第2話
「はいどうぞ、美味しいよ」
菓子を差し出した水樹が、僕の顔を覗き込むようにしてにこにこ笑っている。箱に入ったチョコレートをつまんで礼を言った。
「いえいえ。新発売って書いてたから気になってたんだけど、これが意外と美味しくて。ハマっちゃうかも」
「ハマっちゃうのはいいですけどねー、それは俺が買ってきたものなんですけどねー」
分かりやすく不貞腐れた声を出したのは、伊東だった。テーブルを挟んで向かい側に座っている彼は、頬杖をついて、酷く剣呑な目をしている。
「もう1回だけ主張していい? それは、俺が、買ってきたもんなんですけどねー」
「ごめんごめん、買ってきた伊東くんにお返しします」
「別に分かってればいいですけどー、じゃんじゃん食べてくださーい」
やったーと呑気に喜ぶ水樹を見て、彼は深い溜息をついた。口に残る甘さを転がしながら、さて自分はどんな顔をすればいいんだろうかと考える。もちろん答えは出ない。
「ところで、そろそろ映画の話をしない? 部活の時間は有限だけど」
表情について答えは出なかったけれど、見るからに不機嫌な友人の機嫌を直すため、話題を提供する。狭い映画研究部の部室に3人も集まっているのは、水樹が日曜に観た映画の話をしたいと言ったからだ。帰宅部と化している我が部の歴史の中で、3人も、しかも月曜日の放課後に集まるのは大変な快挙と言えなくもない。
しかし僕たち3人は大抵ここで暇潰しをしてから帰るのが常なので、真面目に部活をしたいと志しているというわけではないのが残念なところだ。
「そうそう! 伊東くんには言ってなかったよね。日曜に映画を観てきたんだけど」
水樹が楽しそうにタイトルを口にすると、彼はますます顔を顰めた。
「俺も観たよ」
「ええ、いつ!?」
「土曜日」
それもそのはず、水樹に映画に誘われたことを僕が真っ先に教えたからだ。彼は自分に声がかからなかったことを大変悲しみ、ひとしきり愚痴を述べ、頭を抱えたあと、僕たちより先に映画を観てしまうことで感情を宥めようとした。伊東の顔を見る限り、どうやら失敗しているようだが。
「じゃあ話が早いや。私は結構面白かったなって思うよ。落ち着いてる雰囲気も良くて……」
「まるで小説を読んでいるみたい、だろ」
「そう!」
「いかにも山村が好きそうな感じだった」
その通り、まさに僕が好きな空気、ストーリーを持った映画だった。
「周くんたら、しばらく認識がどうこう言って楽しそうだった」
「楽しかったんだからいいだろ……僕はトム・クルーズになるより、ああいう台詞に熱狂するタイプなの」
「ちょっと変態っぽい」
否定は出来ないなーと伊東も笑う。僕の話題になったことで、少し気分はマシになっただろうか。
そのあと水樹はあらすじに沿って、あのシーンはどうだった、色がこう変わっただの映画の細かい部分に話を広げた。僕は主に聞いていて、時折口を挟むくらいに留めておく。もちろん、伊東は熱心に議論に参加していた。
自分を棚に上げて、お前は映画好きでもないくせになんて思う。
一通り議論を交わし終えると、時刻はもう17時を回っていた。
「顧問のところに行かなきゃいけないの忘れてた……! 先に帰ってて!」
勢いよく立ち上がり部室から飛び出した彼女を見送ったあと、伊東は、ここからが本番だと言いたげに背筋を伸ばした。
「あのさ、山村」
「うん」
校舎の中は静まり返っている。窓の外から、キィンと小気味よい音が聞こえた。ついに来た、と心の中で言葉にする。とうとう僕は、伊東に成敗されるのだ……!
