お願いだから、帰らせて!
事の起こりは、二月前。
リュネヴィアンという国の北東にあるモンペリエアという地。そこで暮らす男爵令嬢、ロシエラ・モンペリエアは父である男爵に呼び出された。
森が多く、厳しい気候に悩まされるこの地域の屋敷は、石造りで堅牢に出来ている。
そんな慣れ親しんだ屋敷の廊下を歩きながら、ロシエラは首を捻った。
金色の長い髪が肩から滑り落ち、海の様な色の碧眼はふわりと視線を泳がせる。
何故呼び出されたのか、いまいち分からなかったからだ。
最近は大人しくしていたと思う。護衛のケインを引っ張って森や街に下りたりもしていないし、メイドのアンヌに一族に伝わる秘術を教えろと迫ってもいない。
彼女は先月二十歳になったのだ。そんな子どもっぽい事は卒業である。……本当はすごくやりたいけれど。
厚みのある窓ガラスの外には黒っぽい雲が広がって、春だというのに肌寒い。肩に掛けたショールを巻き直して、ロシエラは小さく身震いした。
思えば、それは寒さでは無く、悪寒だったのだ。
なぜなら、呼び出された父の執務室で、彼女はこう告げられたのだから。
「ロッシィ、いや、ロシエラ。お前とアザンクレル伯爵との婚約が決まった」
うっかり娘の愛称を口にしてしまってから、モンペリエア男爵は改めて言い直す。
「アザンクレル?」
それ、どこ……?
ロシエラの偏った知識の中には無い単語に、彼女は顔を引きつらせた。
知らない。つまりそれは彼女の好みでは無いという事で、つまりそれは彼女の苦手な地域だという事に他ならないからだ。
そして、現在。
ロシエラは婚約者たるシルヴェストル・アザンクレル伯爵邸の一室で、顔を覆っていた。
「もう駄目ぇっ。本気で駄目! 死んじゃう。溶けちゃう!」
リュネヴィアンという国の南西に位置するこの地域特有の陽光が燦々と降り注ぎ、白を基調とした鮮やかな色彩の部屋を輝かせている。
その部屋の真ん中にいるロシエラは市井の評判通り、『太陽神ソレイユの愛し子』に相応しい美しさを誇っていた。
淡い黄色のドレスは温暖な気候に合わせた薄地で、透ける様に白い肌を故郷の衣装よりも露にして、彼女の魅力を引き立てている。婚約者が手ずから髪に飾ってくれた淡い赤色の花は金糸の如き髪に彩りを添えていた。
しかし、ロシエラの顔色は悪い。
彼女の白い右手がわきわきと動き、ソファに置かれていたショールを掴んで頭からひっかぶった。
そこでようやく、ロシエラはほっと息を吐いた。
一部始終を見ていた青年が、ぼそりと言う。
「お嬢、もう諦めたんじゃ無かったのか?」
背の高い青年だ。茶色の髪は短くてつんつんと立っている。バランスのよい大きさの瞳は金色で、瞳孔が細長く、獣の色合いを放つ。シャツに皮のベストを合わせたシンプルな格好に剣を履いていた。
人狼族のケインである。ロシエラの護衛として彼女が十歳の頃から一緒にいる。
そんなケインを見上げて、若い主人は恨みがましく低い声で訴えた。
「諦めきれるものですかっ。こんなに眩しくって明るくって、会う人会う人みーんな笑顔で、次から次へと果物だの飲み物だのをくれるのよ。おかしいじゃない!」
「……人情に厚いんだろ? いいことじゃないか」
長い付き合いであるからして、ケインにはロシエラの言いたいことが理解出来ていた。
しかし、アザンクレル領に来てから二週間。この地方では珍しい人狼族の彼にも親しくしてくれる人々のことだって庇いたくもなるものだ。
勿論、ロシエラ自身もこの地が良い土地だということは実感している。
してはいるのだが、彼女にも譲れないものがある。
「知ってるでしょう、ケイン? 私は、私は……」
そこでぐっとロシエラは息を吸い込んだ。
少し顔をうつむけて、更に低い声でこう言った。
「朗らかさなんて嫌いなのよ。明るい光も華やかな色合いも大嫌いなのよっ。……暗くて黒い色に囲まれて生きていきたいのよっ!」
血を吐く様な、叫びだった。
ロシエラの故郷は、鬱蒼と繁る森に囲まれ、晴れの日が殆ど無い薄暗闇の続く土地柄である。
灰色の雲と雨と雪、そして雷が何時でも見られる。
