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銀色の牙  作者:
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7. 幻影

 研究棟のドアを勢いよく開くと、梅原は表情はそのままに、首を九十度曲げてわたしの方を向く。


「お、おい……。何だ、これ」


 わたしは無言で梅原の方に向かって歩いていく。


「み、見ろ、すごいぞ。月島のやつ、何をやっていたんだ……?」


 わたしは答えない。


「おい、お前。何を持って……」

 あとずさろうとした梅川を、わたしは逃さなかった。全身の筋肉に力を入れると一気に距離を詰め、体重をかけて梅原に寄りかかる。梅原は一瞬驚いた顔をすると、すぐその表情に苦悶の色を上塗りする。


 ほどなくして、一九〇センチの巨体が冷たいアスファルトに沈んだ。

 ぴくぴくと小刻みに動く梅原をしばらく眺めていると、やらなければならないことを思い出し、わたしは手と包丁にべっとりついた血糊を拭こうともせず、自分でも驚くほど冷静なままリビングに戻った。


 わたしは汚れたままキッチンまわりを捜索し、人魚の餌になる食べ物を探した。月島が保存していたのだろう、すぐに冷凍庫の中に大量の鮭の切り身を発見し、またキッチンの引き出しからも大量の乾燥わかめを発見すると、わたしは喜びのあまり小躍りした。


 鮭をレンジで解凍しながら、わかめは無造作にボウルにあけて水で戻す。何度か同じ作業を繰り返して、明らかに一キロ以上になったところで、皿がないことに気づいたので仕方なくビニール袋にわかめと鮭を入れて研究棟に戻った。


 梅原はもう動かなかった。

 水槽の中から、人魚がもの珍しそうに梅原を見つめている。


 床には大きな血溜まりができており、わたしは包丁を抜かない方が流れる血の量が少なくてよかったかもしれないと、少し後悔した。


 月島の研究スペースから椅子を借りて足場にし、水槽の天版を外して、持ってきたビニール袋の中のわかめと鮭を水槽の中に放り込んだ。


 椅子を降りて観察すると、人魚は餌を無視したままずっと梅原の死体に見入っていた。

 わたしは胸がカッと熱くなるのを感じた。


 人魚がわたしの作った餌よりも、梅原の死体の方に関心があるということに嫉妬していたのだ。


 人魚の様子を見て、わたしはしぶしぶ梅原の死体を片づけることにした。片づけるといっても、人魚の視界に入らない場所まで死体を移動させるだけのつもりだったが、梅原の巨躯は想像以上に重く、かなりの重労働だった。


 よくサスペンスドラマで死体の足を持って引きずって移動させるシーンがあるが、あんなに軽々いくものではない。研究室の隅に死体を移動し終えたときには、シャツが汗でびっしょりと濡れて身体に貼り付いていた。


 水槽の前に戻ると興味の対象を失ったためか、人魚はようやく鮭とわかめを掴んで交互に口に運んでいた。がっついて美味しそうに食べているという感じではないが、これでひとまず安心だ。


 さて、どうしよう。

 わたしは人魚の安否ばかりを気遣って、自分のことを何ひとつ考えていなかった。自分がやってしまったことに対して、そろそろ後悔や自責の念、罪悪感といったいろいろな感情が押し寄せてきてもいいのではないかと思ったのだが、思いに反してわたしの心は冷水を浴びせられたように冷え切っていた。


 何も感じないわけではない、ああ、まずいことをしたな、とは思うのに、水槽の中の人魚を見ているだけで、だんだんどうでもよくなってしまうのだ。


 月島も同じような経験をしたのだろうか、だとしたら、彼は人魚に魅せられて、最後はどこに行き着いたのだろう。


 腕時計を見ると、再科研を出てから三時間近くになろうとしていた。


 月島は未だに見つからず、梅原も死んでしまったことで、わたしはここから人魚を移動させる必要があると考え始めていた。


 今日はまだ梅原が再科研に戻らないとしても、月島宅でわたしも含めて話が長くなっていると考えれば、そこまで怪しむ者はいないかもしれない。だが、翌日以降は別だ。遅かれ早かれ、梅原の扱いは行方不明者になり、月島宅へ向かったのを最後に消息が途絶えたという話になる。


