第4話
僕の好きな本を読む彼女を見ていた。ページを繰るたびに鳴る音を聞きながら、その何気ない、音楽にも満たないものが心に残す傷跡をなぞる。
感情を説明することは出来ない。何もかもに理由があるわけもない。落雷に意志が無いように、僕のこの感情も偶然に近いのだと思う。
「お前さ、本当に水樹とつきあっちゃったりするのか」
放課後の部室で向き合うと、伊東は開口一番そう言った。僕は机の角を眺めた。映画に誘う時の水樹がよくする仕草だった。
「好きじゃなかったんじゃないのか」
「僕だって水樹と仲がいいんだ、好きじゃないなんて、一度も」
友人の目に、ふと薄暗いものがよぎったのを見た。
「言ってないけど。だからって、付き合うとも言ってないからな」
「そうだよな」
「うん」
奇妙な沈黙の裏で、鈴が鳴っている。
「伊東はどうすんの」
「そりゃあ断るよ、当たり前だろ。藤川さんには悪いけど」
「そうか」
「もちろん」
続かない会話の合間はぼうっとしていて、纏まらない思考と感情を持て余していた。
伊東はもう一度、そうかと口にして深い深いため息をついた。
「俺は藤川さんと別れた後、普通にここへ来るつもりなんだ。どうせお前は部室で水樹と会うんだろ」
「そうだよ」
「じゃあ俺が来ても普通だよな。振られた水樹を慰めても、まあ、普通だよな」
「おかしい所はないな」
手にしていた小説はエンディングに差し掛かっている。水樹と並んで観たあのストーリーと同じように、主人公は恋人を殺した。理由があって結果がある、明確な意志を持った犯罪なのに、彼は心の底からあの台詞を口にする。殺したのは俺ではない、こんなはずではなかったと。
僕がたまたま14日の放課後に本を返却するのも、普通のことなんだろう。
告白の言葉は、映画の感想から始まる。
「私ね、本当は別の作品が観たかったんだ。この前の映画は興味すら持ってなくて、途中までは観てても面白くなかった」
暖房をつけたばかりの部屋は冷えきっている。僕が入室するなり口火を切った水樹は窓辺に立って、テーブルの木目を何度もなぞっていた。
座るタイミングを逃した僕は、入口付近に立ったまま話を聞く。荷物も降ろさず、居た堪れない心を持て余すようにテーブルへ手を伸ばした。酷く冷たくて、かじかんでいた指先から感覚が消えていった。
「映画は好きだけど、トム・クルーズになりたい人間なんだよね。鑑賞してる間はお客さんをやめたいし、時には人間だってやめたい」
「そうだと思ったんだ。伊東も言ってただろ、あれは僕向きの作品だった」
「そう。そういうこと」
今まで何度、休日に誘われただろう。次はあの映画を観に行こう。この前の映画のパンフを貰いに行こう。
光の落とされた空間でスクリーンを見つめる時、毎度のように思っていた。これは僕のための席なのだ。伊東でもなく、水樹でもなく、山村周のために取られた座席と時間なのだと。
「好きでもない作品を観るたびに分かってきたことがあるんだ。自分の趣味と違ってても、面白さが分からなくても、なんだか楽しかった。このシーンはきっと周くん好みなんだろうとか、そんなことを考えながら鑑賞する映画が好きだった」
「作品に対しては不誠実なんじゃないかな」
「あはは、そうかも。でも、構わないと思ったんだよ」
水樹が差し出した赤いパッケージの箱を見つめながら、僕はファウストを思い出した。同じようにあの本を愛せるのか、答えは出ない。
「あのね、周くん」
「うん」
胸が詰まる。水樹はどんな言葉を選ぶんだろう。僕の想像し得るどれであっても、酷く心が痛むはずだ。
「私と付き合えなくても、チョコレートくらいは受け取れる?」
咄嗟に見つけられなかった返事の代わりに息を飲んで、長い数秒の沈黙を作り出した。
水樹は困ったように笑って僕を見ている。
「分かってたのか」
「私はね、そこまで馬鹿でもないんだよ」
そうかと答えるので精一杯だった。僕も伊東も、周りのことなんて見えちゃいなかったのだ。勝手に認識していた水樹の姿すら間違っていてこの様とは、不甲斐なくて堪らない。
「今すぐ付き合えなんて言わないし、その代わりに振らせもしないなんて、なんだか浅ましいような気がするんだけどね。分かりきったことなら、この形がベストかなって」
「どこまで知ってたの」
「どこまでも知らないよ。勝手に想像して決めつけて、こういう行動を選んだだけ」
伊東が水樹を好いていることは、見るからに明らかだけど明言はされていない。知っているのは僕だけなのかもしれないし、違うのかもしれない。僕の曖昧な立ち位置も感情も、他人から見れば明らかなのかもしれないし、逆もまた然りだった。
小さくて高級そうな箱を受け取って、俯いた。荷物を降ろさなくて本当によかったし、もう今日は水樹の顔を見れやしないだろう。
「意外だったかな。私がこういう人間で、幻滅した?」
「まさか。イメージなんて全部ただの認識に過ぎないんだ」
