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芳と烟

作者: 春秋梅菊

 (ファン)(イェン)


 うら寂しい古廟に、いかがわしい露店が並ぶ。

 ここは天津・河西区の外れ。あちこちに租界を立て、我が物顔で振る舞う外国人も、ここにはやってこない。

 父は、二人の娘を連れてそこへ入っていった。姉妹は父の右手と左手に自分の腕を繋げて歩いている。

 年かさの娘は(マー)(ファン)といった。廟に近づくなり、彼女は嫌な予感を覚えていた。

 父がふと足を止める。片足の老人が茣蓙の上に座っていた。そばには看板らしきものが立っている。

 父は老人の耳元に口を近づけた。二人の娘には彼らの会話が聞き取れなかったものの、父が老人から銀の塊を受け取るのを見た。

 父が娘達へ向き直り、一枚の紙を差し出す。

「二人とも、ここに印を押せ」

 紙には何やら字が書いてあったが、娘達は読めない。そこで言われるまま、朱肉を小さな指につけて、印を押した。

「出かけてくるから、ここで待っていろ」

 父は虚ろな瞳でそう言った。三年前に母を亡くしてから、父は心の均衡を失い、賭博に明け暮れた。そのせいで一家は莫大な借金を抱えていたのだ。

 父はふらついた足取りで廟を出て行った。

 そのまま、帰ってこなかった。

 十歳の馬芳は、幼いながらに自分の状況を理解した。そして素早く頭をめぐらせた。

 ――父さんは私達を売ったんだわ。捨てたんだわ。

 隣にいる妹、馬烟(マーイェン)はずっと泣き続けていた。耐え難い空腹と寂しさに襲われていたのだ。

 片足の老人が黄色い歯をむき出しにして怒鳴った。

「これっ。それ以上喚くと、お前の足をむしって食ってやるからな!」

 馬芳は慌てて馬烟の口を塞ぎ「大丈夫、父さんは帰ってくるわよ」と慰めた。怯えている妹を懐に抱きながら、彼女は堅く誓った。この子を私が守らなくちゃ。

 だが、その誓いもほどなく砕かれた。

 数日もしないうちに、姉妹の買い手が現れた。片方は酒臭い髭男。もう片方は眼鏡をかけた、優しい顔つきの老紳士だった。

 彼らは、どちらも馬烟を欲しがった。母に代わって妹の面倒を見続けてきた馬芳は、衣食に関していつも妹を優先していた。そのため、見るからにみすぼらしい馬芳に比べると、馬烟はいくらかましだった。二人の客にも、そう見えたのだろう。

 馬姉妹もまた、老紳士に心惹かれた。うさんくさい髭男にはついていきたくなかった。

 人売りの老人が、仲立ちに入る。

「まあ、待ちな。どっちもちび娘をご所望らしいが、片方が売れ残るのは困る。一つきりの品物だ。くじ引きで決めようじゃねえか」

 老人は二本の棒を握り、姉妹に差し出した。

「先の赤い方を引いた奴が、こっちの爺さん行きだ」

 馬芳は震え声で抗議した。

「あたし、妹と一緒がいいわ」

「うるせえっ。とっとと引かねえか!」

 萎縮した馬芳は、二本の棒をじっと見つめた。もう天に運を任せるよりほかない。妹が及び腰になっているので、自ら進み出てくじを抜き出した。

 先端に、赤い布が巻いてあった。

「決まりだ」

 髭男は金を払うと、声を限りに泣く馬烟を抱えて廟を出て行った。妹はでたらめに叫び続けていた。

「お姉ちゃん、お父さん! お母さん!」

 老紳士は残念がったが、馬芳を見捨てることもしなかった。彼は馬芳の手を取りながら、優しく言った。

「さあ、うちへ行くとしよう」


 その日、馬芳は物乞いからお嬢様になった。

 老紳士は名を趙莫(チャオモウ)といい、もとは天津の富豪だった。遡ること十年前、義和団と外国人の乱闘が起こった際に家を焼かれ、不幸にも奥方と二人の娘を亡くしたという。