そんな気候と土地のせいか、人狼族や黒羽族、そして暗族といった闇を好む一族が多く住んでいた。
彼らを治めるモンペリエア男爵の長女として生まれたロシエラは、明るく華やかな外見とは裏腹に、実にモンペリエアの女と言うに相応しい内面を育んだ。
つまり、暗闇や暗色が大好きで、大きな声で朗らかに喋るよりも小さな声で陰気に話す方が好きで、花や宝石よりも薬草や魔術に傾倒していた。
そんなロシエラにとって、アザンクレルへ嫁ぐことは寝耳に水。薮から棒。鬼の目にも涙。……これは違った。
とにかく、この婚約は想定外で、考えるだに恐ろしいことだったのだ。
ショールの端をきつく握り込んで、ロシエラは続けた。
「食べ物も美味しいし、善良な領民ばかりだというのは分かるわ。分かるけどっ、何もこんなに明るくなくていいじゃない! 皆が皆、輝く様な笑顔を向けて来て、その度に、私、灰になるんじゃないかって怯えているのよっ?」
この台詞、彼女は本気で言っている。
モンペリエアでロシエラが親しくしていた人達は、ひっそりと控えめに微笑むのが常であった。
だから、明るい陽光の元で向けられる笑顔にあんなに破壊力があるなんて知らなかったのだ。
「と、特にシルヴェストル様よ。なんなの、あの、貴公子然とした容貌で、どうしてあんなに微笑む必要があるの? わけわからない。あの方はきっと、私を溶かしたいのよね」
そうとしか考えられない!
喚くロシエラに、呆れ返っていたケインは、ふと人の気配を感じて振り返った。
そして、視線の先にいる人物に、顔を引きつらせた。
「あ〜、お嬢、お嬢」
まだぶつくさ言っているロシエラに、声を掛ける。
「金色の髪に紫の瞳よ? まるで物語の王子様みたいだわ。そんな本に興味は無いけれど。でも、そんな人が笑いながら手をさしのべてくるとか、その手を掴まなくちゃいけない度に、私、体力が半分くらいになっちゃうのよ。……え? 何?」
一頻り話してから、ロシエラはケインの呼び掛けに気が付いた。
顔を上げると、護衛は不器用な笑みを浮かべたまま後ずさりしていた。
「悪いんだけど、俺、用事を思い出してさ」
「え?」
基本的に、ケインの仕事はロシエラの護衛である。
繰り返すが、彼女と一緒にいることが彼の仕事である。
「……トイレ?」
口にしてから、別に聞かなくても良かった、とロシエラは思った。
「うん。それでいい。だから、……じゃあなっ」
素早く踵を返し、ケインは出口に向かって一直線に歩いていった。
途中、人影に一礼して、あっという間に部屋を出てしまった。
そして、残されたロシエラはケインが一礼した人物に気が付く。
夢見る様に潤んだ碧眼が大きく見開かれた。
「……シルヴェストル、様」
生成りの、けれど上質なシャツと、スラックスと揃いのベストを着て、彼は静かな瞳で扉の横に立っていた。
「……………………」
語るべき言葉を見つけられずに、ロシエラは暫く黙って視線を泳がせていた。
すると、婚約者とは扉を挟んで反対側に、実家から共に来た侍女の姿を見つけた。
ロシエラの憧れ、黒髪黒目を持つ、暗族のアンヌである。
「ア、アンヌ、貴女……」
シルヴェストルを部屋に入れたのは、この侍女以外にいない。
ロシエラは誰よりも信頼していた彼女に裏切られた様な気持ちで、胸が重苦しくなった。
主人としては、叱責してもいい、と言うより、叱責して責任を追求すべきなのかもしれないが、彼女にはそう出来なかった。
ただ、震える声音でこう言うしかない。
「どうして、アンヌ?」
婚約者の屋敷とは言え、ロシエラのプライベートな空間である自室で、決して他に聞かせてはならない心の内側を吐露している場面を、よりにもよって婚約者当人に見せたのである。
アンヌは、じっとロシエラを見つめた。
「このまま、お嬢様が御心を隠されたままご結婚となれば、それは双方にとって良い結果にはならないでしょう。これが、良い機会と愚考致しました」
その言葉に、ロシエラはきょとんと瞬いた。
「え?」
「お嬢様、きちんと考えていることをシルヴェストル様にお伝えなさいませ。貴女は嘘が致命的に下手なのですから」
反論しようとロシエラは口を開くが、この侍女に彼女の嘘が見破られなかったことは無く、言い返す材料は一つも無かった。