周くんならそう言ってくれると思った、なんて笑った。
幻滅するのは水樹の方だろうに。
予定通り、図書館へ向かう階段の近くにうずくまっていた伊東は、僕を見るなりワアワアと喚いた。
「ああ! 俺はね、今最高に腹が立ってますよ。こんなの絶対に理不尽だ! 誰に文句を言えるわけでもないけどね、こればかりは怒る権利ってもんがあると思うんですよね!」
「五月蝿いよ」
「五月蝿くもなりますよ! ああ嫌だ、これだから人生は嫌いだ」
「何があったの……」
ぎらぎらした目で僕を睨みつけた伊東は、図書室がある方を指差した。
「あそこにね、この世の理不尽があったんだよ。分かるか山村」
「分かるわけないだろ」
「行けば分かる。本気で俺は怒ったぞ」
「まあ行くからいいけど……ところでチョコは貰ったの」
「貰ってない!」
噛みつかんばかりに吠えた伊東を眺めながら、藤川さんの告白に何か問題があったのだろうと見当をつける。
「そう言うお前はどうなんだよ。告白されたんだろ」
「されてないよ」
「はあ……?」
「されてないので、振ってもいない。チョコレートは貰ったけど」
「なんだそれ、訳わかんないぞ。今年のバレンタインはどうなってるんだ」
俺は何もわかんなくなったよと呟いて、観念したように立ち上がった。酷く疲れきった顔をしていた。
「とりあえず慰める心の準備だけはしてたんだ、予定通り部室に行くよ。お前とはここでお別れ」
「まあ、うん。後はよろしく」
そんな挨拶を残して、僕はこの世の理不尽がいる図書室へ向かった。
本を返却し、カードに日付を記入する。カウンターで一通りの手続きを踏む僕を、彼女は黙って眺めていた。
「伊東くんに、会った?」
「ああ、ついさっきね」
藤川さんが自分から声をかけてくるとは珍しい。
「何か話でもしたの」
「……うん」
「へえ、まあバレンタインだしね」
水樹との会話で狼狽していた僕は、ヤケになって自ら墓穴を掘った。
「うん、そう……」
分かっていたのに傷つく僕は馬鹿だ。
かつて不安定に本が置かれていた場所の椅子に座っていた彼女は、頬杖をついていた。手元には僕が薦めたあの本がある。
「上手くいった?」
「……うん、たぶん」
「そっか」
あんなにキレていても成功なのか。
「まだ……分からない。上手くいったのか、それとも、違うのか」
「伊東は返事をしなかったの」
「ううん。でも、分からない……」
誰もいないカウンターにもたれて、鈴の音を聴いた。夕陽にくっきりと浮かぶ埃の煌めきが悲しくてならない。
「質問を、したの。彼に」
意外な言葉に驚いた僕は、思わずまじまじと藤川さんを見た。俯きもせず、ただ誰もいない方向を真っ直ぐ見る彼女が、僕の視線を気にする様子はない。彼女にしか見えない誰かに滔々と語るようにして、言葉を紡ぐ。
「山村くんに、好きな人がいるのかどうか」
耳が痛くなるような沈黙に、その言葉が染み込んでいった。空間に溶けて消えていくのに、僕には為す術もない。
「……僕?」
なんて、言葉を辛うじて絞り出すので精一杯だった。
「そう。気になって、聞こうと思って」
「わざわざ今日に?」
「……今日じゃなきゃ、駄目だと思って」
「どうして」
僕は酷く動揺しているのに、彼女は一切こちらを見ない。気弱で物静かなイメージな、いつもの藤川さんから少しズレている。
「伊東くんは……山村くんと仲良しで。だから、私が14日に伊東くんを呼んだら、きっとそのことを、山村くんに伝えると思って」
訳が分からなかった。
「……少しは、興味を持ってもらえると思った」
「そのために伊東を呼んで、僕について質問したの?」
藤川さんは静かに頷いた。
「質問をしたら、伊東くん、分からんって言って出て行った。そして、山村くんが来た」
友人がなぜ理不尽に憤っていたか、その理由にこれ以上なく納得した。
「来たってことは……伊東くんから聞いてた? 今日、私に呼ばれたこと」
「うん、藤川さんの予想通りね」
「そう……」
ゆっくりと書架に語りかけていた彼女は、そこでやっと、いつもの自分を取り戻したかのように目を伏せた。
「私は、話すのが苦手で。普通に生きていれば、誰かの記憶に残らなくて。だから」
制服の袖に手を伸ばして、左手首を露出させた。そこには鈴が付いていて、一際大きな音を鳴らす。
「席替えで山村くんの隣になった日から、鈴を付けた」
僕はその音を何度も思い出した。水樹と話している時も、本を読んでいる時も、自分のペンケースからシャーペンを取り出す時も。
繰り返し確かめるように、波のように。
「……映画化した本、面白かった。山村くんが薦めてくれた本も、面白かった。本が好きでよかった」
リン、とあの音が脳に染み込んでいる。何気ない小さな必然と音が、僕の日常に隠れていた。
チョコレートは用意してないんだけど、と彼女が言う。
「ほんの少しでも、私に興味を持ってくれたかな」