 そう考えると、いつまでもここにいるのは賢い判断とはいえない。


 それに、昼に社員食堂で女子社員たちが話していた、この家の住宅ローンの返済が滞っているという件も懸念すべきだ。真偽のほどは不明にせよ、そんな不安材料を抱えたままここで人魚の研究を続けることなどできるはずがない。


 何より、人魚のためとはいえ梅原を刺し殺してしまったわたしは、もう再科研にも戻れない。

 前に進むしかなくなったのだ。


 わたしはズボンのポケットから携帯をとり出した。




 リビングの窓から外を見て、夜になったのを確認してわたしは行動を開始した。

 月島宅を出て、携帯のマップを頼りに夜道を足早に歩き、目的地へ向かう。


 もしわたし一人だったら、体長二メートル近い人魚を移動させるなどできるはずもなく、間違いなく途方に暮れただろう。だが、月島は違ったらしい。もし人魚を研究棟から移動させなければならなくなったときの対応について、資料に詳細に記述を残してくれていた。


 目的の場所には、三分ほどで到着した。

 月島の家から一番近くにある駐車場。住宅地だけあって、この時間になるとほとんどのスペースに車が停まっている。


 その中でも、わたしの目的は一番奥に停めてある活魚運搬車と呼ばれる車だった。見た目はトラックだが、本来は業者が魚を生きた状態で、鮮度を保ったまま移動させるために利用されるものらしい。


 月島はこれを利用して人魚を移動させることを思いついたのだ。

 この活魚車は軽タイプだったが、魚を窒息させないための酸素の供給はもちろん、ろ過、水流、水温調節もできるらしい。わたしが見ても、人魚一匹であれば運搬スペースの広さも申し分ない。


 とはいえ、これだけでも相当な金がかかっているはずだ。

 恐らく月島は、住宅ローンよりも人魚を失うリスク回避に対して投資していたに違いない。


 持ってきたキーで乗り込むとエンジンをかけ、来た道を戻った。月島の家の前に活魚車を停めて、水を入れている間に研究棟に向かい、今度は人魚側の準備にとりかかる。


 研究棟に戻ると、水槽の水は半分近く抜けていて、人魚は虚ろな目をしたまま死んだように動かなくなっていた。一瞬、本当に死んでいるのではないかと思って心臓が大きく脈打ったものの、まれに尾鰭がゆったりと揺れているので、わたしは安心して大きく息を吐いた。


「眠ったな……」

 分量を間違っていたらと思うと寒気がしたが、月島が用意していた魚用の麻酔薬が効いているらしい。この充実した研究設備を手放すのは惜しかったが、これも人魚を守るためだ。月島が戻ってきたら、納得してくれるはずだと自分に言い聞かせる。


 ほとんど水が抜けたところで、わたしは再度水槽の天版を外すと中に入り、いよいよ人魚の移動にとりかかった。


 横たわる人魚の玉虫色の肌に何度も心を奪われそうになりながらも、わたしは感情を押し殺して作業に集中した。


 資料にも記載があったのだが、驚いたのは人魚の軽さだった。

 わたしより体長が大きいにもかかわらず、二〇キロ程度の重さしかないと書かれていて半信半疑だったのが、実際に抱きかかえてみると驚くほど楽に持ち上げることができた。


 人魚を抱えた状態で水槽から出ると、担架の上に寝かせ、何枚もの濡れたタオルで覆って、そのまま担架を押して外に向かう。途中いくつもの段差に四苦八苦したが、何とか玄関まで担架を移動させることができた。


