石を投げますか。」

「お前なら取るって思ってたからに決まってんだろ。信頼してる、って言ったら分かるか?」

「信頼、ですか。」

 麟太郎はもう一度、石を見た。何の変哲もない小石は、ずっと握っていたため、温くなり始めている。

「先生は、どうして、あの理由をハル様に知られたくないのですか。」

「それも、俺が奴を友達だと思ってるからだ。」

「『信頼』は無いのですか。」

「違う。友達だからこそ、俺の問題で迷惑かけたくねぇ。分からないか。」

「難しいですね。」

 真っ暗な夜道を二人で歩く。麟太郎はずっと、小石を握って眺めている。温い夜風が二人の髪を撫でた。考えていた麟太郎が、ぽつりぽつりと言った。

「私は、私自身が、先生を信頼している、と思います。しかし、例えば私はよく負傷しますので、先生を頼りにします。それは、迷惑なのでしょうか。」

「迷惑だなんて思った事はねぇよ。」

「では、先生の問題にハル様が関わる事も、迷惑ではないのでは。」

 理一は内心、どきりとした。感情に疎い麟太郎は、的確に矛盾を突いてくる。その通りだ。自分はまだ、彼らに対して壁を作っている。二人なら自分の「弱さ」も受け容れてくれるだろう。それでも。

 目線を下げ、屈み込む。そのまま理一は麟太郎を抱き締めた。

「先生?」

 抑揚のない声が耳元で聞こえる。これは「女々しい」感情だ。あの牢獄の中でしか自由になれない自分の、弱さを知られたくないが為の方便だ。その弱さを出した時、自分がどうなるかわからないという恐怖を、悟られたくないという我儘だ。

「頼む。『まだ』、黙っててくれ。」

「私や、あの方……猪狩さんに知られるのは、よいのですか。」

「孝晴に知られたくない。」

「どういう意味ですか。」

「あいつとは、対等でいると決めた。」

「分かりません、何故、ハル様だけに……、」

 不動のまま言葉を返していた麟太郎が、黙り込む。暫くその状態が続いた。麟太郎の手から、小石が落ちる。そしてその手が、理一の頭に触れた。

「!」

「……分かりました。ハル様も、貴方を傷付ける事は望みません。私は、先生が帰宅する所を見届けろと命じられただけです。経緯として報告すべきと思っていましたが、先生の気持ちを無碍にしたら、『信頼』を損なってしまいます。それは、私も望んでいません。」

 髪の流れに沿って、麟太郎の手が理一の頭を滑る。細く、小さく、骨張った硬い手の感触。互いに顔は見えない。麟太郎の声からも感情は伺えない。自分はずるいな、と理一は自嘲する。純粋な麟太郎が揺さぶられるだろうと見込んで、こんな行動を取ったのだから。そんな自分にも淡々と優しさを向けるのだから、お人好しにも程があるのだ。だから、せめて。

「ありがとな。」

 理一はもう一度だけ、麟太郎の小さな体を強く抱き締めた。


 今度こそ理一が衣笠邸に戻ったのを確認し、麟太郎は夜道を歩く。既に深夜を過ぎている。足音を立てない癖が付いている為、彼が歩いていると気付く者すら居ないだろう。早足で闇を掻き混ぜながら、麟太郎は考える。

(私は、ハル様への御恩を返す為に生きている。ハル様の存在が、私の生きる意味だと思っている。間違いなく。しかし、衣笠先生は、『ハル様には知られたくない』と言った。私もだ、私も、ハル様だけに尽くしている。しかしそれは、ハル様を私達から切り離す行為なのだろうか?)