 喪失から逃れるように、彼は天津を離れた。長く外国を旅して、故郷への思いが募り帰ってきたところ、かつて自分の遊び場だった古廟へ、ふらりと立ち寄った。いかがわしい市場に変わってしまった廟をさまよううち、偶然馬姉妹の姿を見かけたのだった。趙莫は亡くなった二人の娘を思い起こし、買い取る気を起こしたという。しかし長旅で大した金も残っておらず、結局馬芳一人しか引き取れなかったのだ。

 彼は南開区の大通りに部屋を持っていた。貧しい暮らしを送ってきた馬芳には、全てが新鮮だった。家具という家具を指さして、それが何なのか尋ねる。趙莫が一つずつ答えていった。壁に掛けてあるのが時計、紫檀のテーブルの奥にあるのがソファ、天井からつり下がっているのが電灯……。

 好奇心の止まない馬芳は、ソファに座ってみた。尻がぐっと沈んでいく感触が面白く、何度も飛び跳ねてみせる。

 そのうち妹のことを思い出して、馬芳は悲しくなった。彼女は老紳士に抱きつき、懇願した。

「叔父さん、妹を買って。私達、一緒にいたい」

「よし。わかった。わしがもうひと頑張りして、必ず買い戻してやるぞ」


 髭男は馬烟を連れ、河西区の外れに向かった。そこは貧民街で、伝統的な造りの長屋が立ち並んでいる。これまで馬烟が住んでいた場所と、そう大差が無かった。

 髭男は意気揚々と長屋に入り、声を張り上げた。

「おい、土産があるぞ。みんな来てみろ」

 中庭では、華やかな恰好をした人々が扇子を手に舞ったり、伸びやかな声で歌っている。

 ここは何をするところだろう、ぽかんとする馬烟を後目に、人々が集まってくる。女の人が多かった。馬烟の顔や体をつついて、口々に言う。

「顔は悪くないね」

「体つきもまあまあよ。仕込んでやれば、それなりになるかも」

 髭男は馬烟の背後で身を屈め、励ますように両肩を叩いた。

「お前は今日から、この一座と暮らすんだ。歌を歌って稼ぐんだよ。沢山稼げれば、うまいものが食べられるし、綺麗な服も貰える。わかったな」

 それから、馬烟の新しい日々が始まった。小さい体で駆け回り、一座の皆のためにあらゆる雑用をこなす。子供だからといって、容赦は無かった。お茶を汲むのが遅れたり、歌い手の衣装に傷がついていたりすると、酷い折檻が待っていた。

 雑用の合間に、歌の稽古をした。うまく歌えなければ、また折檻。

 食事は粗末だった。朝は決まって焼餅一つと塩漬けの菜っ葉、昼夜はご飯か麺だが、彼女にまわってくるのは残り物だけ。寝床も、重ねた板の上に毛布を敷いただけの代物だ。

 馬烟を買った髭男は名を文強中(ウェンチャンチョン)といい、もとは租界をうろついていたゴロツキだった。外国人のクラブへ出入りしていた彼はそれを模倣し、中国人の女に洋風の身なりをさせ、今風の曲を歌わせた。これが大いに受け、歌の一座を作るに至ったのだ。もっとも、近頃は似たような商売が増えてきたこともあり、一時ほどの稼ぎはなくなっている。

 舞台を降りてしまえば、馬烟らの生活はそこらの貧民と大差がない。一座は伝統的な造りの長屋を間借りして、共同生活を営んでいる。皆、馬烟と同じく売られてきたり、地方で起きた戦争から逃れてきた身よりの無い人間だ。

