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多面恋愛  作者: Ria
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第1話

 昨日よりずっと騒がしい教室の隅で、僕は隣の席を盗み見た。話したこともない、それどころか顔もまともに見たことがない女子生徒が本を読んでいる。カバーもかけずに堂々と広げているそれは、どうやらファウストらしかった。もちろん、鞄から取り出した瞬間に表紙を見たから分かる情報であって、僕がゲーテに明るいからではない。


「ねえ、今週末は空いてる? 人の話聞いてますかー? おーい」


 そこでやっと、目の前にいるクラスメイトに意識を戻す。

「聞いてた聞いてた、週末でしょ」

「土曜と日曜、どっちか空いてる?」

「うん……なんで?」

「なんでって、やっぱり何も聞いてなかったじゃん! 映画だよ。一緒に映画に行こうって話」

「そうだったそうだった」

 僕が上の空なのは、昨日の放課後に行った席替えで頭がいっぱいで、いつも話をするクラスメイトより優先されてしまった故だった。

 教室にいるメンバーは変わらないのに、景色は一変する。隣の席に座る生徒は、丸刈りで騒がしい野球部の男子から、大人しくて本が好きな女子になった。


「たぶん面白いと思うんだよね。良かったら感想まとめて月曜の部活で話し合うのもいいかなって……ほら、前にこの映画が話題に上がったでしょ」

「確かにそうだったね、日曜日がいいかな」


 実を言うと、僕は難しい文学が苦手だ。ゲーテだとか芥川だとか、文豪に類されそうな人の作品は軒並み手をつけられない。難しいというより、ちょっと古風な言い回しや構成が苦手なのかもしれないけれど、それよりかは今を生きて活躍する作家の方が好きだ。話すことに馴染みがあるし、頭に入りやすい。

 その点、映画は僕に向いていた。わが校の映画研究部は主に今の、新しい映画ばかりを取り扱っていて、古典とされるものには手を出さない。

 あの子はゲーテが好きなら、シェイクスピアも好きなのだろうか。夏目漱石は? ちなみに僕は、どれも苦手だ。


「なんで?」


 ぎょっとしてクラスメイトの目を見た。

「え、だって古くさくて」

「なんの話? 私は、なんで日曜日なのかって訊いてるんだけど……」

「ダメなの?」

「いや全然。土曜日はなんか予定でもあるのかなーって」

 長い髪を弄りながら問う彼女は、気になるものでもあるのか、僕の机の角を見つめている。

 もうすぐ授業が始まるけれど、彼女はどの席に移動したんだっけ。確か教室の反対側だったか。

「そりゃあ月曜の部活で話に出すんだったら、土曜より日曜だろ。記憶が新しいほうがいいし」

 あっと小さく声を上げて、彼女は繕うように頷いた。そうだよねと何度も繰り返す。

 ベルが鳴った。後でねと小声で呟いて、彼女は足早に去った。僕はちらと見送って黒板に顔を向ける。まだ教師は来ていないけれど、隣の席の女子はファウストを仕舞っていた。


 そこでやっと、ペンケースを家に忘れたことに気付いた。



 高校生活の中でたった1日だけペンケースを忘れてきたって死ぬわけじゃないのに、どうしてこんなに冷や汗をかくんだろう。

 僕は周りの席に座っている人のことを考えていた。どうして席替えをした次の日の朝にペンケースを忘れたのか、どこかに伏線はなかったかを考える。もちろんそんなものは無くて、かつ、授業が始まってから誰かに声をかける大胆さも持ち合わせていなかった。目立つことは恐ろしい。

 どうしよう。

 1時間近く黙って座っているだけなんて耐えられない。いつも真面目に勉強している訳でもないくせに、いざ忘れ物をするとこうだ。


 その時、鈴の音がした。


 思わず音の主に目を向けてしまった。隣の席に座っている女子はまっすぐ前を向いている。左手首につけているブレスレットには小さな鈴がついていて、彼女が可愛らしいペンケースをまさぐる度に控えめに鳴っているのだ。

