赤い約束
小学生になる前の最後の夏祭り。颯太が保育園で私を誘ってくれた。お母さんに聞いたら、夜祭だから大人が付き添うのが条件らしい。うちのお父さんとお母さんには予定があると言われたが、颯太のお母さんが行ってくれることでやっとオッケイをもらえた。
私は特別に自慢の浴衣を引っ張り出す。お母さんに着付けだけはしてもらった。黒地に赤いバラと鳥の羽のような模様が付いていて、ピンクの腰紐がアクセントになってとても可愛い。少し紐で体が締め付けられるような感じがしたが、颯太にはどうしてもこの浴衣を見せつけたかった。
颯太がTシャツに短パンで涼しそうな格好だったのを見て、「せっかくオシャレしたのにちょっと私だけ飾りすぎ?」と心の中で思った。
でも、颯太の顔が少し紅くなっていて、「どうして頬が紅いの?」と尋ねると、「暑さのせいだわ」と答えていた。
祭りの熱気が私たちを飲み込んでいく。大人たちの掛け声で山車が方向を九十度回転させる。木のきしむ音と地面がこすれる音が混ざり合う。周辺のギャラリーからは歓声が上がる。
山車に付いている三百個以上の提灯が、動く東京タワーのように見えた。付き添いで来てくれた颯太のお母さんも「すごいねー」と言って拍手を送っている。
私がお母さんからもらったお金は五百円。綿菓子とリンゴ飴を買ったら残りは百円ぐらいしかなかった。颯太もそれくらいしか残っていなくて、私たちは最後に駄菓子の屋台に向かった。二人で合計した金額ではそれくらいしか買えなかった。
屋台のおじさんは首にタオルをかけている。頭のてっぺんが剥げていて、汗で光っていた。思わず颯太と二人で笑ってしまった。
私たちは駄菓子の詰め合わせを買ったが、どうやって半分に分ければいいか分からなかった。颯太のお母さんは、近くにいた近所のおばさんたちと話し込んでいたので近寄りがたい。
「恵里はお菓子少しでいいだろ。女だから太るぞ」と颯太が言ってきたので、「あんたこそ譲ってよ。男でしょ」と言い返す。「太るのはお互い様だし」と付け加えておいた。
「俺のほうがお金多く払ったんだ。普通俺のほうが多いだろ」
「金額はそんなに変わらないじゃん」
ここで引きたくない。颯太に負けるのはなんだか悔しい。「お前が多くていいよ」っていうまで負けないから。
颯太も顔をこわばらせていた。鋭い目が私を見ている。さっきよりも顔が紅くなっていることに私は気づいた。
おそらく私も同じように颯太をにらんでいるのだろうなと思った。
幼馴染で家も近所。親同士も仲が良くて気づいたら遊び相手はいつも颯太だった。元気が良くて、輪の中心にはいつも颯太がいた。颯太が気になりだしたときの、保育園の年長になってすぐのことを思い出す。
遠足で、バスに乗って遠くの公園に行ったとき、トイレに行って帰ってきたらみんなの姿が見えなくなっていた。担当の先生の確認ミスだとあとから教えてもらったけど、そのときの私はすごく恐かった。一人ぼっちになってしまって、わんわん泣いたのは今でも覚えている。
そんなときに助けてくれたのが颯太だった。颯太は私がいないことに気づいて辺りを探し回ってくれていた。私を見つけると颯太は手を握って、一緒に集合場所まで連れて行ってくれた。
みんなと合流できたけど、心臓は、手を握ってくれたときからドキドキしていた。私と変わらず小さい手だけど、ギュッと強く握ってくれた。颯太の手はあたたかい。私が繋がっている手をやさしく握り返すと、不安そうな顔をしていた颯太の表情が和らいだ。手の感触を思い出して、帰りのバスでは颯太のことが見られなくて、一人で顔を紅くしていた。
颯太のことを気になっていることは知られたくない。だから、むきになって颯太に反抗する。
本当は喧嘩したいわけじゃない。正直になれない自分が恥ずかしかった。
颯太はまだ引こうとしなかった。
私は少し強引に駄菓子の入った袋を持っていこうとした。
それで言い争いを終えようと思ったが、「お前いい加減にしろ」と言って、いきなり体を突き飛ばされた。その勢いでアスファルトに思いきり手をついた。手のひらと肘のあたりがひりひりする。持っていた駄菓子の袋からお菓子をぶちまけた。映画館でポップコーンを落としたときのように、ラッピングされたお菓子たちがばらばらになっていく。颯太にこんな乱暴なことをされたのは初めてだった。
涙が出てきた。傷が痛かったからだけではない。颯太に嫌われてしまったと思ったのだ。
着せてもらった自慢の浴衣も、道路に残っていた土埃で汚れてしまった。
