海底王国アクエリウム
自分で作ったとはいえ、透明の階段を使って下へ降りるというのは非常に怖い。天界にいったときはまだ妙な安心感があったが、ここは落ちたら死にそうだ。
ついでに目の前のこいつの狙いがわからない以上、いつでも空間転移で逃げられるように気を張っているのも精神的に疲れる。
彼女からすればこの道程は慣れたもののようで、先ほどからくるりと側面から向こうの水中を回ったりする余裕まである。
アイラがリエさんにこんなことを提案した。
「ねえ、リエさん。敬語やめてもらっていいよ? 実年齢は知らないけど見た目的にも少し年上でしょ?」
そう。人魚族が長寿であろうとなかろうと、俺たちの見た目よりは二つ三つ年上にいつまでも敬語というのは慣れない。
「いえ、頼む側ですので」
そう言われると何も言い返せない。
正論だからだ。俺たちもまた、敬語を使っていないのはそういう理由からであり、明確に立場には上下がある。
やや距離を感じるから崩してほしかったんだけど。
何の足応えもない透明の床は、見えない底まで続かせてあり、俺が作るのをやめるとあっという間に下まで落ちていく。
三人の命をこうも直接握る機会はない。なんともストレスのかかる作業である。
だがそれでも自分がしていることはこの世界でも十分異常だということは自覚している。だからこそ、人目の多い街中でこれを練習する気にはなれなくて、旅の最中にちまちまと固定だけを練習していたのだ。
「それにしても凄いんだな、この穴を一人で作るなんて」
ふと探りを入れてみた。いくら水魔法が得意だからといって、これを作るのは容易ではない。
リエさんはあっけらかんと。
「いえ、私一人の力ではないですよ? これは海の底へと陸の者を招きいれるための装置で、これを使うには面倒な手順を踏まなければなりません。それだけ重要な設備なので本来なら他所者に存在を話すだけでも駄目ですね」
なるほど。この人はうまい。
俺の探りに対して必要以上に答えることで信頼の証とするってわけか。
その重要性を伝えながらも、露骨には恩にきせないことで嫌味を感じさせない。そして美人でもある。
この人をここに寄越したのはアクエリウムの奴らにとって賢い選択だったといえる。
サメの魚人とかシャチの獣人とかだったらもっと警戒していたかもな。
だがそれさえも計算のうちであるならばむしろ警戒は解けないままだ。
本当に頼み事をするだけならまだいいんだけどな。
「あっ、そうだった」
俺は海の側面に手をつけても大丈夫かどうかを確認した。
「大丈夫ですよ」
「では、失礼して」
ぽちゃんと海水の壁に手を突っ込む。結構深いところまでやってきているので、随分と冷たい。突っ込んだ手に魔力を集中させて、そこに向かって叫んだ。
「クラーケン!!!」
だがその叫びは魔法によってコントロールされ、三人と一人の耳にダメージを与えることはない。ビリビリと振動が手から伝わり、海の周囲へと拡散されていく。
「へー、呼ぶんだ」
「あいつも来たほうが楽しいもんな」
「せっかく海の中なんだしね」
三人はクラーケンも連れていくことに特に疑問はないようだ。
「何をなさるおつもりですか?」
リエさんだけは事態を理解できずにやや敵意のこもった目で尋ねた。
「クラーケンは海の中でもかなり危険な魔物。巨体に加えて高い知能、複数の手足と敏感さで死角さえない。他にも凶悪なものはいますが、それでも私たちにとって危険な魔物の一つです。呼び寄せるということは敵対していると見てよろしいですか?」
「ちょっと待て、誤解だ。敵対するために呼ぶならもっとこっそり国についてからするよ。どうしてこんな危険な状態で呼ばなきゃ駄目なんだよ」
ただ単に約束を忘れていただけだ。
クラーケンと行動を共にしたほうがいいしな。
「じゃあ、どうして」
「クラーケンは俺たちの部下だよ。仲、いいんだ」
「何を馬鹿なことを言っているんですか。知能の高い魔物は自分より上と認めたものにしか服従しません。人間が海の中のクラーケンを圧倒できるわけないじゃないですか」
だから引きずり出したんじゃねえか。
百聞は一見に如かず。実際に見てもらった方が早いということで、クラーケンに来てもらった。
さすがは海の上級魔物。遠く離れた場所からでも俺たちの声を聞きつけて駆けつけてくれた。
底まで続く穴の側面をぐるりと取り囲むようにクラーケンが現れた。
水族館で見たことのあるようなこの光景。もしもクラーケンが敵なら一巻の終わりだな。勝てる気がしない。
「お呼びですか?」
「ああ。今からアクエリウムに行くんだけどお前もついてこいよ。俺がいいと言わない限り自分から手を出すんじゃないぞ」
「本当に言うことを聞いている……冗談でもなんでもない主従関係とは……」
