駅の音
電車にブレーキが掛けられ、時速60kmの鉄の塊が鋭い金属音とともにホームへと収まる。ノイズ交じりの車掌の案内を皮切りに数多の靴が雪崩のようにアスファルトを叩く。しばらくすると電車は一定の間隔で線路を叩きながら去っていく。ホームにはまた静寂が訪れる。
駅から歩いて30秒の家で生まれ育ったせいか、この一連の音のリズムを聞く度に幼い頃を思い出す。
一日に何度か、決まった時間に聞こえてくる駅の音。家の裏口の窓からはホームが見えた。小さいホームに一度に雪崩れ込む何十人という人を観察しては、彼らの一日を想像するのが密かな楽しみだった。疲れた様子のスーツの男、楽しそうに談笑している男女、買い物袋を一杯にしたおばさん。それぞれの一日があり、それぞれの人生があるのだと思うと胸が躍った。
幼稚園の先生か親戚のおばちゃんか、今となっては思い出せないが、あるとき将来の夢を尋ねられた。不意の問いかけに当時の僕は恐らく何も考えず反射的に答えたのであろう。駅員になりたいと。
駅の音や、それを支える駅員について語る僕を見て大人たちが発した楽しそうな声は今でもよく覚えている。
その頃からだろう。僕の頭の中には将来の夢=駅員という等式が成り立っていた。
車輪と線路がこすれる金属音、しわがれた車掌の案内、まばらな靴の雪崩。
裏口の窓から眺めていた景色の中で、僕はいま降車客から切符を回収していた。
くたくたにやつれたサラリーマン、大学生風のカップル、買い物帰りの主婦。
それぞれの一日を終えた人々が簡単な造りの改札を通り抜けていく。
幼い頃からの癖で、降車客の一日を想像する。上司に説教されたのかな、講義終わりにデートかな、夕飯は子供の好物かな。
そんな妄想をしているうちに並んでいた降車客は捌ききれた。他に客がいないことを確認してから駅員室に引っ込み、流しっぱなしの汗をハンカチで拭った。薬缶から注いだ麦茶を勢いよく流し込む。この仕事は好きだ。好きだが、今年はあまりにも暑い。
世の中には、好きなことを仕事にするべきではないと言う人がいる。仕事として触れるうちに好きなことが嫌いになっていくらしい。僕はまさにその忠告に反した職に就いたわけだが、就職当時の情熱とは裏腹に、最近はその忠告に半分賛成している。
正直、この仕事はハードだ。未だに有人改札をやっているような田舎の駅といっても、いわゆるラッシュの時間帯にはこの町の人間がすべて集結しているのではないかと疑うほどの人口密度に達する。それに加え、ニュースでは今年は酷暑なんて言っている。出入り口の扉さえガタついている木造の駅には、クーラーなどという文明の利器は存在しない。生ぬるい風を循環させる錆びついた扇風機のみが夏場の命綱だ。
窓枠からぶら下げた風鈴を聞きながら事務仕事をしていると、いつの間にか次の降車の時間になっていた。
ヒグラシの鳴き声が響くこの時間になると、日差しが山に遮られ暑さも幾分かマシになる。
コップに残った麦茶を飲み干して改札に立つ。
線路から響く甲高い金切り声、拡声器に歪められた車掌の案内、地鳴りのような靴音。
昼間の熱気にやられたのか少し眩暈がする。
夕日の残り火に照らされた車体から降車客が改札に雪崩れ込む。
いわゆる帰宅ラッシュというやつだ。この人数になると、さすがに一人ひとりの一日を想像する余裕はない。
機械的に切符を受け取って降車客を通していく。身体に記憶された動作で手を動かし、無意識に近い状態で次々と降車客を捌く。
ふと違和感を感じ、手が止まった。
目の前の降車客に目をやる。夏の盛りというのに長袖の上着を羽織り、目深にかぶった中折れ帽の下にはマスクにサングラスという、コメディでよく見るような変装の典型例だった。しかし、今の僕はただの駅員だ。人の趣味に口出しする必要もない。彼の後ろにはまだまだ降車客が並んでいる。