今日は楽しい日になると思っていたのに。
私はショックでしばらく立ち上がれなかった。
周りで見ていたお客さんたちはこっちを見ながら通り過ぎて行った。
騒ぎを聞きつけた颯太のお母さんがこっちに走ってくる姿を、涙を拭いた目でとらえることができた。
颯太は自分がしたことの重大さに気づいたようだった。開いた口から、何か言葉を発しようとしているが出てこない。颯太の周りだけ真空状態になっているみたいだ。
颯太のお母さんは私を助け起こしてくれ、浴衣に付いた埃も払ってくれた。
その後、颯太のほうに歩み寄っていきなり頬をぶった。
「バチン」という音が私の耳にも届いた。
目を向けるとそこにはさらに頬が紅くなった颯太がいた。目に涙のしずくが溜まっていた。唇を噛んで、ぶたれたところを抑えている。
今にも泣きそうな顔をしていたが、わざと痛みを感じて、別のことに頭が回らないようにしている。
「女の子を傷つけるなんて何考えているの。恵里ちゃんに謝った?」
いつも口角が上がって、楽しそうに笑っている颯太のお母さんが、鬼のように見える。角の生えた、お面でも着けているかのようだ。
「……まだ」
「今すぐ謝りなさい」
颯太は私のほうにゆっくり顔を向けた。
「……ごめん、恵里」
「うん、こっちこそ。いっぱい悪口言ってごめん」
私も謝る。颯太の顔を見ていると、私の涙は自然にひいていた。
乱暴されたことは覚えている。でも、いきなり颯太がぶたれ、厳しい口調で責め立てる颯太のお母さんを見ていると、私のせいで颯太が怒られているような感じがして、泣いていることがいけないことだと思った。
「ごめんね、恵里ちゃん。浴衣も汚れちゃったし。肘から血も出ているわね。痛かったでしょ?」
その問いには、はっきりと答えることができなかった。答えるとまた颯太がぶたれてしまうと思ったからだ。「もうこれ以上ぶたないで、颯太のお母さん」と心の中でつぶやく。颯太がぶたれるのはもう見たくない。お願いだからもう止めて。
颯太のお母さんは、私の傷の具合を確認して、また颯太に向き直った。
「恵里ちゃんは女の子なのよ。傷が残ったらどうするの? あなた責任とれるの?」
激しい剣幕を颯太に浴びせた。
また涙の量が増えた。もう少しで涙をせき止めていた堤防が決壊しそうなとき、颯太は言った。
「俺が……。俺が責任もって面倒見る。恵里は俺がずっと見守る」
言った瞬間、颯太の顔はさっき食べたリンゴ飴のように紅く、真っ直ぐに私の目を見ていた。
横で聞いていた颯太のお母さんは笑っていたが、私も颯太の目を見つめ返した。
数か月後、私たちは小学校に上がった。その間の六年間、私はプロポーズのことで颯太をからかった。
中学も高校もそのネタで颯太をいじった。
大学の四年間も、颯太のネタは好評だった。
そして現在、私は颯太の横で祭りの道を歩いている。カステラや、唐揚げなど、定番の屋台が道の両側に見える。カップルや子供連れの家族が、美味しそうに口を開けている。
二十年前と祭りの熱気は全く変わっていない。
「あれ、何の屋台かな?」
颯太に聞かれたが、私は、見つけることができない。
「見えないのかよ。恵里小さいな」と笑われた。
「身長のことは言わないで」と反論すると、「ごめんごめん」と頭を撫でられた。
中学生まで背は同じくらいだったのに、最近はよく、髪の毛を上からくしゃくしゃっとされる。髪型は崩れるけど、颯太にしてもらうと、何だか心が安らぐ。指が私の髪を流れていく。まだ颯太に守られているのだと実感する。
つないだ手には、颯太を意識したときと同じように汗をかいていた。
今も家では、あのプロポーズのことをからかい続けている。
私たちはある屋台の前で足を止めた。首にタオルをかけた、あのおじさんの店だ。顔にはしわがたくさんできていて、当時光っていた頭は、新陳代謝が悪くなったのか、汗をかいてはいない。側頭部分にあった髪の毛は全部白髪になっていた。
この人は、私たちがここまで成長するのを、駄菓子の屋台をしながら、待ってくれていたのかもしれないと不意に思った。この人はどれだけ老けようとも、この場所にいてくれる。
(おじさん、ありがとう)
聞こえるはずのない声を唱える。
心の中で言い終わったとき、おじさんの顔は、安心したような、見ている私たちも心が洗われる顔をしていた。
私は「今日はちゃんと二人分の駄菓子買ってよね」と颯太に言うと、
「ばーか。三人分だろ」と言って、つないでいた手をギュッと握ってくれた。