そんな主の様子に、ほんの少しだけ口の端を上げて、アンヌは丁寧に礼をした。
「では、どうぞ、お二人でご存分に話し合われて下さい」
失礼致します。と彼女は部屋を出て行ってしまった。
呼び止めようと伸ばしたロシエラの手は、虚しく空中を漂った。
「ああ……」
行き場を無くした手を回収して、再びショールの端を握り、彼女は横目で婚約者を見た。
シルヴェストルは侍女の去った扉を暫く見つめていたが、やがてロシエラへと視線を移して来た。
思わず、ロシエラはその視線を避ける様に背中を向けてしまった。
まずいことをした、と思っても後の祭りで。彼女は、でも、振り返る勇気を持て無かった。
視線は泳ぐし、唇は震えるばかりで何の言葉も形作らない。いや、そもそも、何を言っていいのかわからなかった。
その時だ。
しゃっ、と軽い音がして、室内が少しだけ暗くなった。
「え?」
驚いて顔を上げると、シルヴェストルが窓辺に立ってカーテンを閉めているではないか。
「シルヴェストル様……?」
おずおずとロシエラが声を掛けると、彼は両手でしっかりと二枚のカーテンの端を引き寄せてから彼女の方を向いた。
完璧に日の光を防ぐことは出来ないにしろ、大分暗くなった室内で、シルヴェストルは小さく首を傾げる。
「暗闇が好きだというのは、こういうことで合っているのだろう?」
その一言に、ロシエラはぽかん、と口を開けた。
「違う?」
再び尋ねられて、彼女は激しく首を振った。
「暗くなればいいのです。ま、眩しい光は苦手で……」
もじもじと両手の人差し指を絡ませながら、ロシエラは上目遣いで婚約者を見上げる。
薄闇の中で、彼はすとん、と感情を落とした様な表情をしていた。
夜目のきくロシエラは、その表情の奥に憤りを感じられなくて戸惑った。
はっきり言って、彼女は先程シルヴェストル自身や彼の領地について散々なことを言ったのだ。普通は、怒りなり悲しみなり、何らかの感情が湧いてきて、それをロシエラにぶつけて来るものだろう。
しかし、彼は冷静だった。
ただ、少し、何か考える風ではある。顎に手を当てて、視線はぼんやりと。
戸惑ったロシエラは「どうしようどうしよう」と考えて、かくん、と膝を床に落とした。
特に意識をした訳では無くて、自動的に足の力が抜けてしまったのだ。きっと自己嫌悪のやり過ぎなんだろう。
彼女の口はこんな言葉を勝手に紡いでいた。
「ご、ごめんなさぁい……」
ほとほと情けなく眉を落として、くしゃりと顔を歪ませて、そうしてロシエラは大層苦手な婚約者にようやく謝罪した。
「申し訳ありません! ほんとうは、貴方も貴方のご領地の方々も何も悪くない、すごく良い方ばかりだって、知っているんです。でも、でも、私、どうしても馴染めなくって……」
ぐすっと鼻を啜る。
「うう〜……。生まれた時からずっと暗いところが大好きで、ほんとは、こんな明るい色の服も、着ているとちょっと鳥肌たったりするんですけど」
そう言って、自分のドレスの裾を嫌そうにつまんで、ぺっと指を離す。
「でも、それだって色が悪いわけじゃないし、でも、私こんなんだから、似合わないしっ。花とか髪に差されても、正直、全然ムリって感じだし!」
ロシエラは自分のことが分かっていない。
何せ憧れているのが、黒髪黒目で青白い顔色、黒いドレスに黒いヘッドドレスなのだ。趣味では無いものを着た自分がみすぼらしいのだと思い込んでいた。
実際は、彼女の着ているドレスは『彼女以外の誰が着こなせるのか』というくらい似合っているし、シルヴェストルが散歩の途中でロシエラに贈った赤い花は照れて微笑む少女に艶を与えていた。
「お義母様は優しくって、執事さんや侍女さんは朗らかで親切なのに、私いっつも『このままじゃ絶対上手くいかない。ボロが出る。目から溶けちゃう』って怯えてたし」
どれもこれも相手に落ち度は無くて、ロシエラが勝手に思って勝手に恐れていただけだ。
「だから、ごめんなさいっ。出来るだけ早く、婚約を解消しましょう。私、私、ほんとうに溶けちゃうっ。ムリなんだもん!」
全然ムリ、ごめんなさい!