 馬烟の日々は、貧乏を感じている暇も無いほど忙しかった。いつしか、その暮らしにも慣れてしまった。

 五年が過ぎた。

 長屋の前で、小唄を口ずさみつつ掃除をしていた馬烟のもとに、下男の身なりをした老人がやってきた。

「こちらに、馬烟という子はおりませんかな」

 馬烟はきょとんとした。

「あたしです」

 老人は驚喜して、馬烟の手をとった。

「では、あなたがお嬢様でしたか! 旦那様と上のお嬢様が、ずっとあなたを探していたのです」

 何が何やら、彼女は困惑した。

「あの……人違いじゃないですか?」

 騒ぎを聞きつけたのか、お頭の文中強が足早にやってきた。

「何事だ。おい、あんたは誰だ?」

「私は趙という方に雇われた者でして。お嬢様の妹を捜していたのです」

 おかしらは馬烟を自分の背後に隠した。

「出て行け。どこのお嬢さんか知らんが、うちとは無関係だ」

 凄んだ声で脅され、老人はあたふたと逃げ出していった。文強中が毒づく。

「ふざけた野郎だ」

 お嬢様……妹……。老人の言葉を頭で反芻するうち、馬烟ははっと思い至った。

 ――まさか、姉さん?


「本当に、見つけたのね?」

 十六歳の馬芳は、知らせを持ってきた張老人に、念を押して聞き返した。

「はい。ご自分で馬烟だと名乗りましたもので。年頃もお嬢様と同じくらいでした」

 馬芳は力が抜け、ぐったりと椅子に倒れた。離ればなれになって五年、ようやく妹を見つけたのだ。

 馬芳自身、ここ何年かは目の回るような忙しさだった。彼女を買った趙莫は、財産をなげうって教育に力を注いだ。馬芳は学校へ通い、一流の教育を受けた。中国の現状や西欧列強の横暴を知り、彼女の視野はここ数年で大きく広がった。天津は中国でも教育制度が進んでおり、近代的な知識を学ぶには事欠かない場所だった。

 その晩、趙莫が仕事から帰るのを待って、馬芳は妹の所在がわかったことを話した。

「貧民街か。そんな危険な場所へお前を行かせるわけにはいかん。わしに時間が出来るまで待ちなさい」

 趙莫は馬芳の学費を稼ぐべく、翻訳や代筆の仕事を大量に請け負っている。ゆっくり休む暇も無い。

 しかし貧民街に生きる妹のことを思うと、馬芳はいてもたってもいられなかった。

「お願い。昼間の明るい頃合いに行けばきっと大丈夫よ」

 娘を亡くした経験で、趙莫は子供に甘いところがある。馬芳の懇願を退けきれず、渋々承知した。

「仕方ない。張と一緒なら行ってもよい。ただし、早く戻ってくるんだぞ」

 翌日の昼、馬芳は張老人を伴って、河西区の外れまでやってきた。天津は中国で最も租界が多い。外国文化も次々に入り込んできたが、未だそうした影響を受けず、前近代的な生活を送っている中国人が大勢いる。