「山村は、恋愛で人が死ぬと思う?」
「……は?」
「だから、恋愛で人が」
「もっと分かりやすく言ってくれ」
「俺は今死にそうなんだ」
「それは大変だ、生きろ」
訳の分からないまま返事をしてしまった僕は、一度大きく深呼吸をして、改めて伊東の顔をまじまじと見つめた。
病気で死にそうなわけでもなく、心をガチ病みしているわけでもなさそうだが、水樹が出ていった扉を真っ直ぐに見つめる目は、どこか翳っているようにも見える。
「それってマジで言ってる?」
「もちろん」
「ちなみにどんな症状が」
「最近ずっと、動悸が酷くて、なんだか腹と胸の間くらいがソワソワしてるんですよ。常にめちゃめちゃ焦ってるっていうか。しんどくて」
「ははあ」
それだけで、確かにそれは死にそうですねとも、正しく恋ですねとも言えるはずがないけれど、伊東の目は真剣そのものだった。
「でもさ、恋愛がどうこうで苦しいのは今更なんじゃないの。伊東がそれで悩んでるのは、一応前から知ってるけれども」
いまさら、と繰り返して、彼は酷く傷ついた顔をした。なにか気に障ることを言ってしまったのかと一瞬焦ったが、特に思い至る点はない。
「そうなんだ、今更なんだよ。お前は馬鹿だけどたまに鋭いことを言うなあ、山村」
「馬鹿は余計だよ、事実でも言わんでいい……それで、どうして今更」
胸に溜まった霧を吐き出すように、長い長いため息をついた伊東は、それでも晴れない目で僕を見た。
「これがキッカケだとかは言えないんだ。今まではずっと、水樹がどこで何をしようと気にならなかったんだ。誰と遊んでいようが、いいんじゃないかなんて思ってたんだ」
うん、と相槌を打ちながら、僕は思い出していた。水樹が来る前の部室で話している時、かつて伊東はこう言ったのだ。「俺はそういうの、気にしない方なんだ」なんて、笑いながら。
「でも、最近は違うと」
「ほんの少しの見ないフリが、まあいいんじゃないかという言い聞かせが首を絞めていたというか、今になってやっと苦しいんだ」
その時僕の脳裏に浮かんだのは、先日観た映画の台詞だった。首を吊る時は安らかで、人生をなぞりながらゆっくり落ちていくような感覚だという。それが、とうとう死ぬという時に、溜めていたように苦しみが爆発して藻掻くのだ。
「このまま付き合うことなく卒業していくんじゃないのかなとか、そもそも俺って理屈っぽいから恋愛向きじゃないのかなとか、そんなことばかり考えているんだ」
「あの、恋愛に向き不向きってあるの」
「ネットで見たんだよ、感覚とか直感でする恋愛が本物で、理屈っぽいのは偽物だって。俺は水樹の好きなところを列挙出来るが、それは理屈で恋愛してるんじゃないのか。理屈で恋愛するやつは、向いてないんじゃないのか」
「お前が理屈っぽいのは認めるよ」
「そうだろう、そうだろう」
「恋愛に向いてないかどうかは知らないけど」
向いてないんだと断定して、彼は一層肩を落とした。どうしてこんなことばかり考えているのかというと、と話を繋ぐ。
「最近、お前と水樹がよく映画を観に行くようになった。前も時々行ってたけれど、ここ数ヶ月は特に頻繁だ。多分それで、今更焦ってるんだ」
やっぱりなと頷いた。その点は僕も自覚していたし、伊東がどんどん気にするようになっていくのも見てきた。
それでも僕が水樹の誘いを断らないのは、僕が水樹に恋をしているから。
なんてことは無くて、行ってこい俺のことは気にするなと背中を押す友人のせいだった。完全に伊東の自業自得である。
もちろん、それでも断る方が良いという意見には大賛成だが、正直、僕は面倒くさかった。断る労力が面倒だった。友人である水樹のしょげた顔を見るのが嫌だった。行ってこいと背中を押され、水樹が喜ぶのならそれでいいし、僕だってあのデートもどきが楽しくないわけではなかったから。
話し始めた時はぴんと伸ばされていた背中がこころなしか曲がっているのを見て、口を開く。
「あのさ、やっぱり僕、日曜日にお前も誘うべきだったと思うんだけど」
「いや、それはダメだ。水樹に誘われてないのにくっついてくなんて、邪魔をしてるだけだろ。自分で自分が許せん」
それは世にいうプライドってやつじゃないのかなと思ったけれど、言えなかった。窓を背にしている伊東の顔が逆光で酷く暗く見えて、迂闊な言葉を紡げなくなっていく。
「ここが好きだと列挙できる。だから好きだと断言できるけど、それはやっぱり、降ってきた訳の分からない恋愛の衝撃の代替品に過ぎないのかも。最近はそんなことばかり考えてるんだよ、山村。分かるか」
「分かんないよ……」
「水樹はあの性格的に、直感タイプなんだ。それに比べたら俺の感情なんて大したことないのかもってことだよ」
結局よく分からなくて、そうかと簡潔な返事しか言えなかった。第一、直感タイプだとか理屈タイプだとか、複雑怪奇な人間の性格を二つに分けて分類するなんて、はあそうですかと理解できる話じゃない。馬鹿馬鹿しかった。
ひとつはっきり分かったことと言えば、そういう馬鹿馬鹿しいことが胸に刺さるほど、彼が追い詰められているということだろう。
伊東の顔を見るついでに時計に目をやった。もう6時だ。良い子は帰る時間である。
「あのさ、僕は正直よく分かんないんだけど」
「山村はいかにもよく分からなそうな顔をしている」
「さらっとdisるんじゃない……まあ、分からないんだけど、相手の性格とか恋愛観とか、みんなただの認識なわけだし、気にする事はないんじゃないの」
