花と宝石
感情を映して煌く瞳を綺麗だと思ってしまったから。
いつもその瞳が宝石のようにあればいいのに、なんて願ってしまう。それでも自分は時が来れば今までと同じように、ただ何の感情も無く彼女の命を刈り取るのだろうけど。
いずれこの手で散らす花を大事に慈しむような、そんな矛盾をおかしいとは思わない。ただ自分自身をひとでなしと嘲笑うだけだ。
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「なに……私に?」
無造作に華奢な包装のされた箱を渡すと、大きな瞳が瞬き、「ありがとう」と彼女は、砂糖菓子のように酷く甘やかに、そして模造品のように微笑んだ。
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最近の竜胆は、変だ。
いや、変と言い切れるほど彼という人物を知っている訳ではないのだが。
なんの記念日でも無い平日に薄紅色の石が光るかわいらしいデザインのネックレスをプレゼントしてきたかと思うと、ありがとうと微笑む逢を見ていきなり不機嫌になりフイと外に行ってしまった。
次の日からは小学生がするようなささやかなちょっかいを度々かけてくるようになった。真顔で。
なんだというのだろう、本当に。強いて心当たりがあるとすればあのネックレスだろうか。お礼を言っただけなのに。
今も彼は水浸しで帰って来たかと思うとそのまま逢を後ろからキュウキュウと抱きしめている。まるで大きな子供だ。水を含んで重たい色になったパーカーに触れているワンピースが冷たく湿気ていく。竜胆の銀灰の髪から垂れた水が首筋に滴り、逢はビクリと体をすくませた。本当になんなのだ。嫌がらせか。嫌がらせなのか。
さすがに夏とはいえ風邪をひきそうだ。抗議しようと顔を後ろに振り向かせ、そこで逢は深く紫を沈めた黒檀の瞳に射られて体が硬直するのを自覚した。
ああ、まただ。また、この目だ。
いつかの朝と同じように、ここ数日と同じように、竜胆は観察でもするかのような無機質な、酷く温度の無い眼差しで逢を見つめていた。
この瞳に捕まると、逢は上手く笑えなくなるのだ。酷く落ち着かなくなって、上手に言葉を紡げなくなるのだ。
いま、この時のように。
「り……竜胆、最近変だよ……」
「……別に、そんなことねえよ」
やっとの思いで声を絞り出すと、彼は眉間にシワを寄せて逢の頬をムギュウと抓り、それを最後にあっさりと離れていった。
本当に、何だと言うのだろう。
視線から解放され強張っていた体から力が抜けていく現状を情けなく思いつつも、逢の頭は依然とっちらかったままだった。
うまく、いかない。
あの目を前にすると逢は本当に無力で、今まで自分がどう振舞っていたのか、何を話していたのか、全て分からなくなってしまうのだ。
まるで心の皮を一枚一枚丁寧に剥がされていくような、奇妙な感覚。不愉快でも不快でもないけれど、焦燥と混乱が全身を支配して早くなんとかしなきゃ、ああ早く逃れなきゃ、と思うのだ。
当の竜胆はそんな風に未だ動揺に瞳を揺らす逢を見て、一言つぶやいた。
「出かけるぞ」
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違う、あの顔じゃない。自分が見たいのはあの顔じゃない。
いつからだろう、ふとした拍子に彼女が見せる笑顔が酷く無機質な瞬間があることに気付いたのは。
笑顔だけでなく、怒った顔も、困り顔も、ともするとはしゃいでいる時でさえも瞳だけがガラス玉のように透き通っている瞬間に気付いたのは。
きっと彼女自身も自分がそうしていることに気付かないのだろう。
そこにあるのは泣き笑い喜び傷つく感情ではなく、「このタイミングではこの感情」というただの反射のような。いや、彼女自身も楽しくて笑っているのだろう。ただ、心の底の透明に凍りついたようなような揺らがない自我が冷静に彼女自身を見ているような、そんな印象。