「あそこですよ。馬烟お嬢様は、歌の一座に入ってるんで」

 張老人が顎で示した先には、汚らしい長屋があった。馬芳は顔をしかめた。良い暮らしに慣れてしまい、こうした貧乏くさい光景に耐えられなくなっている。

 その時、細身の娘が、しなびた菜っ葉の入った籠を抱えて長屋に入ろうとするのが見えた。

「あっ。あの方です」

 馬芳は駆け出した。娘が扉をくぐる前に、その腕を捕まえた。

「烟! 私よ」

 相手がぎくりとして、振り向いた。馬芳をつかの間見つめ、驚きに目を見張った。

「姉さん……姉さんなの!」

「そうよ!」

 二人は手を伸ばし合った。別れてからもう五年、二人とも年頃の娘に成長している。馬芳は、妹の薄汚れた髪をなでつけながら言った。

「元気にしていた? こんなに痩せて、可哀そうに」

「平気よ」瞳を潤ませて答えた妹は、馬芳の小綺麗な身なりを見て、口元を綻ばせた。「姉さんは、お嬢様になったの?」

「大したことないわ。普通の人より少しましなだけ」

「……父さんのこと、聞いた?」

「いいえ」

 馬烟の面持ちが暗くなる。

「一昨年、死んだのよ。租界で外国人と争って」

「そうだったの」

 父のことは、余り思い出せない。悲しみも恨みも感じなかった。馬芳の心は、未来に向いていた。妹のすすけた手を握ると、思いを込めて告げた。

「ねえ、烟。ここを出ましょう。私のところで一緒に暮らすのよ」

「姉さんと?」

「そうよ。私達は姉妹なんだから」

 馬烟は首を振った。

「ここがあたしのうちなの。一座があたしの家族。あと二年もしたら、あたしも舞台で歌うの」

 断られると思っていなかった馬芳は、酷く驚いた。

「烟、よく聞いて。こんな暮らしはいけないわ。私は色んなことを勉強して、やっとわかったの。中国人は変わらなければいけないのよ。今この瞬間にも、西欧列強は中国を支配しようとしているわ」

「姉さん、急にそんなこと言われてもわからないわ。自分のことで精一杯なのに、どうして国のことなんて考えるの」

「これからの中国人には、先進的な思想が必要なのよ。あなたも教育を受けるべきだわ」

「シソウ?」妹が困惑しているのを見て、馬芳も自分の性急さを責めた。そうだわ、貧民街に暮らしていたこの子は、何も知らないのよ。

「ごめんなさいね。とにかく、私と来て。ゆっくり学んでいけばいいの」

「行かないわ」

 頑なな態度に、馬芳は苛々してきた。

「あなた、何を考えてるの。こんな場所にいたら、衣食だって不自由でしょう」

「お金なんか問題じゃないわ。あたしはただ、あたしの居場所を大切にしたいだけ」

 言い争いをしていた二人のもとへ、一座の人間が集まってきた。人相の悪い隻腕の男が、馬芳を怒鳴った。

「おい、どこのお嬢さんだ。こんな場所をうろつくもんじゃない」

 馬芳も負けじと言い返す。

「私は妹を連れ帰りに来ただけよ」

「妹? 小烟のことか?」

「この子はここにいてはいけないの。新しい中国の革命のため、進歩的な教育を受けるべき世代なのよ」

「何が革命だ! けっ」男が腕の無い袖を突き出した。「てめえらみてえな連中は好かねえ。何とか主義だの何とか運動だの、わけのわからんことを叫びながらドンパチしやがる。それで迷惑するのはわしらなんだ!」

 相手の剣幕に、馬芳もたじろいだ。近くにいた女が、わけを話してくれた。彼は孟簫(モンシャオ)といい、十年前に武昌で革命騒ぎが起きた時、争いに巻き込まれて腕を失ったのだ。

 馬烟は彼を慰めた。

「粛おじさん。落ち着いて。あたしは姉さんといかないわ。ここがあたしの家なんだから」

 孟粛は苦い顔で馬烟の頭を撫でると、奥へ引き下がった。馬芳はうなだれた。

「どうしても来ないのね」

「あたしは勉強なんか必要ない。どうせ、わかりっこないもの。姉さん、もう帰って。あなたが無事に生きているとわかっただけで、あたしは満足なの」


 馬芳は失意のまま帰宅した。

 妹も貧民街の人間も、まるで中国の現状を理解していない。趙莫は、馬芳を慰めた。

「生きていくので精一杯の人間は、学問の必要性や素晴らしさを理解出来んのじゃ。あの子はそっとしておやり。お前はお前の道を信じて進みなさい」

 養父の言葉に従い、馬芳は勉強に没頭した。迷いが無くなったのは、むしろいいことだったかもしれない。順調に進学した彼女は北立北洋大学に入り、語学と文学を専攻した。

 十九歳の時、北京で五・四運動が起こった。反帝国主義を掲げたこの運動に、若い馬芳も心を揺さぶられ、国民党への入党を決意した。実際に入党したのは、それから二年後のこと。彼女は自分の血を、侵略者達との戦いに捧げることを誓ったのだった。

