第3話
自分の席にリュックを置いた僕は、思わずあっと声を漏らした。隣の席に座っているファウスト、もとい藤川さんがファウストを読んでいないではないか。
単に読み終わっただけだろうが、手にしていた新しい本のタイトルが目を引いた。
日曜日に観に行った映画のタイトルだ。原作は小説だろうと思っていたが、まさかこんな身近なところで目にするとは。
藤川さんはびくりと肩を震わせてしばらく固まったあと、もしかして私に声をかけましたかと問うように僕を見た。
「その本、映画化したやつだよね? 丁度この前観に行ったんだけど」
ああ、とも、うう、とも判別のつかない返事をした彼女は、本に栞を挟んで閉じ、表紙を確認した。
「これ……面白い」
「映画も良かったよ。観に行った?」
控えめに首を振る。僕の中での藤川さんは完全に本の虫となっているので、確かに映画館に行くイメージはない。
「自分の中でタイムリーな作品だったから、つい驚いちゃって。映画と原作じゃ色々違いもあるだろうし、読んでみたいな」
「じゃ……次、読む?」
「次?」
首を傾げる僕に、本の背表紙を見せてくれた。赤いシールが貼ってあって、整理番号が記載されている。
「もう読み終わるから……放課後、返却しに行く予定で、だから」
「じゃあ、僕も一緒に行こうかな」
こく、と頷くと、彼女は本の背を撫でた。また鈴の音が聞こえる。ミサンガのようなものに、くすんだ銅色の鈴が付いているのが見えた。
席の離れたクラスメイトが僕を呼んで、話は終わった。藤川さんは逃げるように読書へ戻り、僕は席を立つ。
珍しく水樹が声をかけに来なかったことに、馬鹿な僕は気付かない。
放課後、僕たちは揃って図書室へ向かった。
藤川さんは本当に喋らなかった。黙々と廊下を歩く彼女は、口を噤むことに何らかの使命感を持っているんじゃないかとすら思える。幾度か話しかけようとして、やめた。そもそもろくな話題がないどころか、彼女の存在を知ったのもつい先日なのだ。同じ教室で学んでいる仲間だというのに、彼女の存在はあまりに希薄だった。
図書室へ着くと、彼女は返却のための簡単な手続きをして、本を僕に渡した。
「あー、ごめん。どうやって借りればいいのか教えてくれる?」
「図書室、使わないの……?」
「全然」
本は好きだが、買う習慣はあっても借りる習慣はない。
彼女は表情を変えずに辺りを見回すと、カウンターに置いてあったカードのようなものを手に取った。これ、と呟いて差し出しながら「名前、タイトル、日付」と単語だけをぽつぽつ説明する。それで十分だった。
僕が必要事項を記入しているあいだに、藤川さんの姿が消えていた。どうやら次の本を探しに行ったらしく、図書室は僕一人しかいないみたいに静まり返っている。カウンターも無人だけど、こんなことでいいのだろうか。
カードを箱に入れ、僕は彼女を探しに行くことにした。
入口付近の小さな本棚には新書が並んでいる。初心者はここへどうぞと言われているみたいだった。奥に並んでいる本棚は専門書や古い本ばかりで、僕にとっては立ち入りにくいエリアである。
藤川さん、と声をかけながら歩き始めた時、近くのテーブルに不安定に置かれていた本にぶつかった。ばさりと床に落ちた表紙に見えた著者名は、偶然にも僕が愛読している本と同じだった。
「な、なにか……あった?」
本を落とした音に釣られて、図書室の奥から藤川さんが現れた。
「ちょっと落としちゃって。そうだ、藤川さんはこの本読んだことある? いい作者なんだ」
叱られている訳でもないのに、彼女は少し小さくなって首を振った。
「面白いよ。僕は好きだな」
「そう」
好きな作者の作品がテーブルに放ったらかしなのは如何なものかと思いながら、カウンターに置いておく。全く、蔵書は充実しているくせに管理がなっていない図書室である。
「次は、それ読んでみようかな……」
「是非是非」
返事をすると、また小さくなって俯いた。僕が怖いのか、自分のちょっとした呟きに反応されるのが怖いのかは分からないけれど、どちらにしても僕という存在は邪魔なんだろうなと思う。
小さな鈴の音を聞きながら、髪で隠れて見えない横顔を見ようとした。せめて表情が見えれば、と無茶なことを考えながら、早く部室に行かなければと確信する。
今すぐ、早く、逃げなくてはならない。
焦りとも仄かな恐怖ともつかない感情に追い立てられて、深く深く息を吸った。
部室に行くと、二人はスマホを横向きに持ってしかめっ面をしていた。
「あー、遅かったね。周くんが遅れてくるなんて珍しい、私はよくあるけど」
「水樹は我が部の部長様ですから、何かとお忙しいでしょ。俺は副部長なのでそこまででも……あ、右、右にいるよ」
「右ってどこ!? 誰から見て右?」
スマホに右だ左だと叫んでいる映画研究部の部長&副部長が、平部員の僕を咎める資格を持っているんだろうか。
「ああっ死んだ……」
「俺は右って言いましたからねー」
「結局私にとっては左だったじゃん」
「咄嗟に出るのは主観の認識ですー仕方ないですぅー」
「仕方ないですよねー」
画面を乱暴に叩きながら、水樹は不満そうに頬を膨らませた。
