8. 再会(完結)
いつの間にか寝てしまったらしい。
昨日は人魚を移動させるためにいろいろと慣れないことをしたから、自分が思ってるより疲れていたに違いない。
布団もなしにそのまま床に突っ伏して寝てしまったので、身体が冷えている。
壁にかけてあるカレンダーを見て日付を確かめようとしても、今日が平日なのか、休日なのかすら分からなくなっていた。
月めくりカレンダーの写真の部分には、顔が映っている、はて、誰だっただろうか。
最後にカレンダーを見たのは、あの日の前だ。
あの日は、同僚の月島に相談したいことがあるといわれて、彼の家にいって、人魚を見て、それから……頭の中に靄がかかったような違和感のせいで、それ以上思い出すことができない。
時計は昼の十二時に差しかかろうとしていた。
一瞬、仕事に遅れてしまったと思ったが、もう何日も再科研にいってないことを思い出して苦笑する。
そうだ、人魚だ。わたしは水槽に目を向けた。
少し狭そうではあるものの、人魚はゆらゆらと水槽の中を泳いでいた。大型の熱帯魚でも環境が変わると過敏になって、病気になってしまう個体もいると聞いていたので心配していたが、見ている限り人魚は月島の研究棟にいたころと比べて特に目立った変化は見られない。
それからわたしは、暇さえあれば人魚を眺めて暮らした。
家の外に出るのは人魚の餌である鮭の切り身を買い求める時だけになり、それ以外の時間は、ただひたすら水槽の前に座り込んで、気持ちよさそうに揺れる彼女を眺めていた。
そうしているうちに、わたしは食事すら食べることを忘れている日もあって、だんだんと体重は落ち、痩せこけていった。髪や髭も伸び放題で、部屋には常に埃が舞うようになり、トイレにいこうとして何かを踏んだ。
足を上げると、見たこともない小さな黒い虫が大量に発生していた。
洗面所で曇った鏡を見ると、みすぼらしい男が映っている。血走って落ち窪んだ目が、不摂生な生活を物語っている。「まるで月島みたいじゃないか」といったつもりが、喉が掠れていてちゃんと声が出たのか分からない。
それでもわたしは、水槽の前から離れることができなかった。
しばらくして、頻繁にインターホンが鳴るようになった。同時に外からドアを叩く音や、怒気を含んだ声も聞こえてきたが、再科研の人間かもしれないと思い、すべて無視した。
わたしは毎晩、人魚を眺めながら寝ることにした。
彼女のそばにいなければすっかり安心できなくなってしまった。
人魚のことが少し頭から離れるだけで、月島と梅原の幻影がわたしの隙を突いてとり入ろうとするのだ。思えば、月島もわたしと同じような幻影に悩まされていたのだろうか。研究設備を手放してしまった今、それが人魚に起因するものなのかどうかは知る由もないが。
わたしは月島のように、人魚を増やして売りさばく野心などは持ち合わせていない。自分が彼女と一緒にひっそりと生きていられれば、それだけで満足だった。
梅原の死体はもう見つかったのだろうか。水槽を設置した時にテレビも捨ててしまったので、世間のニュースがわたしの耳に入る導線は完全に失われてしまった。
警察が来る気配もないということは、案外まだ見つかっていないのかもしれない。わたしの周りに住んでいるやつらだって、わたしが自宅で人魚を飼っていることに気づかないじゃないか。
人間という生き物は、自分に関心のあることにしか興味を向けないものだ。それに、梅原は月島の家で死んでいるのだから、もし死体が見つかったとしても一番に疑うべきなのは月島のはずだ。
自宅に籠るようになって一ヶ月近くが経った頃、そろそろ水槽の水を替えなければならないことに気づいて、わたしは準備を開始した。準備といっても、水を適度に抜いて入れるという動作を繰り返すだけなのだが。
汚れた水を抜いていると、ふいに人魚がガラス越しにわたしを見ているような気がした。
気になってわたしが顔を近づけると、彼女のほうもぐっと顔を寄せる……気のせいではない。
目が合うだけで、わたしはどうしようもないほど人魚のことが愛おしくなって、彼女のその艶やか肌に触れたい衝動に駆られていた。そうだ、毎日わたしが餌をやって、四六時中一緒にいる、精一杯の愛情を注いでいるのだから、彼女がそれを肯定的に受け止めていても何らおかしな話ではない。
むしろ、彼女の方がわたしに触れてみたいと思っていたっておかしくない。わたしがそちら側にいっても笑顔で受け入れてくれるに違いない。
今まで何度、彼女を抱きしめたい衝動を抑え込んできただろうか。