 が、彼女が入党した時、国民党の内情は好ましいものではなかった。袁世凱(ユエンシーカイ)の裏切り、(ソン)(ジャオ)(レン)の死、北洋軍閥・中国共産党の台頭など、国民党の地盤を揺るがす事件が次々に起こっていたのだ。

 党内にも、仲間を売る者、外国人におもねる者、権力を利用して新しい勢力を作ろうとする者がおり、分裂と闘争の日々だった。

 馬芳に与えられた任務は、内部粛清だった。党の意にそぐわない人物を密告し、あるいは暗殺する。同じ中国人を手にかけることを、最初はためらった。しかし本部の指導が、彼女を納得させた。

 曰く、西欧列強と戦うためには中国が強国とならねばならない。強国を作るには、民衆を導く強い政府が要る。そして強い政府を作るには、まず内部の裏切り者を排除しなければならない!

 馬芳は自分が女であることを武器に、党の裏切り者へ接近した。時には語学を用い、外国人からも情報を掴んだ。彼女は一本の矢だった。党という弓が弦を引き絞り、狙いを定める。馬芳は、放たれるままに敵を穿つのだ。



 薄暗いクラブの中、二十歳の馬烟は壇上で聴衆と向かい合っていた。色あせた紫のドレスをまとい、顔には厚い化粧を施して。

 初めて壇上に立ってから、もう四年。最初の頃は、手足が震えてろくに歌えなかった。曲の途中で靴を投げつけられ、泣きながら舞台の奥へ逃げ込んだこともある。

 今も大して上手いわけではない。けれど、彼女は図太くなった。罵声が飛んでも物が飛んでも、一曲歌いきるまでは壇を降りない。ただ先輩の歌い手達に繋ぐべく、間を持たせればいいのだ。

 伴奏が流れる。肩で息を吸うと、馬烟は眼前のマイクへ声を注いだ。

 何句か歌ったところで、早くも怒鳴り声が飛んだ。

「引っ込め! 下手くそ」

「顔しか取り柄が無いなら、妓楼へ行け!」

 曲の終わり近くで、聴衆の誰かが卵を投げてきた。運悪く、それは馬烟の口元へ飛び、声を塞いだ。

 観客が爆笑する。ねばつく卵黄を拭い、なおも歌おうとしたが、横合いからおかしらの声が入った。

「烟、戻ってこい」

 喧騒の中、仕方なく壇を降りる。楽屋に行くと、先輩達が慰めの言葉をかけてくれた。

 結局、その日の出番はもう無かった。

 夜半。馬烟がクラブの裏口へ出ると、文強中を見かけた。眼鏡をかけた青年と、何やら話し込んでいる。馬烟は、近寄って声をかけた。

「こんばんは」

「おお、烟。ちょうどいい。お前のファンが来ていたところだ」

 馬烟はきょとんとした。文強中の横にいた青年が、僅かに顔を赤らめる。

「初めまして。僕は(リウ)小康(シャオカン)。君の歌、聞いたよ」

「あの、どうも」馬烟も挨拶を返したが、今日の失態を思い出して恥ずかしくなった。「みっともないところをお見せしてしまって」

 劉小康は、包み込むような笑みで言った。

「僕は、好きだよ。君の歌」

「え……」

「というより、めげないで頑張ってる君の姿が好きなのかな」

 彼は照れるのをごまかすように。少し顔を背けた。

 馬烟は胸が高鳴った。あたしの歌を好きになってくれる人がいたなんて。

「また、歌うんだろう?」

 馬烟は小さく頷いた。頬が赤くなっているのがわかる。ええ、歌うわ。あなたが聞いてくれるなら、何度でも!

