4. 夢と失踪
「本気でいってるのか?」
「もちろん、人魚の量産に成功したら……だが。きみだって男だろう。あの人魚の透きとおるような美しさの価値が分からないなんてことはないよな」
わたしは、すぐそこにいるにもかかわらず、座ったまま人魚の身体を想像した。時間をかけて凍らせた純氷のようなあの身体、程よく膨らんだ胸に、くびれた腰まわり、何より、あの目も眩むほどの美しさ……あれを直視し続けて、ずっと理性を保てる男などいないはずだ。
「ほ、本当に、クローンを作製したら、あの人魚をわたしにもくれるのか?」
「ああ、約束する」
「分かった……」わたしは心を決めた。
「協力するよ。あの人魚をくれる上に、今よりも意義のある研究ができるというのなら、断る理由はないだろう」
「そうか! 手伝ってくれるか!」
月島は顔を緩めてわたしの両手を握りしめた。
わたしも月島の手を握り返し、力強く握手を交わした。
「きみがついてくれるなら百人力だ」
その後、わたしたちは深夜まで入念に計画を練った。月島がわたしに共有した情報の中には、この家のセキュリティ情報や、万が一のための設備なども含まれていて、もう二度と振り返らずに、人魚の研究に生涯を捧げたいという気迫をわたしに感じさせた。
話し合いの結果、当面の予定として、月島は主に人魚の飼育と水槽の管理、裏で人魚を流すためのルート構築。わたしは、人魚のクローニングの準備という分担に決まった。
ここまできてようやく安堵したのか、月島は遠い目になった。
あまりにぼうっとしているので、心配になって声をかける。
「大丈夫か?」
「ああ……」
そういえば昼間から、やつれた顔が気になっていた。
「月島、きみ、ちゃんと寝てるのか?」
「どうだろうな……」月島は記憶を辿るように視線を左右に泳がせると、やがて苦笑した。
「それが、あまり覚えてないんだ」
わたしが困惑していると、月島は慌ててとりなそうとする。
「いやすまない、変な意味じゃないんだ。夜はいつもここで過ごしていてな。人魚に何かあったら大変だからな。それで、ぼんやり人魚を眺めているうち、いつの間にか朝になってることが多くてね」
「おいおい」
今度はわたしが苦笑した。
「あまり気を張りすぎると、身体がもたないぞ」
「ああ、きみのいうとおりだ。今後は気をつけるよ」
話が済んで、わたしはようやく月島の自宅を後にすることになった。
月島は自分のせいでこんな遅い時間になったのだから、自宅までわたしを送るといって聞かなかったが、わたしから見ても疲労の色が濃かったため、適当にタクシーを拾うからといって聞かせた。
その頃になると、わたしは水槽の前をとおるだけで、人魚に見られている気がしてどぎまぎするようになっていた。夢中になってしまいそうだから、目を合わせないように素早く水槽の横をとおり抜ける。
「それじゃあ、明日」
きたときのように家の中をとおっていけばいいといわれて、わたしはここで月島と別れることにした。
振り返ると、室内の明かりはすでに消えていた。
外に出て、研究棟のドアが閉まるまでの間、目を凝らして中を見つめていると、水槽の前に黒い人影が浮かび上がる。月島だった。
彼はずっと水槽の中の人魚を見つめていた。
夢を見た。
わたしは全裸で、広大な海の中を漂っているようだった。
光がわずかに差し込む程度の深いところにいるのに、不思議と息苦しさはなかった。
上も、下も、左も、右も、どこを見ても深い青が、わたしの視界を支配している。
前の方で何かがちらちらと反射している。それは、月島の研究棟で見たあの人魚の、美しい玉虫色の尾鰭だとすぐに分かった。
人魚はわたしを見つけると、手を伸ばせば触れられるほど近くまでやってきた。この妖艶な雰囲気を独占していると思うと、子どものように胸が躍った。
人魚はずっとわたしの目と鼻の先をゆらゆらと漂っていたので、手を伸ばしてみたが、あと一歩のところで届かない。
人魚と目が合う。美しい瑠璃色の瞳が、わたしを見つめる。
次の瞬間、差し込む光の加減なのか、人魚の鼻先から下の部分が暗転して見えなくなる。
人魚は相変わらずわたしを見ている。顔が見えるように近づこうと、水を掻いて身体を動かしてみるものの、やはり近づける気配はない。
ふいに、人魚が笑った気がした。そのとき、なぜかわたしは、人魚の顔の下半分が暗くなっていることに、妙な安心感があった。
やがてすべての視界が暗転して、そこで夢は終わった。
翌日、月島は再生科学研究所に出勤しなかった。
最初は体調不良かと思ったが、それとなく事務の女性に訪ねても連絡はないというし、わたしからの連絡も携帯の電源が切れていて繋がらない。
昨日の話では、将来的にここを辞めるにしても、同じ分野の研究者が二人揃って辞めることになるから、その影響も考慮して今しばらくは再科研に勤めつつ、並行しながら諸々の準備を進めるという話だったはずだ。
人魚を流すために権力者や金持ちへのルートを確実に確保してから再科研を辞めても遅くはない、人生の勝ちのレールに乗れたと分かった瞬間に辞めるべきだというわたしの意見に、少なくとも昨日の月島は同意していた。
どうするべきか迷ったものの、体調不良で寝込んでいるのかもしれないと思い、わたしは深く考えるのやめて目の前の作業をこなしつつ、月島が共有してくれた人魚に関する資料を頭に入れることにした。しかし、わたしの意に反して、月島は翌日も、翌々日も現れなかった。
「どういうことだと思う」
部長の梅原が、問い詰めるようにわたしに月島の無断欠勤の理由を求める。
一九〇センチはあろうかという高身長と、シャツがぱんぱんになるほど厚い胸板を持つ梅原は、外部から入ってきた人間であり、もとから研究畑の人間ではない。
つり上がった眉に、感情が一切読みとれない横一文字の目。ただそこにいるだけで周りの者を無差別に威圧する類の人間だ。
「どうしてわたしに聞くんです」
わたしは精一杯の勇気を奮い起こして答えた。
「お前と月島が二人一緒に退社して以降、月島が出勤してないからだ」
梅原は飢餓寸前で餌を求める、鼻息の荒いドーベルマンのように凄んだ。
ちくしょう。わたしは心の中でありとあらゆる呪いの言葉を叫んだ。あのとき、現場にはこの男はいなかったというのに……他の誰かが告げ口したに違いなかった。
「わたしは大の魚好きでしてね……」
わたしは瞬時に話をでっちあげることにした。
「特に鰹が好きなんですが、それを知っていた月島が、『親戚から鰹が届いたが、自分たち家族だけで食べれる量じゃないから、よかったらもらってくれないか』といったので、好意に甘えていただきにいったんです」
月島の家に行ったのは事実なので、ここをごまかすとバレたときに危うい。その事実は伝えつつ、あくまで月島が無断欠勤する理由は知らないという姿勢を貫く。
梅原は二重になった顎肉を指でつまみながら、わたしの話を咀嚼しているようだった。やがて、低い声でそうかと呟くと、わたしの肩に手を乗せて、
「隠しごとはするなよ」
といって、去っていった。
少し時間をおいて、梅原を欺いてしまった事実に、わたしは内心震えあがった。
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