6. 倫理の糸
入り組んだ道ではないため、問題なく十分ほどで月島の自宅前に着くことができた。
車を降りて家の前までいき、とりあえずインターホンを鳴らしてみたものの、返答はない。
このとき、ふとわたしのなかに疑問が浮かんだ。
このインターホンは、あとから増築した研究棟まで音が飛ぶようになっているのだろうか? もしかすると月島は何らかの理由で研究棟のなかにいて、外からの音がとどいてないのかもしれない。
わたしはインターホンの隣に設置されている端末のフタを開け、月島に教えてもらった暗証番号を入力し、セキュリティを解除する。
前に訪れたときと同じ、鍵の外れる音が聞こえるのを確認して家に上がり、研究棟へ向かう。
「月島、わたしだ。いるのか?」
外から声をかけてみるものの、反応はない。わたしは研究棟のセキュリティも解除して、ドアを開ける。
中は、昨日と同じ暗闇で何も見えない。
壁伝いに歩いてスイッチを探し、電気をつける。
明かりが照らし出した空間に月島の姿はない。わたしはため息をついた。一体どこへ行ってしまったのだろうか。
わたしの脳裏に、あの日、別れ際に虚ろな表情で立ち尽くす月島の姿が浮かび上がってくる。中の人魚をじっと見つめて、何を思っていたのだろう。
ずっと考えていても仕方ない、次は人魚だ。わたしは気をとり直すと一番奥の水槽のそばに駆け寄り、人魚の様子を伺った。人魚は先日と変わらず水槽の中に佇んでいたが、心なしか表情が暗く、先日よりぐったりしている気がする。
もしかすると、餌を与えられていないのかもしれない。
わたしと別れた直後に月島が消息を絶ったのだとしたら、三日の間、何も食べていないということになる。
これ以上人魚を衰弱させるのはまずい。今は彼女だけがわたしの希望なのだ。わたしは持ってきた自分のカバンから、月島が作った人魚に関する資料をとり出すと素早く斜め読みして、人魚の食べるものについて記載のあるページを探し出し、見つけると手を止めて内容を確認する。
資料によれば、月島はどうやら人魚の餌として通常の魚介類や海藻を与えていたらしい。一回につき一キロ、なかなか量にもかかわらず、奥の研究用スペースを除いてみたが食料を保存している気配はない。ということは、おそらくだが家の中にあるのだろう。
他人の家の冷蔵庫を覗くことに後ろめたさはないといえば嘘になるが、人魚のためだ、背に腹は代えられない。
わたしは研究棟を出ると、裏口から月島の自宅に入りなおす。
入ってすぐにキッチンなので冷蔵庫はすぐに見つかった。扉を開けようとすると、
「ごめんください」
その声を聞いた瞬間、わたしは底知れぬ恐怖に心臓をわしづかみにされ、びたりと全身の動きを止めた。
声の主は梅原だった。
わたしとしたことが人魚に夢中で、あとから自分も様子を見に行くといった梅原のことをすっかり失念してしまっていたのだ。
「どうして鍵が開いているんだ?」
聞こえてくる声の大きさから察するに、梅原は玄関にいるらしい。
月島がいるか確認したら出ていくつもりだったので鍵を閉めずにいたのだが、梅原が入ってくるなんていくらなんでも計算外だ。だいたい普通はインターホンを鳴らすだろう。鍵が開いているからといって、いきなり玄関のドアを開けようとするなんて非常識極まりない、どういう神経をしてるんだ。
いや、待てよ。
もしかすると梅原はインターホンを鳴らしたのかもしれない。わたしは研究棟の方にいて、インターホンの音が聞こえなかったのではないだろうか。ここにきたときにわたしが感じた疑問が、最悪の形で的中してしまったのではなかろうか。
やり場のない怒りがわたしのなかでふつふつと温度を上げる。
「おーい。誰もいないのかぁ」
落ち着け。どうやって梅原をやりすごすのか考えなければ……。
あえてこちらから姿を見せるのはどうだろう。自分もここに着いてインターホンを鳴らしたが反応がない、ダメ元でドアノブに手をかけてみたら鍵が開いていたので、月島が中で倒れてるんじゃないかと心配になって家に入り探していた、といった具合で。
……いや、だめだ。梅原はそんな言い訳が通用する相手ではない。自分が家に入ったことは正当化した上で、わたしを不法侵入者として糾弾するに違いない。再科研でどんな噂を撒かれるか想像するだに恐ろしい。
いつの間にか額には脂汗が滲んでいる。
玄関の方から布を擦るような音が聞こえてくる。どうやら梅原は玄関に入るだけでは飽き足らず、靴を脱いで上がってくるつもりらしい。廊下を歩いている足音がゆっくりと近づいてくるのを感じて、わたしはカウンターキッチンの死角に身をひそめ、息を殺した。
次の瞬間、リビングのドアが乱暴に開いて、梅原の荒い息遣いが聞こえる。
気配だけで同じ空間にいることがわたしには分かる。見つからないように極限まで小さくなって祈るものの、恐怖で胸の鼓動が激しくなり、胃液が逆流して今にも吐きそうになって顔をしかめる。
「いないかぁ」
ばん、という音とともにドアが閉じて、安堵が訪れたと思ったのもつかの間、すぐ思い直したようにドアは開き直して、今度ははっきりと強い意志のようなものを持ってリビングに足を踏み入れる音がする。
そうして、わたしと梅原がカウンターキッチンを隔てて直線的な距離で数十センチまで近づいたとき、梅原がリビングに足を踏み入れた目的が分かり、わたしの緊張は極限に達した。
「ここか」
そういって梅原は裏口のドアを開けて出ていった。
わたしは今にも叫びだしそうな気持ちを精神力だけで抑え込み、具体的かつ合理的にこの状況を脱する方法を求め、頭をフル回転させた。
梅原は月島が自宅を増築したということを知っているのだ。ここまで来たのだからそれも確かめていくつもりだ。まずい、わたしが不法侵入していることは百歩譲ってバレてもいい、だが人魚は、彼女だけは絶対に守らなければ……。
梅原に人魚の存在を知られることだけは何としても避けなければならない。
どう考えても今となっては人魚の存在が梅原にバレることは逃れられないと分かると、わたしは頭を抱えて唸った。そして、わたしの人魚が梅原に乱暴されている様子を想像したとき、ギリギリのところで持ち堪えていたわたしの中の倫理の糸がぷつりと切れた。
人としての感情が退いて、すーっと心が冷えていくのを感じると、わたしはキッチンの引き出しを無造作に開け、目に入ったそれを自然と手にとっていた。
わたしは立ち上がると、気づかれないよう、それでいて素早く梅原のあとを追った。
裏口を出るとすでにそこには梅原の姿はなく、研究棟のドアが半開きになっている。隙間から中を覗くと、人魚の水槽の前で驚愕の表情を浮かべて立ちすくむ梅原の姿があった。
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