 それから、彼女は劉小康のきちんとした身なりを見て、訝しげに聞いた。

「あなた真面目そうなのに、あんなクラブへ出入りしてるの?」

 クラブの客の大半は、大した教養のない低俗な人間ばかりだ。劉小康のような客は珍しかった。

「出入りってほどじゃないよ。まだ三回目だ」彼は居心地悪そうに肩を縮めた。「ちょっと訳ありでね。こちらの文強中さんに部屋を借りてるんだ」

「劉君は大学も出てる。こういう人物に気に入って貰えれば、お前も箔がつくだろう」

 文強中がつけ加えると、劉小康は手を振った。

「大したことはありませんよ。僕ももとは貧民街の人間なんです。ただあなた達よりほんの少し本を読んだだけ、出自の点では変わりありません」

「ご謙遜なさらないで。あたし達、字だってろくに読めないんですから」

「教養よりも、大事なのはその人の心だよ。君のように逆境でもめげない人が、次の時代を担うんだ」

 劉小康の言葉は姉にも似た匂いがあったものの、姉と違って高圧的ではなかった。馬烟は敬服の念を募らせた。

「次はいつ壇上に立つんだい」

「明後日よ」

 劉小康は誠意に満ちた瞳で馬烟を見つめた。

「必ず行くよ」


 翌々日はあっという間に来た。夜が待ち遠しい。馬烟はこの二日、寸暇を惜しんで歌の稽古に励んだ。

 買い出しの帰りのことだった。貧民街へ続く通りを歩いていると、灰色のコートをまとい、帽子を深く被った女が、きびきびした足取りで近づいて馬烟を呼び止めた。

「待ちなさい」ぎくりとした馬烟が口を開くより先に、相手は帽子のつばを持ち上げた。「私よ、烟」

「姉さん……」

 姉に会うのは、実に六年ぶりだった。時折消息を耳にしていたが、こうして面と向かって話すことは無かった。何となく嫌な予感がして、及び腰になりながら尋ねた。

「何の用?」

「今更戻れなんて言わないわ。私達には、それぞれの道があるんだもの」馬芳は口調もきびきびとしていた。「烟、劉小康という男を知ってるわね?」

「ええ。彼が何か?」

「あの男から離れなさい。危険人物なの」

 馬烟は不愉快になった。

「六年前と同じね。姉さんは、どうしてそう変な話ばかり持ち込んでくるの」

「何もおかしなことは無いわ。あの劉小康は共産党員、私達国民党の敵なのよ」

「何が国民党、共産党よ。あたしはそんなの知らないし、知りたくもない! 彼が何をしたっていうの?」

「あの男は巧みな舌で、何人もの仲間を共産主義へ転向させたわ。放っておけば、大変なことになる。貧民街へ逃げ込んだのも身を隠すため。そこでお願いがあるのよ。あなた、知り合いならあの男を私達の前へおびき出して。もちろんただとは言わない。相応のお礼はするわ」