「はあ、認識」
「それは数ある認識の中のひとつに過ぎないんだよ、たぶん」
もっともらしい台詞を引用して逃げると、僕は立ち上がった。そそくさと帰り支度を始めながら、またしても悶々としている伊藤のためにストーブのスイッチを切る。
「あっお前、酷い」
「もう帰んないと。怖いだと焦るだの言ったって、別に締切がある訳でもないし」
「あるよお、いつ来るのか分からん締切があるから悩んでるんだよお」
「またまたー」
帰り支度をする手を休めずに僕を睨む伊東は、俺も馬鹿だがお前も馬鹿だと吐き捨てた。
「分からんだろうがな、これは本当に怖いんだ」
部室の鍵を返却する時間が迫っていた。いずれお前にも分かると吐き捨てる伊東の悲痛な表情を盗み見た。
それを知る時の僕は、どれほどの痛みに苛まれるのだろう。人生のどこからどこまでを後悔して、意味もなく気に病んでしまうのだろう。つらく悲しいものが恋愛ならば知らぬままやり過ごしてしまいたいと、幼稚な心を持て余しながら、僕はふと、どこか遠くで鈴の音を聞いた。
ペンを差し出す彼女の手から鳴る、小さな音を、このタイミングで思い出したのかと思った。
幻聴ではなかった。
僕たちが大慌てで職員室に鍵を返したあと、ふと振り返ると彼女が立っていた。ファウストだ。
俯きがちでまともに顔も見たことがなかったけれど、初めて正面から捉えた彼女は、思ったよりも可愛くて、思っていたより更に内気そうだった。僕たちに気づかれてしまったことで酷く狼狽したのか、隠れる場所はないかと目を泳がせているように見えた。
「……あ。あ、の」
吹けば消し飛んでしまうような声だ。
彼女がもごもごと発声したことで、見なかったことにする方針は打ち砕かれた。どうにも僕まで緊張してしまって動けない。
「あれ? 藤川さんじゃん。どうしたの」
と、けろっと話しかけたのは伊東だった。内側では面倒くさいことをモヤモヤ考えている男でも、外側はコミュニケーション能力に長けた愛想のいい人間だ。
「伊東、知り合いなの?」
「まあね、水樹の代わりに部長会に出席した時、少し話したんだ。藤川さんは文芸部の部長だから」
へえ、そう、と間の抜けた相槌を打つ。伊東が我が部の副部長であることはすっかり忘れていたし、隣の席の彼女の名前も今知ったし、その子が文芸部の部長だなんて事実は当然初耳だ。僕の頭は今、物凄く忙しい。
藤川さんはしばらく無言だったが、よろけるようにして少しだけ僕に近づくと、何かを差し出した。左手に付けた小さな鈴が鳴る。
「あ、お守り」
僕がいつもリュックに付けている、交通安全のお守りだった。紐の部分が千切れていることから察するに、慌てて部室から出た際に落としたらしい。布製だから音もならなかったし、全く気づかなかった。
「落としてたんだ。ありがとう、失くすところだった」
「ううん……全然」
まったく山村は迷信深いなと笑う男を無視して、もう一度礼を言った。
「それとこの前はありがとう。シャーペン、本当に助かった。改めてお礼を言いたくて」
あの時もありがとうと伝えたけれど、彼女は頷くだけだった。もちろん僕が気の利いた一言を付け加えられるはずもなく、どこか居心地の悪さを感じながら丸1日シャーペンを借りた。
「あとさ、ファウスト好きなの?」
藤川さんは迷うように視線を落とし、小さな声で「本が好きなだけ」と答えた。
「ファウストが好きなんじゃなくて、本が、好き」
また鈴が鳴る。僕も本が好きなんだと答えた。ファウストが苦手と言わなかったのは、ちょっとした見栄だった。
「はいはいお話するのはいいですけどね、そろそろ下校時刻ですからね。流石に職員室の前はマズいっしょ」
手を叩いて急かされて、はっと夢から醒めたみたいだった。一体僕は、この短時間で何に没頭していたんだろう。
彼女はバツが悪いのか更に俯いた。消え入りそうな声で「それじゃ」と告げると、小走りで去ってしまった。
何気なく耳にした音楽が頭から離れないように、僕の意識のすぐ下で鈴が鳴る。滔々と恋愛について語る友人の言葉を上滑りさせて、理由もなく、脈絡もなく、波のように止むことがない。
「こんなに怖い思いをするくらいなら、何も知らない方が良かったんだろうな。こんなガキみたいな感情、捨てなきゃいけないんだろうが」
そうだね、と答えた。
帰宅してからSNSを覗くと、雑多な情報溢れるタイムラインに目を引く呟きを見つけた。綺麗な女性の横顔をアイコンにしたアカウントが、一目惚れの良さについて語っている。言わなきゃいいのに「理屈で好きになるなんて本当の恋愛じゃないと思う」なんて余計な一言を付け加えていて、それが何万ものいいねを稼いでいるのだった。
あーこれか、と思わず額を押さえる。恋愛について独断と偏見で語り、どこの誰が残したかも分からない格言らしきものを呟くらしいアカウントが、伊東の精神を大きく乱したことは間違いないだろう。
こんなことで悩まなくていいのにと呆れる一方で、伊東は元から自分の恋愛観を疑問視していて、たまたま今、それがはっきりと形を持って心を蝕んでいるだけなのではないか。
怖い思いをするくらいなら、と白い息と共にぼやく友人の姿を思い出した。人間はいつも、帰りたいと思いながら生きているのだという。それが親の胎なのか、過去なのかは、それとももっと遠い場所なのかは分からないけれど、こんな思いをするくらいならいっそ、と後悔しながら生きていくことしか出来ないのだろう。