それは、わたしの中でまだ僅かに、人魚と出会うまでの人間らしさのようなものが残っていたからかもしれない。
月島もいない今となっては、誰に遠慮する必要もない。
わたしの中の止まっていた人間性が、雄としての機能が再稼働をはじめたらしく、水を入れ替える合間に髭を剃り、髪も洗って、わたしは彼女を抱くにあたり最低限、男としての清涼感をとり戻そうと努めた。
ずっと着ていた服を脱ぎ捨て全裸になると、部屋の隅で口から内容物を溢れさせているゴミ箱に向かって無造作に放り投げ、浴室に駆け込んで一ヶ月ぶりのシャワーを浴びる。
身体を洗って浴室を出ると、わたしは次に部屋を探索しはじめた。水に潜った際に、彼女の表情がぼやけて見えづらかったりしたら感激も半減してしまう。
再科研の共同研究でブラジルにいったときに持参したゴーグルがあったのを思い出したのだ。
そして、クローゼットの中の着古した服を入れている引き出しの中にゴーグルを見つけると装着し、準備が整ったことを確認する。
水が溜まりきった水槽の中で、人魚は依然、ガラス越しにわたしを見つめている。
一人掛けのソファを持ってきて足場にすると、わたしはプールサイドに佇む子どものように、バランスをとって水槽の縁に座り、膝から下だけを水の中に入れる。
心地よい冷たさが足先をとおって身体に伝わってくるのが分かる。
何かが足に触れる。まさか、そのまさかだった。人魚の美しい手が、わたしのを興味深げに撫でている。指から踵、踵からふくらはぎへ、肌触りのよい手が這ってくる。
わたしは生まれてはじめて恍惚を覚えた。
そして、わたしは意を決して水の中に入った。
自分が水槽に入ることになろうとは思いもしなかったが、これで、やっと彼女とひとつになることができる。人魚はずっとわたしの目と鼻の先をゆらゆらと漂っていた。その美しい姿を間近で見て、わたしは改めて子どものように胸が躍った。
人魚はずっとわたしの目と鼻の先をゆらゆらと漂っていたので、手を伸ばしてみたが、あと一歩のところで届かない。
人魚と目が合う。美しい瑠璃色の瞳が、わたしを見つめる。
次の瞬間、差し込む光の加減なのか、人魚の鼻先から下の部分が暗転して見えなくなる。
人魚は相変わらずわたしを見ている。
わたしは、顔が見えるように近づこうと、水を掻いて身体を近づけた。
ようやく顔が見えたと思うと同時に、人魚が笑った。
美しい笑顔だった。
わたしは自分を見て彼女が微笑んでくれていることに感激した。
もっと近づかなければ……わたしはいよいよ彼女を抱きしめようと、より距離を縮めるために水を掻いた。そんなわたしを見つめて、人魚は笑顔のまま口を開いた。
次の瞬間、わたしはなぜか、男と目を合わせていた。
それは、消えたはずの月島だった。
あまりにあっけない再会に、わたしはしばし呆然と、変わり果てた月島を見つめていた。
月島がいたのは、何もかもを丸呑みにしてしまいそうなほど大きく開いた人魚の口の中だった。水中で腐ってぶよぶよになっても、濁りきった瞳はわたしに何かを訴えかけるように虚空を見つめている。
そんなわたしを見て人魚は笑っていた。ありえないと分かっていても、水を伝って声が聞こえてくる、それはどことなく歌のようだった。
わたしは混乱した。恐ろしいはずなのに、その歌を聞いていると、心が落ち着くのだ。
そうか……わたしは理解した。
その歌で、お前はわたしをここまで誘ったのか。そして、月島も……。
一体、いつから無意識にこの歌を聴かされていたのだろう。
ふと、それまでの日常が恋しくなり、ガラス越しに部屋の中に顔を向ける。
壁に目をやると、月めくりカレンダーの写真の中で、梅原がにやにやと笑っている。
恐ろしい幻影を見せていたのも、危機を感じて梅原を殺めさせたのも……。
それを見て、わたしはようやく人魚に諦めの表情を向ける。
すると、人魚は笑うのやめ、唇をめくれ上がらせた。
ああ、なんて生物を再生させてしまったのだ。
耳をつんざくような梅原の笑い声が、水中にも関わらず聞こえてくる。人魚は、口元に力を入れて、思い切り月島を噴き出した。
首から上が切断された月島の頭部が、回転しながらわたしの横をかすめていく。
そして、人魚はゆっくりと、わたしに向かって近づいてくる。
その口元には、銀色の鋭利な歯がびっしりと生えていた。
了
『ある日、人魚を復活させてしまったら──、ついつい自分のモノにしたくなり。』
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