「あのさ、何してんの」
「見てわかるだろ、宇宙救ってるんだよ」
「宇宙……?」
「宇宙戦争なんだよ、今俺たちが興じているのは」
「エイリアンと戦うのか」
「いや? 別の惑星というか、サーバーに所属してる連中と殺し合いしてるんだ」
その殺し合いが宇宙を救うのかと言いかけてやめた。
「俺がハマってるスマホアプリでね、水樹も誘ったんだ」
殺伐としたゲームに女の子を誘うのはどうなのかと思ったが、伊東があんまりだらしない顔をしているので、もうどうでも良くなった。
「面白いよ。映像も綺麗だし、周くんもやろうよ」
伊東が途端に緊張した面持ちになる。
「うーん、すぐダウンロードするのは通信量が」
「それもそっかあ」
日向の猫みたいな表情に戻った友人は、もう一戦やろうぜとウキウキしながら声をかけた。
やることが見当たらない僕は、早速借りた本を取り出した。軽く表紙を眺めてからページをめくる。どうやら映画は原作を忠実に映像化したらしく、物語は主人公のアパートから始まった。彼は、鏡に映る自分の顔を熱心に見ている。自分が見ている自分の顔と、他人が見ているこの顔は違うのだ、と呟く。それは認識の問題だ。人は見たいものを見て、信じたい姿を信じる。
「あれっ周くん、その本を借りに行ってたの? 図書室のでしょ」
「あー、うん……映画良かったし」
どうして僕は動揺しているんだろう。
「珍しいなー、山村が図書室行くなんてさ。あ、また右の方に隠れてるぞ……水樹から見て右な」
「伊東くんが珍しく優しいぞ!」
「俺はいつも優しいよ」
逃げるように読書へ戻る。鈴の音が遠ざかっていくのを感じながら、日常に身を浸す。やはり僕の居場所はここなのだと安心していた。
「ところでさ、みんなはバレンタインどうするの? 予定とかあるんでしょ」
水樹の何気なさそうな一言で安寧はぶち壊されたわけだが。
そういえば、あと一週間でその日が来てしまうのだ。すっかり忘れていた。
「私はね、特に予定はないんだけどさ。あ、でもクラスのみんなには配るよ」
「そうなんだ……水樹、後ろ後ろ」
「おっと危ない」
伊東も僕も恐れている。
「ふふ、もちろん二人にも配るよ。同じ部活だもん」
「でもそうなると、俺のが一個少なくなるんじゃない」
「え?」
「山村は水樹とクラスメイトで、部員だ。2個もらえるじゃん。不公平極まりない」
「ふふ、やだなー子供っぽい。伊東くんらしくないよ」
「そうかな……」
分かりやすく肩を落とした友人が可哀想で「伊東のチョコが少ないんじゃなくて、僕のが過剰なんだ」としょうもないことを言った。女子が配布する義理チョコはクラス用だとか部活用だとか言い方を変えたとしても、もちろんモノが違うはずがないわけで。
「まあまあ、周くんはクラスメイトだから。来年は伊東くんとも同じクラスになりたいな」
そうだね、と噛み締めるように返事をした伊東の顔には、切実さが滲んでいた。
僕は読書を再開する。
わたしの認識を形作ったのはあなただ、と主人公は言う。鏡に映る自分の顔でさえ、あなたが作り上げたのだ。あなたとは彼の恋人を指し、彼は結局、恋人を殺すのだが、当然、罪を犯すからといって言葉の全てが嘘とは言えない。
ふと、直感と理屈の話を思い出した。僕はどちらかと言うと理屈で恋愛をする脳みそを持っている気がするんだけど、と伊東に相談したくなった。これはあくまで僕自身の認識で、お前から見ればどうなんだ。
「俺から見れば、理屈型だ。間違いないよ」
「やっぱりか」
「そうでなきゃこうなってないだろ」
こうとは何だと訊くと、苦虫を噛み潰したような顔をした伊東は頭を抱えた。Xデイが近づく度にこいつが頭を抱える回数が増えていくのだが、当日が来ればどうなってしまうというのだろう。
「感覚で、何となく好きとか直感的に好きとか言うやつなら、とっくに俺は失恋している気がする」
「確かに水樹は可愛いけど、世界中の人間が水樹に恋をする訳じゃない」
「せっかく避けて通ってる表現をさあ、堂々と使うのはどうなんだ。デリカシーがない」
男から注意されるとは思わなかったなあとのんびり考える。
「別に全人類を恐れてるわけじゃないんだよう、お前だからだ。水樹はお前が気に入ってるから」
なんて答えればいいのか分からず「ケーキ美味いよ」と言った。僕は一定のテンポでカットケーキを減らしているのに、伊東のはまだ手付かずだ。
突然バレンタインの話が出て動揺した僕たちは、学校を出てからカフェに入った。何故か今すぐチョコに匹敵する甘いものを口にしなければいけないと、強迫観念に近い感情に追い立てられていた。ちなみに、何に焦っているのかは自分でも分からない。伊東がひとりでソワソワしているならおかしな事はないのに。
彼がやっとフォークを持つ。酷く食欲のなさそうな顔だった。
「あのさ……」
「なに、伊東だって甘いもん食いたいって言ったじゃん」
「そうじゃなくて、バレンタイン……バレンタインの予定ある?」
「はあ? ごめん僕男はちょっと、たまたま守備範囲外で」
「そうじゃないって」
なあんだと適当な返事をしたところで、携帯の画面が光った。誰からのメッセージだろう?