わあっ、と床に額をぶつけながらうつ伏せて、ロシエラはそう締めくくった。
ぐすぐすとしゃくり上げながら、彼女は暫くその姿勢でいたのだが、なんの応答も無いことに気が付いた。
そして、妙な気配を感じ、体を起こす。
「…………?」
手の甲で涙を拭いながら顔を上げると、窓辺に立っているシルヴェストルの表情が変わっていた。
「え?」
ロシエラが頬を引きつらせる程、彼は素晴らしい笑顔を浮かべていた。
思わず、彼女は床の上で「ひいっ」と後ずさった。
その距離を、僅か数歩でシルヴェストルは埋めてしまう。
「君は僕が何を話しても、無難な返事と笑顔を返すだけだから」
「え、え?」
更に下がるロシエラの前で彼は片膝をついた。
眩しい笑顔が僅かな距離の先で光を振りまいている。
「面白みの無いつまらないご令嬢だと誤解していたみたいだ」
否定の意味で、ロシエラは激しく首を振った。
「全然、全然っ、私は面白くもなんとも無いです!」
けれどシルヴェストルは一層笑みを深めて、緩く首を振る。
どうしよう、光が結晶になって攻撃してきてる気分……。と、ロシエラは絶望的な気分になった。
笑顔が痛すぎる。
完全に怯え切ったロシエラの手をとって、シルヴェストルは天使の様に慈悲深い表情をした。
「本当に、僕や領地への悪言を申し訳ないと思っている?」
それは事実だから、ロシエラは必死で頷いた。
「心から謝罪致します。だから、こんな私はアザンクレルには相応しく無いですっ」
帰らせて、と懸命に訴えるが、対する婚約者はこんな形で彼女の揚げ足をとった。
「じゃあ、償いに、僕に嫁いでくれるよね、もちろん」
「つ、償い……?」
紫の瞳に神妙な色を浮かべているが、その奥には愉悦の色があるのに、ロシエラは気が付いた。
地下から出て来て目がくらんだモグラを猫がいたぶる様な、そんな色だ。
「だって、君の言葉に僕は深く傷ついた。僕の領地や領民たちもそんなことを言われたら傷ついてしまうよ」
「は、はい……。もう言いません」
そこで、シルヴェストルはしっかりと頷いて見せた。
「そんな風に自戒出来るロシエラ・モンペリエア嬢。君みたいな女性こそが、僕の妻になるべきなんだよ」
弱者とは強者がわかるという。
いや、本能で自分が敵わない相手を嗅ぎ取るという。
シルヴェストル・アザンクレルの太陽の如き笑顔を見て、ロシエラ・モンペリエアは悟った。
あ、駄目だ。終わった……。と。
おまけ**
「んで、お嬢と若君を二人っきりにして、あんたは何をやっているんだ?」
ロシエラの部屋の前の廊下にしゃがみ込んだアンヌに、ケインが声を掛けた。
黒い髪と瞳の侍女はじっと床のタイルを見つめながら答える。
「影映しで、お嬢様のご様子を見ています。ご結婚前の若者を二人きりにするべきではありませんもの」
「……………………つまり、出歯亀、っいて」
アンヌの足元から飛び出た影が、ケインの額をどついた。
「監視、と訂正させて頂きますわ」
「変わんねえし」
ぼやきながら、ケインはアンヌの隣に腰を下ろした。
「で、今はどうなってんだ?」
「お嬢様が奇声を発して後ずさりしております」
「……それ、マズくねえの?」
あわやロシエラの貞操の危機か、とケインは腰を浮かせたが、アンヌの影がそんな彼の茶色い尻尾を掴んだ。
勢い、ケインはひっくり返って壁に頭をぶつけて悶絶した。
「問題はありませんわ。あれはお嬢様の謝罪の仕方の一種です」
激しく曲解しているアンヌの台詞だったが、その状況が見えていないケインは頭をさすりながら「無事なら、いいが……」と呟く他無い。
痛みが少し引いたところで、人狼族の護衛は、暗族の侍女にこう聞いた。
「あんたさ、お嬢がこういう地域に馴染めないってわかってんだろ? なのに、若君との仲を取り持つってどういう風の吹き回しだ?」
アンヌは彼女の主が兄とも慕う護衛に、ちらりと視線を送った。
そして、ぽつりと呟く。
「お嬢様を幸せに出来そうな殿方が、なかなかいらっしゃらないからですわ」
「はあ?」