 立ち止まったのは、有坂家の前。孝晴は出ているか、でなければ眠っているだろう。報告は後日、くろすけに飛んで貰えばいい。



『汚ねェな、先に切っちまうか。しッかし硬い髪してンなァ、お前。』

『食事に素手を出すんじゃねェ。ほら、こう握ンだよ。で、こうやって使う。真似して覚えんだぜ。』

『いつまでも【お前】もなんだなァ…。そうさな、【リン】にすっか。ちびだから【リン】。悪くねぇだろィ?』

『お前はこれから刀祢の人間だ。軍でもなんでも、好きにやってみなァ、【麟太郎】。』



 屋敷を眺めれば蘇る、たった三年と数ヶ月の記憶。それでも、今の自分を決定付けた記憶。

「私は、ハル様の犬。……それでは、いけないのだろうか。」

 ぽつりと、麟太郎は呟いた。理一の言葉が蘇る。


――お前の中に、俺は居ねぇのかよ。


 孝晴がこの世に絶望してしまわない為なら。孝晴が見るこの世の闇を少しでも晴らせるなら。どう思われても、どうなってもよいと、思っていた。けれど。

「私は、世界を拡げなければならないのかも、しれない。」

 そう呟くと、僅かに麟太郎は目を細め、温い風と共に闇の中へと消えて行った。


 夜明け前に服を洗い、長靴ちょうかを磨き、替えの軍服を纏い、点呼へ出る。普段通りの休暇明けだ。しかし、各分隊の通常勤務に出る前に、小隊長が麟太郎と石動を呼んだ。二人は何事かと顔を見合わせながらも、先に勤務に出るように隊員に指示し、小隊長の元に向かった。

「何かありましたか、水善寺大尉。」

 大尉は一つ息を吐き、「お前、何をしたんだ?」と呆れ顔で話し始める。昨日の夕刻、守衛の元に激しい剣幕で駆け込んで来た女性が居たという。守衛は「屯所内に人を訪ねるならば許可が必要」と伝えて帰らせたが、その時に言われたのが……

「『小柄で赤茶の髪をした目付きの悪い警兵を出せ』だそうだ。」

「私ですね。」

「隊長ですね。」

 同時に言った二人を見て、再び大尉は溜息を吐いた。

「貴族の女性が軍に殴り込んでくるような事をしたのか、刀祢? 聞けば、勘解由小路家の令嬢らしい。あの家と揉めたら面倒な事になるぞ。何せ大臣なんだからな、勘解由小路伯爵は……。」

 勘解由小路、という姓を聞き、麟太郎は思い出す。

「昨日の事ですね。」

「何かしたんですか?」

「猫を助けたんですが。態度が悪いと怒らせてしまったかもしれません。」

「「猫?」」

 石動と大尉が同時に疑問符を顔に浮かべたが、その時、入口の方から女性の声が聞こえて来た。よく通る声だ。間違いないだろう。麟太郎はくるりと踵を返した。

「謝罪してきます。」

「あっ、隊長がそのまま行ったらまた怒らせるんじゃ!? 俺も行きます!」

「おい貴様ら! ……はぁ、全く……。」

 背後に石動と大尉の声を置き去りにして、麟太郎は声の方へ向かう。受付で身を乗り出しているのは、やはり、あの木の下で猫を呼んでいた少女だった。

「ほら! ちゃんと許可を取って来たんです、早くあの人に、……。」

 麟太郎が声を掛ける前に、少女の方が気付いた。ぴたりと声が止み、次に少女は、何やらきっと眉を上げ、早足で麟太郎に近付いてきた。自分が無愛想なのは百も承知な麟太郎は、あの時の態度が気に食わなかったならばまず怒鳴られても仕方ないと黙って立っていたが、少女は、早足――いや、駆け出して、殆ど体当たりのように麟太郎に衝突した。

「え。」

 気付いた時には、床に頭がぶつかる鈍い音と共に、麟太郎の視界には天井が映っていた。流石に予想していなかったとはいえ、女性の力でも押し倒せるほど自分は軽いのか。全く受身も取らず強かに頭を打ってしまった。少々不味いかも知れない。そして、少女は麟太郎に馬乗りになっている。この状況は一体何なのだ。訳が分からず無言のままの麟太郎に対し、少女は、眉を寄せ、唇を戦慄かせ、顔を真っ赤にしながら、叫んだ。


「わ、わたしを、あなたのお嫁さんにして下さい!!」


「………………。」


 麟太郎は、目だけを動かした。片方の目玉がこぼれ落ちそうな表情の石動と、負けず劣らずの顔をした水善寺大尉、そして……。

その時初めて麟太郎は、「視線が痛い」という感覚を理解した。


帝國の書庫番

九幕 「生々流転」

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