 大声で教科書を読み上げながら板書をする教師の前では、殆ど無いに等しい音量だった。それでも、僕の耳にはよく響いた。

 彼女は僕を見ない。黒板に書かれた乱雑な字が世界の何より大切だというように前を向いて、微動だにしない。それでも、鈴のついた左手で僕にペンを差し出した。


 心音が五月蝿い。ヤケに緊張している。教師もクラスメイトの大半も、この一瞬のことなんて知らないはずなのに。

 僕は無意味に慌ててそれを受け取った。ほっそりした、黒いシャーペンだった。


 心底安堵して、何もありませんでしたよと言うように前を向く。彼女と二人して、言葉のひとつも交わしていないのに、揃ってまっすぐ黒板を見つめるのはおかしかった。真面目になった振りをしてノートに書き写しながら、この後のことを考える。授業が終わったらなんて言えばいいんだろう。

 ありがとうと礼を言って、あとは。

 もう一言くらい気の利いた言葉を付け加えられないかと思いながら、うわの空のまま文字を連ねていく。頭の中では、小さな鈴の音がいつまでも転がっていた。










 男は泣き崩れた。恋人を殺したのは俺じゃないと叫んでいる。薄暗い倉庫の床に縋るようにして、同じ言葉を何度も繰り返した。

 それを見下ろすのもまた男だった。綺麗な顔立ちだったが、その代わり冷たい印象を受ける。そうかもしれない、と彼は言う。そうかもしれないが、でも、それは数ある認識のひとつに過ぎない。



 映画館は満員で、年齢も住んでいる場所もバラバラな人間がひとつの部屋に集まり、大人しく席に座り、暗い中でスクリーンを見つめている。

 僕たちは飲み物も食べ物も買わなかった。同じ部活に所属する水樹とはよく一緒に映画を観るけれど、何も買わないのが二人の共通ルールだった。僕は本を読む時だって何も食べない人間だ。

 映画が終わると、照明がつくまで大人しく待ち、客が半分ほど居なくなってから揃って立ち上がった。僕たちは何も言わず、淡々と映画館をあとにする。向かったのは近くにあるファミレスだ。

 席について「ハンバーグステーキ」と注文するまで、言葉一つ発しなかった。これも、いつものことだ。

 注文を終えると、彼女はお冷を一口含んでから口を開いた。


「どうだった?」

「うーん、文学的」

「わかる。気がする」

「水樹はどう思った?」

「色が落ち着いてた」

「……色?」


 いつも思うけれど、僕たちの感覚は少しずれている。

「うん、全体的に画面が落ち着いてて、青色が多かったなあ。室内だろうが屋外だろうが、画面が青みがかってて冷たい。落ち着いた色を使っているから、雰囲気も終始落ち着いてた」

 そういう映画だったね、と彼女は言う。他人から言われてみれば、なるほど確かに青色っぽかったような。

「落ち着いてるってのは僕の感じたことと同じだなあ。現代を舞台にしてるけど、いちいち台詞が小説の一文みたいだった。映画の中に作られたリアルに没入する感覚より、外側から文学を楽しむ感覚に近かったんだ」

「あーなるほどね、それ分かるかも。私は確かに終始私だった」

「主演のトム・クルーズになったりはしない」

「そう。まあ主演は日本人俳優だけど」

 ふふ、と笑みながら水を飲む彼女は、それなりに満足そうだった。


「わざと、なんだろうなあ。これは映画ですよ、あなたはそれを鑑賞していますよって分けられている気がした。私はそういうの、あんまり多くないかなって思うんだけど」

「小説だろうが映画だろうが、共感して自己投影してもらった方が熱狂するもんね」

「そういう方が、売れる」

「つまり僕たちがさっきまで楽しんでた映画は売れないと」

「そそ。どうでもいいことだけどね」


 彼女は本当にどうでも良さそうにへらへら笑って、店内をぐるりと見回した。どうやらこれは水樹の癖らしく、レストランやカフェに入ると決まって店内を観察する。どうやら知り合いがいないか気にしているらしいが、そもそもここが学校からほど近いところにある時点で、警戒しても無駄なんじゃないかなあとは思う。