「わたくし、お嬢様に相応しい殿方を、旦那様と一緒に探してきましたの」
モンペリエアの領内は真っ先に。それから、ロシエラが好きそうな地域を隈無く。
けれど、中々身分や容姿の釣り合いがとれる者は見つからなかった。
「そうは言うけどよ。あのお嬢なら『モンペリエアに定住する男なら誰でもいい』とか思ってそうだけど?」
それに対して、アンヌは神妙に頷いた。
「その通りです。お嬢様はご自身の嗜好に合う地域に住んでいればどなたにでも嫁いだでしょう」
しかし、如何せん。ロシエラは『太陽神ソレイユの愛し子』と語られる容姿の持ち主なのだ。
「下手に釣り合わない方とは、それだけで不和の要因になりますわ」
ロシエラは相手を気遣うし、気遣われた男性は自信を失ってしまうだろう。
「え〜、そんなもん、そうなった時になんとかすればいいじゃないか」
ケインは夫婦になった後のことまで気にするとは、と白けた表情をした。
ところがアンヌは大真面目に首を振る。
「いいえ。お嬢様は往々にして後ろ向き思考なのです。そんじょそこらの能天気や楽天家では太刀打ち出来ない程の後ろ向き加減なのです」
「……ああ、うん、そうだなぁ」
侍女の断言に、ケインは彼方を見つめた。
アザンクレルに嫁ぐことが決まってからのロシエラの『お先真っ暗』っぷりはすごかった。
毎日毎日呪詛の如く「もう駄目、全然ムリ」「絶対うまくいかないから」「溶けちゃうから、溶けちゃうから」と言い続けたのだ。
「そんなお嬢様に最も相応しいと選ばれたのがシルヴェストル様です。あの方はご自身の都合の良い様に事実をねじ曲げる天才です。なによりも、あの腹黒さがお嬢様の好みにぴったりですわ」
「腹黒いのか、あの若君……」
「真っ黒です」
しっかりと頷くアンヌに、ケインは唸り声をあげた。
ロシエラに激しく同情したのだ。
それからアンヌは、遠い昔を見る様に、ほんの少し瞳を細めた。
「それに、お嬢様は昔、ああいう方と結婚したいと仰っていましたし」
「絶対、それ嘘だろ!」
叫ぶケインを無視して、アンヌは可愛いお嬢様がまだ五歳かそこらの頃を思い出していた。
一族から離れて男爵家に仕え始めたばかりのアンヌの後を、おぼつかない足取りでロシエラはついて歩いたものだ。
『アンヌ、アンヌ、影映しは私にも出来る?』
好奇心が旺盛で、この頃から彼女は暗族にご執心だった。
『いいえ、お嬢様。影映しは暗族の秘技。人族のお嬢様には出来ませんわ』
『……どうして?』
暗族の秘技に夢を抱いていた幼子は悲しそうに顔を歪ませた。
青い瞳から、頬を伝って大きな涙が零れ落ちる。
『わたし、闇が好きよ。夜の森も怖くないわ。お日様なんかよりお月様が好き。大好き。それなのに、暗族の術は使えないの?』
ふわふわのほっぺたを優しく撫でながら、アンヌは夜色の瞳を細めた。
『ロッシィお嬢様。生まれ落ちた種族を変えることはできません。それは理というものです。同じ様に、月が輝くには日が必要で、闇があるからには光がある、これも理なのです』
『……そうなの?』
初めて知った、と言いたげに、ロシエラは涙を止めて大好きな侍女を見た。
真っ直ぐな視線を受けて、アンヌはひっそりと微笑む。
『お嬢様、ですから、光を厭うのは、無意味なことですわ』
『無意味……?』
きょとん、と瞬いたアンヌの天使は、きっとこの会話を忘れてしまっているのだろう。
「さて、お嬢様がそれを思い出した時、一体どうなることやら……」
この会話には続きがあった。
それはこうだ。
『貴方が好む闇とは、光があって初めてそこに存在するのです。つまり、闇を好むならば光も受け入れなくてはいけないのです』
『んと。闇と光は、いつも一緒ってこと?』
『ええ。番のように』
『つがい、ってなあに?』
『ご夫婦のことです』
『……じゃあ、ロッシィは光と結婚すればいいのね?』
『そんなに嬉しそうに言わなくても……』
『じゃあ、ちゃんと光も好きになる!』
『……それが宜しいかと』
空を見上げて晴れやかに笑った少女に、黒衣の侍女は静かにそう返した。