3. 邂逅と野望
「家族のことは嫌いだったわけじゃない。いや、むしろ人一倍、愛情を注いでいたつもりだったが……」月島は言葉を切って、声のトーンを落として呟いた。
「あの美しい人魚のミイラに出会ったとき、おれの中の何かが変わってしまったんだろうな」
わたしは、なんといって月島に声をかければいいのか分からなかった。もし、ヤノマミ族の村で、人魚のミイラを見たのが月島ではなくわたしだったら……、わたしも彼のように、その魅力にとり憑かれてしまうのだろうか。ひとりの人間を、そこまで変えてしまう人魚とは一体……。
「でも、おれは後悔していない。失ったものの代わりに、素晴らしいものを手に入れたんだからな」
月島が自宅のセキュリティを解除すると、鍵が開く音がする。
「きみの方こそ、時間は大丈夫か」
「わたしは独り身だよ。気にしないでくれ」わたしは苦笑いしながら被りを振った。
玄関のドアを開け、促されるままに靴を脱いで家に上がる。靴を持って長い廊下を抜け、女性が嬉しがりそうなカウンターキッチンのある広いリビングをとおりすぎ、裏口からもう一度外に出る。すると、唐突に別棟と思われる新しい建物が姿を現す。これが月島のいう増築した研究棟だろう。わたしから見ても、個人用としては十分すぎる大きさである。
「この中にいるのか?」
わたしのものではないかのように、心臓が動悸を打っている。
本能が、一度踏み込んだらもうここに戻ってこれないことを警告しているのだろうか。
「ああ」月島ははっきりいった。
「準備はいいか?」
わたしは時間をかけて思い切り息を吐くと、小さく頷いた。
鈍い音とともに、研究棟の扉が開く。
窓のない部屋。
暗闇で何も見えない、いや……。
何かが闇の中で、ちらちらと反射している。
水? 水に反射しているのか? そうか、水槽だ。水槽の中に、いる。
だんだん目が闇に慣れてくる。
大きな、わたしより大きな何かが、水槽の中を泳いでいるのがわかる。
次の瞬間、部屋の明かりがついて、闇に慣れた目に一斉に光が飛び込んだ。
かざした手、その指の隙間から見えたのは、尾鰭。
雄々しくも、艶めかしい玉虫色の尾鰭。
部屋はドアの付近を除くと、すべての面に大小さまざまな水槽が設置されている。その中でもわたしの視線は一番奥に設置された大きな水槽に釘付けになる。
中にいたのは、上半身は若い女性の姿で、下半身は魚の尾を持つ生物。
それは、まぎれもなく人魚だった。
魔性ともいえる絶世の美しさを持ち合わせた、一匹の人魚。
わたしはガラスに両手を付けて、しばし生まれたての赤子のように言葉を失って、あぁとか、うんとかいいながら、水中を優雅に舞う人魚を、まじまじと見つめていた。
「……どうだ?」
月島の声を聞いてようやく、わたしはここが彼の自宅だったことを思い出す。
「こんなに美しい生き物は初めて見たよ……」
わたしは、率直に人魚を見た感想を述べた。
「来てくれ」
月島の後ろをついていく。そのとき、人魚と目が合った。
無垢な瑠璃色の瞳が、初めての訪問者を物珍しげに観察している。わたしは、まるで自分が丸裸にされていくような、なんともいえない気分になる。
水槽の森を抜けると、奥に研究用のスペースがあった。応接用のソファも備えつけられていて、月島はわたしにそこに座るように促すと、自分は向かいに腰を下ろし、カフェでの話の続きを単刀直入に切り出した。
「きみに、人魚のクローン作製を手伝ってほしい」
「あの子……いや、あの人魚は、生まれてどれくらいなんだ?」
「一年くらいだ、それがどうかしたのか?」
結論を急ぎたいのか、月島の口調に少し苛立ちを感じる。
「どうして学会に論文を発表しないんだ?」わたしも興奮して、言葉にも力が入ってしまう。「きみは、今まで伝説上の生き物といわれてきた人魚を復活させたんだぞ? とんでもない快挙だ! 世紀の大発見じゃないか! きみは人魚を復活させた男として、歴史に残る英雄になれるんだぞ」
「歴史に残る英雄だって?」月島はつまらないものを見るような目で、冷ややかな口調でいった。
「そんなもの、これっぽっちも興味ないね。学会で発表なんてしてみろ、人魚は取り上げられて、大衆の好奇の目に晒されるだけだ。そんなつまらない名誉のために、今までコソコソしながら人魚を再生させていたと思っているのか」
「じゃあ、何のため……」
「存在を口外しないことを条件に、まず人魚をこの国の権力者階級に売る。そして、権力者からさらに海外の上流層にルートを作って、そこに人魚を流すんだ。権力者は富の独占が大好きだから、無闇に人魚の存在を公表したりしない。そしておれは、いや、おれたちは裏で莫大な金を得て、人魚の研究を続ける」
「そんな……」わたしは唖然とした。目の前にいるのは、無口で、職場での人付き合いが下手で、職人気質なわたしの同期なのか。こんなに嬉々とした表情で話す月島を、わたしは知らない。
「おれは再科研にはもううんざりなんだ。きみだってそうだろう? おれたちの専門分野は何だ? クローンの作製技術と再生医療だ。その技術は高い目標……そう、それこそ、伝説上の生き物を再生させるような、高尚なものに使われるべきなんだ。なのに現実はどうだ? ヒトのクローンは法律で認められていないだって? バカを言え。なら、再科研でおれたちが秘密裏に作製させられているクローンは何だ? どこかの金持ちのための、命のスペアばかりじゃないか! ……少なくともおれは、そんなことするために研究者を志したわけじゃない」
たしかにそうだ。わたしたちは、詳細すら知らされないままに、ヒトのクローンを作製することだってあるのだ。いや、むしろ再科研の本当の存在意義はそこにあるといってもいい。
月島がいったように、わたしたちが作製したクローンたちがどこで生まれてどう育てられるのかは知らなくても、いずれどうなるのかは分かる。十五年も育てれば、オリジナルの人間にとっては、立派な臓器のバックアップだ。
そして、それができるのは、法律を歪めることができ、倫理のタガをも外すことができる、金を持った権力者だけなのだ。
わたしが頭を抱えて黙り込んでいると、月島はさらにわたしをとり込もうとまくしたてた。
「考えているだろう? きみはおれと同じだから分かるはずだ。おれたちは技術を持っている。きみは、きみの技術は、どこのだれか知らないやつのクローンを作り続けて、それで満足なのか? 違うはずだ、おれには分かる」
「どうすればいいんだ……」わたしは泣きそうな声で呟いた。
月島のいうとおりだ。もしここで協力できないといったら、わたしはまた再科研で、顔も知らない誰かのクローンを作り続ける日々を送ることになるだろう。
再科研は、給料はいいし、休みだってそれなりにある。嫌な上司を除けば待遇に不満はないはずだったのに。本物の人魚を見てしまった今、あの場所に縛られたくないという思いが募る。
もしかするとわたしは、ずっとぬるま湯に浸かり続けて、ここまできたのかもしれない。
「もしおれに協力してくれるなら、きみに人魚を一匹やるといったらどうだ?」
枯れ木のようにうなだれていたわたしは、月島の言葉に驚いて顔を上げた。
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