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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

La Vie en Rose


「ようよう、婆さんよう。いい加減に観念したらどうなんだい」

 古びたバーのカウンターに身を乗り出し、派手なアロハに金の腕時計という見るからにチンピラ風の若い男が、向かい側に立つ痩せこけた老婆に向かって凄んでみせる。

 だが相手は同じくカウンターに肘をつき、折れたタバコを咥えたままチンピラを睨み返していた。

「ガキが、イキがってんじゃないよ。しょんべん漏らさないうちにとっとと帰んな」

「んだと、このババア!」

「ふん」

 横浜の西部にある繁華街の一角、朽ちかけた古ビルの一階にこの店はあった。

 店の名は、ラヴィアンローズ。ババアと呼ばれたこの女性は、店のママであると同時にこのビルのオーナーでもあった。

 マリという名で呼ばれているが、それが本名かどうかは誰も知らない。

「いいからよう。とっととこの契約書にハンコ押して、大金もらってよう。老人ホームにでも入ってのんびり余生を過ごしゃあいいじゃねえか。

 俺もあんたのためだと思うからこそ、こうやってこんな小汚え店まで何度も足を運んできてやってるんだぜ」

「小汚くて悪かったね。何度来たって無駄だよ、あたしゃこの店を手放す気なんかないよ」

「施設が嫌なら、今すぐ棺桶に入れてやってもいいんだぜ、ああ?」

 黄金町と名付けられたこの界隈は、つい20年ほど前まで、街の名の通り金に眼のくらんだあぶれ者が集まり日本の暗黒街とまで呼ばれた犯罪の街だった。

 売春、薬物、銃刀など違法な商売が当たり前のように行われ、昼間から銃声が響きわたることも珍しくない。警察官ですら足を踏み入れるのを恐れるほどの無法地帯だった。

 ラヴィアンローズは、この街が育ち始めた昭和の中頃に店を開いた。

 戦後の発展とともにあぶれ者の吹き溜まりのようになって行った時も。県警の浄化作戦により犯罪者が一掃され、明るい街へと生まれ変わった時も。ラヴィアンローズはずっとこの場所にあり、彼女はずっとこの街を見つめ続けてきた。

 だがこの店にも、再開発の波は容赦なく押し寄せてくる。チンピラは不動産業者の手下であり、マリに立ち退きを迫っているのだった。

「舐めんじゃないよ、このアタシを誰だと思ってんだい。暗黒街の女帝、ブラッディマリと呼ばれた女さ。ガキに脅されたくらいでビビるとでも思ってんのかい」

 ジロリと睨みつける眼光は、枯れ枝のような痩せこけた体からは想像もできない鬼気を纏っている。死相すら浮かんで見えるほどの暗い顔色は、店の照明のせいだけとも思われなかった。