 活魚車の水槽には半分ほど水が溜まっていた。これだけあれば十分だ。わたしは周りを見て人がいないのを確認してから、人魚を抱え、夜の闇に乗じて外に繰り出した。コンテナに上がり、水槽に人魚を放すと、すぐに運転席に移動する。


 わたしは活魚車を走らせて、ようやく月島の家をあとにした。


 しばらく夜道を走っていると、わたしはだんだんと人魚のことが気になって気になって仕方なくなり、平常を保っているのが辛くなってきた。


 それまで何も感じなかったのに、急に薬が切れたように、これまで心の底に沈んでいた不安が一気に押し寄せてきて、わたしを押しつぶそうとする。


 車の中だというのに、急に寒さを感じて、歯の根ががちがちと音を立てて止まなくなる。


「そんな状態で、これからどこに行くつもりだ?」

 月島が助手席から話しかけてくる。


 前を向いているときは横に気配を感じるのに、顔を向けると誰もいない。


 だが、声はたしかに月島だ。


「死体は、あのままでよかったのか?」

 今度は梅原の声だ。わたしは恐怖のあまり震えながら運転を続ける。


「すぐに死臭が漂いはじめるぞ」

「そうなったら、おれの死体はすぐに見つかるな」


 耳元で、嬉しそうに梅原が囁く。


「おれも、きみが殺したことにされるんじゃないか?」

 月島が心配そうな声を上げる。


「人魚を抱えたまま、逃げれるとでも?」

「こいつは自宅に向かうつもりさ」

「自宅に人魚を匿って、その後のことはその時に考えればいいと思ってるんだ」


 わたしは絶叫した。思い切りアクセルを踏み込んで、一分一秒でも早く自宅に着くことを祈った。人魚を匿ったら、その後のことはその時に考えればいい。


 それからも車中で月島と梅原の会話は続いて、わたしは発狂しそうになりながらも何とか運転をこなした。三十分ほど走ったところで、ようやく自宅の前に着いて活魚車を停める。


 年季の入ったマンションは月島の自宅のあとではすべての点で見劣りするのは否めない。唯一の救いはわたしの部屋が一階だったことだろう、上層だったら人魚を運び入れるのにさらに手間がかかったに違いない。


 転げ落ちるように車を出ると、すぐにコンテナに上がり水槽の中を確認する。


 人魚は、ほとんど動かずに水面をゆらゆらと漂っていた。麻酔がまだ完全に切れていないようだったので、鎮静剤を使う必要はなさそうだ。


 先に月島宅から持ってきた折りたたみ式の水槽のパーツを自宅に運び入れる。月島の研究棟の水槽よりは手狭になるが、それでも組み立てた水槽はわたしの部屋の三分の一を埋めるほどの大きさで、排水設備などもちろんないため、今後は水の入れ替えなどについても考慮せねばならなかった。


 水槽を設置したがために行き場を失った家具は、この際思い切って処分することにした。人魚のためと思えばわたしは一向に構わなかった。


 風呂場からホースを延長して、水槽に水が三分の一ほど溜まった時点で水質を調整して、わたしは再度コンテナから人魚を抱え上げ、人がいないの確認して慎重に自室に連れ込み、水槽の中に寝かせた。


 遂にわたしは人魚の移動をやってのけた。


 あの危険な月島の自宅から、わたしの人魚を救いだしたのだ。

 何ともいえない高揚感に包み込まれ、わたしは目を閉じてぶるぶると身体を震わせる。


 その頃になると、月島と梅原の幻影の気配も消え去っていた。


 わたしは水槽の中で虚ろな表情でいる人魚に目を向けた。瞳だけを動かしながら、わたしの部屋を不思議そうに眺めている。


 気がつくと、わたしは水槽のガラスにへばりついていた。


 月島はいなくなり、梅原もこの世を去った。

 彼女の存在を知るのはこの世でわたしだけになった。


 彼女はわたしのものになった。


丁寧な文章を心がけていますが、

誤字脱字などございましたらご了承ください。

※ご連絡いただければ訂正いたします!

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