彼から切符を受け取り改札を通す。
すれ違いざま、一昨年行った港町の市場を思い出すような生臭さを嗅ぎとった。ふと、手元から客の顔に目を移すと、顔面を隠すような装飾品の隙間からきらりと光るものが見えた。好奇心から思わず凝視すると、まるで魚のような鱗と海水で湿ったように、てかてかと天井の蛍光灯を反射する肌が見えた。
思わず手の動きが止まる。全身に張り付いていた汗が急に冷えたように感じた。
鱗から目を離せずにいると、改札を通りすぎかけたその客がこちらを振り向きマスクを少しずらした。ほんの一瞬、びっしりと鱗が生えた口角の隙間から、鋭くとがった奥歯が見えた気がした。
そして目の前の生き物は、マスクの内側でニチャニチャと唇であろう部位を動かして、辛うじて言葉ととれる、泥をかき混ぜるような湿った音を立てた。
「他の駅員さんにはバレなかったんですがねぇ。気づいたのは、あなたが初めてですよ。」
瞬間、心拍数が上がり、全身の筋肉が硬直した。暑さによるものではない汗が全身から溢れ出ている。
マスクとサングラスで表情は隠れているはずなのに、なぜか笑っているのが分かった。
奴はその場から動かずにこちらを見ている。サングラスの奥にうっすら見える不自然に丸い眼球から目が離せない。
「おい」
野太い男の声でやっと我に返った。次に並んでいたサラリーマンが、苛立った様子で切符を差し出している。
そうだ、今は仕事中だ。降車客を捌かないと。震える手でサラリーマンの切符を受け取り改札を通す。
動作の流れを延長して、ゆっくりと駅舎の中を見回す。
さっきの魚みたいな化け物はもういない。
駅舎の外は既に闇が包み込んでいた。
その日は結局一睡もできなかった。
翌朝出勤した先輩にあの化け物の話をしたが、季節のせいもあってか作り話の怪談だと思われて、まともに取り合ってもらえなかった。仕事なんてしている場合じゃない。このまま駅にいたら、あの化け物が仲間を連れてやってきて僕たち人間を残らず食い殺すに違いない。
聞き分けのない先輩や同僚に苛立っていると、上司が遅れて出勤してきた。挨拶もそこそこに、昨晩書いておいた退職願を提出したが、疲れているだとか熱中症だとか言われて突き返された。
それからはあの駅に近寄らないように慎重な生活を続け、家族や友人に何度となくあの化け物の存在を警告し続けた。
結果、家族は僕がいかれてしまったという結論に至ったようで、いま僕はどこかの精神病院に閉じ込められている。
「ここから出してくれ!奴が!湿った奴らが僕を殺しに来る!この町には奴らが潜んでいるんだ!早く逃げないと、みんなあの湿った奴らに食われるぞ!」
僕の叫び声だけが、むき出しのコンクリートに反響して返ってくる。
もう、駅の音は聞こえない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。クトゥルフ神話に影響された人間が書いたホラーはいかがでしたでしょうか。読者の皆様が恐怖心や不快感を感じたのであれば大変幸いなことでございます。
ところで一つ疑問なのですが、この物語の主人公は本当に”湿った奴”に出会ったのでしょうか?
そもそも”湿った奴”はあの町に実在するのでしょうか?
真相は私にも分かりません。
最後に、幼い頃からの夢が叶って幸せに暮らしていたのに、私の気まぐれから、家族や友人に厄介者扱いされた挙句、シンプルなコンクリートの素敵な新居に引っ越されてしまった主人公の■■■■君にお詫びを申し上げます。
読者の方のなかで、もし先述の疑問の真相を知りたい方がいましたら、ぜひ彼の新居に遊びに行ってあげてください。彼は魚介類が好きなようなので、新鮮な魚などをお土産に持っていったら、感激のあまり真相を喋ってくれるかもしれません。