 チンピラは気圧されたように口をつぐんだ。その時。

「わはははっ、女帝はいいや。いったい誰がそんなかっこいい名前で呼んだんだい」

 笑い声とともに奥のボックス席から立ち上がったのは、それまでマリとチンピラのやりとりをソファに寝転がって聞いていた、黒づくめの男だった。

「カシラ!」

 190cmはあると思われる長身。黒いスーツに黒いシャツ、濃いサングラスで表情は見えない。薄暗い店の中に立つと、不気味な影のように映る。

 チンピラは何度も店に来ていたが、この男がついて来たのはこれが初めてだった。

 男は「どけ」と言ってチンピラに席を譲らせると、マリの正面に腰を降ろした。

「よう婆さん、女帝とはまた随分かっこいいじゃねえか。でも俺が昔住んでた頃に聞いていたのは、暗黒街の鬼婆だったはずだぜ」

「ようやく親分の御登場かい。へえ、あんたこの街の出なのかい?」

「ああ、ガキの頃だけどよ。この街で育ったのさ」

「そりゃまたご愁傷様だね。よくもまあその歳まで生きていられたもんだ」

「わははっ、婆さんにそれを言われちゃしょうがねえ。婆さんのことも憶えてるぜ」

「ああそうかい、アタシゃあんたのことなんかちっとも知らないね」

「そうだろうな、俺もあの頃とはすっかり変わっちまったからな。この街も変わった、変わらねえのはあんたとこの店だけだ」

「だからって、今さら変わる気なんかないよ」

 マリが睨むと、男はニヤリと笑った。

「わかってるさ。ここはあんたの旦那だった男が、あんたのために買った店だ。手放したくないのはよくわかる」

「昔話はよしとくれ。死んじまった奴のことなんか忘れちまったよ」

「男が死んだ後も、あんたはずっとこの店を守ってきた。街がはみ出し者であふれ、掃き溜めのような有様になってさえもだ」

「ふん」

「あんたはこの店を守りながら、街中に溢れてるガキどもを育てていた。こんな街だ、ガキなんか野良犬と一緒で勝手に湧いて勝手に死んでいく、捨て子だって珍しくねえ。

 あんたはそんなガキどもを拾って来てはビルの上の階に住まわせて、生活の面倒を見ていた」

「昔話はよしとくれって言ったはずだよ。そんなもん、思い出したくもないよ」

「まあそう言うなよ。でも何でか、拾ったのは男ばっかだったってな。どうしてだい?」

「女は金になるんだよ、アタシが拾わなくても誰かが連れてってくれるのさ。男のガキなんか邪魔なだけ、親もエサなんかやらないし、道端で野垂れ死にでもされたら迷惑だからね」

「そうやって飼ってたガキは二十人以上にもなるそうじゃねえか。そいつら、今どうしてんだい?」

「知らないよ。勝手に飛び出して行ったり、つまらない喧嘩で死んじまったり、みんないなくなっちまったよ」

「死んだ旦那もそうだったな。下らねえ喧嘩で腹を刺されて、それっきり。あっけねえもんだ」

「バラの花のように派手に生きてやるんだってのが、口癖だったよ」

「それで、ラヴィアンローズかい?」

「くだらないね。男なんてどいつもこいつもそんなもんさ。男なんて……」

 男はポケットから煙草を取り出し、無言で火をつける。それを見たマリが、おやと眉を上げた。

「へえ、セブンスターかい? 今どき珍しいね」

「ああ、婆さんと同じさ」

「アタシゃ昔っからこれ一本だからね」

 フフと小さく笑いながら、マリも煙を吐き出す。

「聞いたぜ。婆さん、癌なんだってな。でも今ならまだ間に合うって医者は言ってるらしいじゃねえか。いつまでも意地張ってねえで、少しは自分の身を可愛がってやったらどうなんだい?」

「ははっ、ついでにこのビルを寄越せってかい? 笑わせんじゃないよ、アタシはもう死んだっていい。ただし死に場所はここって決めてんだ。

 このビルが欲しかったらアタシの葬式を上げてからにしてくんな。なあに、そんな先のことじゃないさね」

「いいや、駄目だ。婆さんには今すぐ病院に入ってもらう。この店は、俺にまかせてもらう」

「冗談じゃないよ! あたしの眼の黒いうちは、絶対にこのビルを潰させるもんか!」

 マリはカウンターに身を乗り出し、間近で睨みつける。男は身じろぎもせずそれを受け止めると、フウと息を吐いた。

「潰さねえよ」

「なんだって?」

「婆さんには病気を治して元気になってもらう。ビルはリフォームして綺麗にする。新しい店で、新しい体で、あんたにはずっと長生きしてもらうんだ」

「どうしてそんな……、あんた……何者だよ……」

 つぶやく声に応えるように。男がサングラスを取ると、マリは眼を見開いた。

「その眼……、その顔……。ああ憶えてる。憶えてるよ、あんたは……」

 マリははるかな記憶を探り当てようと、視線を宙にさまよわせた。

「健太……」

「そうだよ、健太だよ。お母さん!」

「健太、ああ健太! 戻って来てくれたのかい!」

「お母さん! お母さん! 帰って来たよ、ただいま!」

 カウンター越しに、小さな体を抱きしめる。

 その後ろで、アロハのチンピラが良かった良かったと涙を流していた。



 幸いなことに治療は順調に進み、マリは一年を待たずして退院することができた。

 古ビルには耐震補強と新築同様のリフォームが施され、ラヴィアンローズの店内も綺麗に改装された。

 新装開店の日、健太は店の前でマリが来るのを待ちながら、これだけは元のまま残されたローズウッドの古い扉を、懐かしそうに見つめていた。

「ようやくだ、ようやくお母さんに恩返しができる。忘れたことなんかなかったさ。ゴミ溜めの中を這いまわるような渡世も、いつかお母さんを迎えに来るために……」

「高山!」

 突然の声に振り返る。同時に爆竹のような乾いた破裂音が数回、青空にこだました。

「馬鹿……野郎……」

「うわーっ」

 拳銃を手にした男が声を上げて走り去るのを、ドアにもたれかかりながら見送る。

「お母……さん……」

 次第に視界が暗くなっていくのを感じながら、健太はポケットをさぐり、セブンスターを口に咥えた。


 警察官に連れられてマリが店に着いた時、高山の遺体は既に運び去られた後だった。

 大声を上げ泣き崩れるマリの前には、ローズウッドのドアに散った赤い血痕が、大きなバラの花のように咲き乱れていた。




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