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1. 下車

泣いていた。

つり革が揺れている。車窓の景色は止まってくれない。情報量の多い東京の夜の街が次から次へと流れていく。視界は滲んだまま、私はただぼんやりと中吊り広告を見つめていた。

車内には、斜め向かいに背の高い茶髪の若い男が座っている他には、誰もいなかった。平日のこんな時間だ。他の車両にはいくらか人がいるのかもしれないが、ここには私たちだけ。いつもならもう少しいてもいいくらいだけど、まあ、好都合。電車で急に泣き出す女を大勢に見られなくて済む。ああ、情けないなあ。



振られた。さっき。ついさっきだ。新宿東口、JRに向かう途中、あの狭い狭い道。道幅の割に交通量が見合ってないあの歩道。






ーーーもういいんじゃないかな。僕たち。



いい人だった。2年と少し付き合ったけど、優しくて味気ない、退屈な人だった。しば犬に顔が似ていた。銀縁の細いフレームの眼鏡が、何だか似合っていた。映画と美術館、レーズンバターサンドとアメリカンコーヒーが好きだった。しかも、コーヒーにはミルクだけ入れて飲むのが好き。キャメルのコートとネイビーブルーのタートルネック、黒いスキニーに上等そうだけど少し使用感のある、きちんとした靴。今日のコーデは少しだけ気合が入ってた。私との最後のディナー。ちょっとだけいい店。私は小綺麗に盛り付けられたデザートを見つめるのに必死で、後のことは何も覚えていない。これはマカロンだ、とか、これはラズベリーソースかな、とか考えていないと、彼の言葉から意識を逸らせなかったから。

私が何だかわからない異様に甘いカクテルに口をつけた途端に、彼は、実は今日話があるんだ、と。心臓が止まった。彼は頼んだハイネケンに口さえつけずに言い放った。



JRに乗らなきゃいけなかったのに、彼と同じ中央線に乗るのがあまりにいたたまれなくて、更には情けなくて、じゃあ、私はこれで、と言って東口で手を振った。顔はこわばっていた。声も震えていただろう。まだぎりぎり、夜風の寒さのせいにできる季節だろうか。3月22日。

とにかく逆に歩いた。小走りに人と人の間をぬって、全然高くはないヒールをカツカツ言わせて、1、2回足をくじいただろうか、気がついたら、西武新宿の方に来ていて、何を考えていたのか三番線の電車に飛び乗った。どこにいく電車なのかも知らないが、ただ、誰もいない車内と、足元の温かいヒーター、やわらかい座席が今の私には必要だった。

座ったらこわばっていた肩の力を少し抜くことができた。ふとケータイを見ると23時をとうに過ぎていて、ちょっとだけ長いラインがきていて、ありがとうの文字だけ読んで、そこからはもう堰を切ったように目から雫がこぼれ落ちるだけだった。


ドアが閉まります、ご注意ください、という聞き慣れた車内アナウンス。それと同時にひとりの男が軽やかに滑り込んできて、斜め向かいにすとんと座った。身長の高い男だった。公共の場で泣いていることが後ろめたくなり、鼻をすすり手のひらで涙を拭ったが、向こうは特に気にする様子もなく背もたれに体重を預けて目を瞑っている。なんだ。ふと向かいの窓に反射する自分の顔を見てぎょっとする。化粧がぼろぼろで最悪だ。普段マスカラなんてしないのに。大の大人がなきじゃくることのなんと不格好な様。目も当てられない。ハンカチを出して目元を抑えている自分を見ると、更に涙が止まらなくなった。惨めだ。


ーーガタンッ


急に電車が停止する。私はバランスを崩して手に持っていたケータイを落とした。ケータイはするりと手から滑り落ちると、そのまま向かい側に滑って行ってしまった。


「あ」


向かいの男の足にカツンとあたり、止まる。拾いに行こうと「すみません」の「す」を発して立ち上がった瞬間、

「足痛いの」

「…え?」

「血が出てるよ。そこ」

あっけらかんというのはこういうことをいうんだな、というくらいの、第一声。不思議な距離感で話す人だった。初めて会ったにしては馴れ馴れしく、知り合いにしては遠すぎる。表情は笑ってもいないが無表情でもない。つかみどころがない。そんな男。くるぶしのあたり、ストッキングに血が滲んでいるのに気がつかなかった。かすり傷。足をくじいた時にアスファルトに擦れてしまったのだろう。


「人身事故かな」

さらっとケータイを手渡され、混乱する。知り合いじゃないよな。

「あ、ありがとうございます」

「どうも」

男は自分の座っていた場所に戻った。見た感じは大学生くらいか。でも全然普段何をしているのか全く想像ができないほど、生活感がなかった。

ややあって、車内アナウンスが機械トラブルの旨を伝える。高田馬場駅の手前まできているとのこと。

「ついてないね」

私を見るでもなく、しかし私に向かって男は言う。返事をするべきかしないべきか。無言の空白がなんとも居心地悪い。早く動かないかな。

「何駅?」

ぽつん、と言葉が放られる。なにえき? 男はケータイを見ていた。

「え?高田馬場駅ですか?」

「違うよ。最寄り。馬場で乗り換え?」

「ああ、えっと…」

言葉に詰まる。当たり前だ。西武線なんて使わない。この電車がどこにいくかすら知らない。

「この電車ってどこにいくんですかね」

「えっ」

男は驚いてケータイから顔を上げた。ここにきて初めて男の表情筋が動いた。身長の割に、驚いた顔はなんだか幼かった。

「あ、えっと、そのごめんなさい、普段西武線にならないから分からなくて」

「お姉さんどこ行ってるの」

「ええ…はは」

乾いた愛想笑い。至極真っ当な質問に、返す言葉が1つもない。私はどこにも行っていない。ただ迷っている。

「家は」

「…中野です」

男はケータイで何やら調べている。フリック操作が早い。私の倍は早い。

「メトロだ」

「は」

「メトロ。馬場で東西線乗り換え」

東京メトロのことか。数秒の誤差の後にやっとピンとくる。使ったことがない。東京に来て3年経つけど、全く。



プシュ、と扉が開く。続いて車内放送。当分動かせない為緊急措置としてドアを一時的に開けたとのこと。高田馬場駅まで歩いて5分もかからない。本日はご迷惑をおかけ致しまして誠に申し訳ございません。なるほど。終電の時間に余裕のないお客様は電車を降りるわけか。

「降りよう」

「え?」

「お姉さん、終電まであと8分。案内してあげるから急いで」

「え、あ」

腕を掴まれ、流れるように、何かから逃れるように、電車から降りた。授業をサボって抜け出した時のような、はたまた、これから二人で夜の街に冒険にでるような、分からないけど少しだけ高揚した気持ちと共に、私は一歩を踏み出した。


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