「そんなに僕の予定が気になるの?」
「なるよ……そりゃあそうだろう。大抵の人間は、その日の他人の用事が気になると思う。水樹は何も無いって言ってたのは意外だったけど」
スマホを見る機会を伺いながらケーキをつつく。
「そうだね」
「で、どうなんだ。用事はあるのか」
「無いよ。声をかけられてもいないし」
「あ、そう……」
大喜びするかと思いきや、友人は何故か顔を曇らせた。ヴーヴーと奇妙な唸り声を上げながらチョコケーキを口にする様は、顔色と表情も相まってゾンビみたいだった。
次の言葉が出てくるまでに時間がかかると見た僕は、メッセージを確認した。
「周くん、14日の放課後は空けておいてね。二個目のチョコレートを渡すから。それじゃ」
なんて、信じられないことが綴られていなければ、まだ平穏に生きられただろうに!
血の気が引くとはこのことだった。やけに口が乾いて、食欲が一気に失せる。見れば、恐らく今の僕とそっくりな顔をした伊東が僕を見ていた。
「どうしたんだ山村、酷い顔だ」
「お前に言われたくないよ」
「実は山村に相談したいことがあるんだけど」
「へえ、僕もだ。奇遇だなあ」
すぐさまスマホを伏せてテーブルに置く。素直に言えばいい、実はたった今、メッセージが来たんだと。お前はどうするつもりなんだと。予定も何も無いけれど、嘘で作ることなど造作もなかった。水樹を騙すことは少しばかり気が咎めるけれど。
あのさ、と伊東が言う。
「バレンタインの日、藤川さんに誘われたんだ。なんでだと思う? てか、どうしよう」
すっと景色が遠のいて、何もかも手放してしまったような気がした。手足の感覚がない。握っているフォークの冷たさを感じない。
今、なんて?
藤川さんがなんだって?
「嘘だろ」
「まさか。部長会に出席するメンバーが入るSNSのグループがあって、つい先日、俺個人宛にメッセージが。なんでだと思う?」
「それは……バレンタインのため」
「どうしよう」
手の感覚は帰ってこない。
「ほとんど関わりなんてないし、部長会で一度と、この前職員室んとこで一度会っただけなんだ。これはどう考えてもおかしい。俺を好きになるはずがないんだ」
「分からないじゃないか、一目惚れかも」
自分で言っておきながら、僕自身の言葉に切り裂かれそうだった。僕は何を言っているんだろう。
「水樹はたぶん山村を誘うと思うんだ。俺はどうしたらいいんだ、バレンタインという日が持つ性質のせいでにっちもさっちもいかない」
余裕があれば、予想的中ですよと言ってやりたかった。
僕は恐れていた。誰かのことをこんなに恐ろしいと感じる日が来るなんて、思いもしなかったのだ。
直感型なのか、感覚型なのか。僕はどうなんだろう。あの子は、藤川さんはどうなんだろう。
理屈型だ、間違いない。そう語る伊東の顔を思い出す。僕もそう思う。やはりな、と思う。同時に感じる違和感は、自分でも開けない心臓の奥にある感覚だった。そこにあると分かっているのに触れられない。
何が理屈だ、何が感覚だ。僕が僕に抱く認識なんて、こんなに脆いというのに。
理由もなく、理論もなく、理屈もなく、人を好きになるというのに。
「自分が水樹を好きなんだろうと薄ら感じていたけど、それだって曖昧だった。馬鹿だったんだよ。よく考えて、まだ分からないなら自分を試せばよかったんだ」
また彼の言葉が上滑りしていく。
水は元の場所へ還らない。写真に収めた一瞬は二度と戻らない。時間に運ばれる僕たちも、全てを置き去りにしながらどこかへ向かっていく。
「その時しか手に入れられないものをさ、よく分からないからという理由で逃した気がする。多分何もかもお前に取られるんだろうな、山村」
今ならば、その言葉を自分のもののように噛み締めることが出来る。
「僕もね、たった今同じことを考えたんだ。手にしていないものを失うんじゃないかって」
スマホを手に取り、返信をした。
「14日の放課後、空けておくね」