 しばらくして「おっ」なんて声を上げるもんだから、とうとう同級生を見つけたのかと思ってしまった。店員だった。

 彼女は運ばれてきたハンバーグステーキに歓声を上げると、楽しそうに肉を切り始める。映画を観るたびに来ている店なのに、美味しいものを前にするといつも大喜びをするのだ。

 素直な人だなと思う。


「でもさ、やっぱり面白かったよ。売れるとか売れないとか正直よく分かんないけど、自己投影して楽しめる映画が好きな私が楽しめたんだから……ああ、美味しい」


 水樹は映画好きだけど、映画に取り憑かれているわけじゃない。監督や脚本に興味を示さないし、なんとなく気に入るか、面白いかで評価する一般的な人間だ。殆ど帰宅部と化してる映画研究部に所属するにはぴったりだ。

 かく言う僕も同じようなもので、もっと言うと映画より本が好きなもんだから、あまり偉そうに語ることは出来ない。

 でも、感想は自由だ。なんて言っても、ちゃんと鑑賞した上であれこれ言い合うのは誰にも邪魔されない。


「そうだね、僕も楽しめた」

「そりゃ、周くんはああいう雰囲気のが好きでしょ。本の虫らしい」

「ぜんっぜん違うよ。虫に謝らなきゃいけないくらいだよ」

「謝りに行く?」

「幸運なことに、まだ紙魚に出会ったことがないんだ。面識がなくて何より」


 そう言えばあの子……隣の席のファウストこそ、本の虫らしいではないか。この年でゲーテを読み漁るなんて。


「それにしても、結構名言が多い映画だったなあとも思うなあ。心に残る一言があるっていいよね」

「僕はラストシーンの台詞が好きだな。それは数ある認識のひとつに過ぎない」

「ああ、それわかる。懐が深い」

 フトコロ、と僕は馬鹿みたいに繰り返す。

「そそ。確実に起きたひとつの殺人だって、もし犯人がやってないと言い張るなら、そこにやってないっていう認識がひとつあるわけだし……まあ、事実がどうであれ」

「そういう認識もありますねって認めてるということか」

「その後に、他の認識もありますけどねって付け足すところがとても冷たい。やっぱり懐深くないです」

「認識なんて人の数だけあるしな。どれが正しいとされるか、後は多数決か」

「人間は冷たいなあー……」

 もぐもぐとハンバーグを頬張りながら、どこか感慨深げに呟いた水樹は、ちらと盗み見るように僕を見た。



 食事を終えると、水樹は少し身を乗り出して僕を見た。なんだか目がキラキラしていてたじろぐ。天気がいいからだ。晴れているから日差しが入ってきて、グラスに反射して目をキラキラさせているんだ。つまり、僕は今日の天気に動揺してるんだ、たぶん。


「あのね、これはひとつの認識なんだけど」

「なに」

「これから駅前のCDショップに二人で行くものだと思ってるの」

「おお……どうして」


 当然、と言いたげに胸を張った。曰く、水樹が愛してやまないアーティストのニューアルバムの発売日だとか。


「今日、これから行かなきゃならないの。もちろん周くんも一緒に来てくれるものだと思ってるんだけど」

「なるほど、それは確かに認識のひとつに過ぎないなあ」

 でしょ、と笑う彼女の顔は、ほんの少しだけ陰っている。これを断ることが出来る人なんているんだろうか。


「水樹が行きたいところについて行く1日だと思ってるよ。毎回そうだし……これはあくまでひとつの認識」

「ほんと? じゃあ満場一致ということで、これから世界一素敵な音楽を買いに行こう!」

 太陽に照らされたように、彼女の顔が明るくなった。ころころ変わる表情は見飽きることがない。



「ふふ、行きたいところについて行く1日なんて、デートみたいじゃない? 照れるー」

 なんて言えばいいのか分からない僕は、「ああ」なんて馬鹿みたいな返事をするしかなかった。こういう、僕の中のマニュアルにない言葉には、なんて返すのが正しかったんだろう。


 結局、CDショップにカフェまで付き合った僕は、月曜日のことを考えていた。部活で顔を合わせる友人に、今日のことをどう報告すればいいんだろう。



 水樹に誘われるまま遊んでなあなあにしてる僕を、やはりあいつは咎めるだろうか?

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