「どうする気なの?」

 馬芳は一息置くと、決意の滲む声で答えた。

「党の敵は逮捕するのよ」

「ふざけないで。あの人はあたしの歌を好きだと言ってくれたの。どうして引き渡さなきゃいけないのよ!」

「あの男は進歩的な教育を受けた人間よ。あなたの歌に興味を持ったというのは、貧民街へ紛れ込む口実だわ」

「違う、違うわ! そんなこと信じない」

「あなたが協力しないなら、それでもいいのよ。もうあの男の居所は掴んでる。事を穏便に済ませたかったけど、強行的な手段を使うしかないわね」

 馬烟は怒りで体中が震えた。

「姉さん、人を追いかけ回すのが仕事になったの。それが進歩なの?」

「わかって。内部の敵を倒すことは、強い政府を作り、ひいては帝国主義を打倒するために必要なのよ」

「前に孟おじさんが言った通りね。あなた達が変なことをするから、外国人を怒らせるんだわ。そのせいで争いが起こって、貧しい人達が迷惑するのよ!」

 ぴしりと、張り手が飛んだ。

「何もわかっていないくせに、大口を叩かないで!」

 馬芳のその一言で、馬烟も感情を爆発させた。打たれた頬に手をあてながら、怒鳴り返した。

「わからないわよ! もうずっと前から、姉さんの考えてることなんかわからない!」

 姉は少し傷ついた表情になった。

「六年前、私と来れば良かったんだわ。そうすれば、もっと世の中の真実を知ることが出来たのよ」

 馬烟は顔を背けた。姉の言葉の意味が、本当にわからないのだ。真実って何なのだろう。

 同じ時代、同じ天津にいるのに、二人を隔てる壁はあまりにも大きかった。お互いを憎み合っているわけでもない。けれど、理解することも出来ない。馬烟は、姉が自分を認めてくれないことも、姉の生き様がわからないことも悲しかった。姉も同じ気持ちなのだろうか。

 馬芳はもう何も言わず、足早に立ち去った。

 自分もこうしてはいられない。馬烟は文強中を探し、劉小康に迫る危険を訴えた。が、おかしらは馬烟の言葉を本気にしなかった。

「キョウサントウだかコクミントウだが、むにゃむにゃ言われてもわしにはわからんよ。なに、あの劉君は賢いんだから、危険があっても自分で対処出来る。それより、もう夜が近い。早く楽屋準備をしろ」

 不安を抱えたまま、馬烟は壇上に立った。とても歌えるような気分ではなかったが、おかしらの言葉を思い出し、どうにか心を落ち着かせる。

 が、聴衆を軽く見回した瞬間、思わず心臓が止まりかけた。

 劉小康がいる。ふと目が合うと、彼は小さく手を振ってきた。馬烟の不安は途端に増大した。

 伴奏が始まっても、馬烟は呆然としていた。早く歌え、と野次に急かされて、彼女はようやく我に返った。気の抜けた声で、ぼそぼそ歌い出す。

 耳を裂くような銃声が、室内にこだました。

「誰も動くな!」

 声と共に、黒のコートに身を包んだ人間がなだれ込んでくる。その中には姉もいた。馬烟は思わず劉小康を見やった。

 馬芳が彼女の視線を追う。

「あそこよ!」

 劉小康は既に逃げ出そうとしていた。国民党員が銃を天井へ放つと、人々はその場に屈み込んだ。一人逃げていく劉小康の背に、幾つもの銃が向けられる。

 馬烟は無我夢中で壇を降りた。我が身の危険も忘れ、銃口と劉小康の間に体をさらけ出した。

 なまぬるい痛みが、胸を貫く。視界が大きく揺れ――全身から力が抜け、気がつくと馬烟は床に転がっていた。

 それから、彼女は見た。裏口の方から五、六人の男達が入ってきて、国民党員達に次々と発砲するのを。劉小康の仲間らしい。国民党員も応戦した。銃声と悲鳴がひっきりなしに続く。床に屈んでいた観客も、這うように入り口へ逃れていった。

 劉小康はしのびない表情で馬烟にちらっと目をくれたが、すぐに仲間と共に裏口へ消えていった。国民党員がその後を追う。

 沢山の足音が消えた途端、周囲は静寂に満ちた。

 馬烟の意識は薄れ始めていた。手足が麻痺して、力が行き届かない。

 ふと、名前を呼ばれた気がして、馬烟はのろのろと首を動かした。そして、驚きと悲しみで体が震えた。

 入り口近くに、姉が倒れている。体から滲み出した血が、床へ薄く広がっていた。銃を取り落とした手を、差し伸べるように馬烟の方へ伸ばしていた。

「ねえ……さん……」

 馬烟は必死に手を伸ばした。

 今度は置いていかないで。あたしを近くにいさせて。もう、こうしてお互いを理解できないまま、心が離れてしまわないように……。

 伸びきった手が力を失い、床に落ちた。 


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