リエを含む方々は頭は回れど地上の情報にはまだまだ疎いようだ。俺たちがクラーケンを配下にしていることは別に隠していない。ちょっと調べればわかることだ。それを知らないということは、精霊からの情報だけで動いているということであり、俺の人間としての立ち位置は知らないと見ていいだろう。
それを知るのにも一役買ってくれたな。
それからはクラーケンにビクビクしながら下へと降りるリエさん。
ここでの優位性は完全にひっくり返ったと言える
そんな大人気ないことのために呼んだわけではないが、やはり人がビクビクしているのを見るのは楽しい。
しかもそれが自分の行動が原因ならば尚更である。
螺旋階段状にすることで滑らかに下っていけるようにしたとはいえ、かなり長い。途中面倒くさくなって直線距離を全員で転移したのはややせっかちだったかもしれない。
いいんだよ。ちゃんと降りられたんだから。
頭上の光も見えなくなってきたあたりで、海の中に建造物が見えた。
周りには大小様々な種族がぐるぐると回り、建物の半分からは空気の球のようなものが溢れそうになっている。
「もしかして、あれかな?」
「そうじゃない?」
アイラとカグヤが指差すそれこそまさに海底の楽園、アクエリウムであった。
◇
クラーケンとともに深いところまで潜ってきたが、海溝とまでは大袈裟かもしれないが、大陸棚ぐらいは余裕だろう。
国の入り口では名前と種族、ここに来た目的などを尋ねられた。クラーケンについては暴れた場合俺たちの責任ということで入国許可を得た。しかし俺たちよりもやや審査は甘かったような気もする。やはり魔物でも知能が高ければ住むことのできるこの国では、人間の方が危険と見られているのかもしれない。
身元保証人としてリエさんがつくとなると、下半身がタコの兵士の人も恐縮して俺たちを通してくれた。
「これを身につけてください」
リエさんが差し出したのは透明感のある服だった。水色にところどころ緑が入っていて、アクセントに金糸があしらわれている。
これがこの国の制服だろうか?
「なにこれ?」
両手で受け取ったあとぺらんと目の前に広げたロウが尋ねた。
やや女性的なデザインもあり、男に無条件で着るようにと言われれば反抗したくなるものなのかもしれない。
「水神の羽衣といって、水の力から身を守ってくれます。それを着けていれば水中でも濡れずに喋ることもできます。ただ、空気がないことには変わりないので呼吸にはお気をつけください」
随分と危ないシロモノだな。うっかり呼吸を忘れたらどうしてくれる。
だが水圧から身を守れるのは嬉しい。この国で空気の中から出れば人生終了なんて勘弁ねがいたいからな。これはあくまで補助器具として見ることにしよう。
「じゃあ呼吸はどうするんだよ」
「それについては私たちもよくわかりませんが、ここには一定量の空気があります」
ふと見ると前世では見たことも聞いた事もないような奇妙な海藻が空気のある場所の中央部分に生えていて、そこからポコンと空気の球がでている。その粘膜と魔力が周囲に空気を押しとどめているようだ。
光合成による酸素の生成と他の動物たちの呼吸による消費が釣り合っているのだろう。
「あんなので不都合はないのか?」
俺が聞いたのは他でもない、海藻の光合成に頼っているだけでは酸素のみの気体があの中を構成しているはずだ。
ならばあんな場所で生物が住めるとは考えられないのだが。
「時々精霊様が地属性の魔法を行使します。すると空気が通常に戻るそうですが……私たちにもよくわからないような問題を指摘しますね。海底の空気の問題など人間が知るはずもないのですが……」
なるほど。窒素は地中から用意しているのか。そうか生物の体からだろうか。どちらにせよ精霊達は本能的にそのことを知っているんだろう。精霊ありきの国家なんて初めて見た。
「ウタから多少は聞いてるんだろ? ちょっとばかり人の知らないことを知ってるだけだ」
「深くはお聞きしないでおきましょう。ただ、この場所では炎魔法の使用は厳禁ですので」
「わかってるわ。私たちも危ないのにそんな馬鹿な真似はしないわよ」
カグヤにも空気の構成成分についてはよく教えてある。
風魔法を行使するのに中身を知らないとかお笑い草でしかないからだ。
当然、燃焼には酸素が必要で、それを失えば俺たちが呼吸できなくなることも理解している。
こいつらが経験則から漠然としか知らないことを知識として体系だてて理解しているからこその強さだ。
この程度のことは注意されるまでもない。
リエさんに国の中心へと案内されていく。元々中心に一番近い入り口を選んだらしく、さほど時間はかからない。
道ゆく住人たちは物珍しげにこちらを窺っている。やっぱ人間って珍しいのか。
「こちらが我が主の屋敷となります」
リエさんに案内されたのは城とも言える大きさの屋敷であった。
どことなく某海賊漫画の魚人の国を思い出しますね。