そんなものが見たいわけじゃない。
あれはいつだったか、静かなあの目にハッキリとした感情の揺らぎを見た時から、竜胆はそう思うようになっていた。
それほどまでに美しかったのだ。あの時の、・・金色の瞳が感情を宿し爛々と煌めく様は。
「……ねぇ、竜胆」
「ん、なんだ」
「川になんかあるの?」
「特に何も無いけど?」
あの後、逢を連れて出かけたのはいつか二人が出会った川原だった。あれからそんなに経っていないはずなのに、何故か酷く昔のことのように思える。
足下の砂利道から石を拾い、流れに投げる。小石は夏の太陽を浴びてトロリと光る、流れの途絶えた吹き溜まりに細波をたてて沈んでいった。まるで今の自分達に横たわる関係性のようだ。そこまで考えて竜胆は苦笑いを浮かべた。はたしてこの場合の小石は自分なのか逢なのか。
「特に何も無いのに、川なの?」
「本当は何処だってよかったって言ったら、お前どうする?」
「どうもしないよ。出掛けたかったのは竜胆でしょ」
「……そういえばそうだったな」
「へんな竜胆」
逢はやじろべえのように両手を広げてバランスを取りながら土手を歩く。その動きがなんだか童のようで面白かった。先程まで強張った表情をしていたのだが、機嫌は青空を拝み回復傾向にあるらしい。
「そんな俺も嫌いじゃないだろ?」
「まぁねー」
言葉遊びのように問いかければ冗談めかした軽い答えが帰ってくる。二人で児戯にも似た言葉を戯れ代わりにつぶやきながら川の流れを遡るように歩き続けた。
着の身着のまま部屋から連れ出したから、逢は家の鍵以外は何も持っていない。
自分もナイフの一つも、小銭すら無かった。
本当に、身一つ。
それが、なんだか酷く体が軽くなったような、もう何処までだって歩いて行けるかのような錯覚を抱かせていた。
何の気無しに逢の振り回している腕を手に取る。華奢な掌は太陽に火照ったように熱く、こんなときでもヒンヤリとしている竜胆の手に体温を分け与えるようだった。
冷たい温度と温かい温度が重なって、二人のぬくもりが均一になっていく。
そんな当たり前のことがなんだか愉快でしょうがなかった。逢などこの間まで差し出した手を見てキョトンとしていたのに、今は竜胆の隣ではにかんだ笑みを浮かべている。その差に、竜胆はまた少し心が軽くなったような気がした。どうしてそう思ったのか一瞬考えたけど、まぶしすぎる太陽を前に複雑怪奇な思考は霧散する。
ただ、逢が隣に居る。
きっと、二人でどこまでだって行ける。
いつの間にか途絶えた会話の代わりのように、二人で掌を握りしめて、ただ二人は黙々と歩いた。
「あ!」
どれほどそうしていただろう。不意に逢が何かを見つけて走り出した。
スルリと繋いでいた手が離れる。別たれた同じ温度に竜胆は少しの寂しさと違和感を覚えながら彼女の背中を見送った。
「ねぇ、見て!竜胆!」
ふと、明るい声のする方へ吸い寄せられるように視線を向けると――
「見て、綺麗」
いつの間にか暮れかけた橙の太陽が逢の横顔を照らす。あぁもうそんなに時間が経ったのか、そういえばまず家を出た時間が遅かったんだな。そんなとりとめないことが頭を過る。時間の感覚を見失うほど、彼女と歩く道は緩やかな空間だったということか。
逢は、暮れなずむ夕陽に照らされ仄かに茜に染まる白い花々の中で綺麗に笑っていた。
それは、ただの風景の一部の何でもない土手。ぼうぼうと野放図に生える夏草に紛れて白い百合が群生しているだけの景色だ。
だけど逢が、あんまり鮮やかに笑うから。
初めて会った時の、恋がしたいと呟いた凄惨で虚ろな笑みでもなく。夜の街で会った時の、挑みかかる殺気に満ちた笑みでもなく。ただ、僅かに目を細めて笑うから。だから竜胆は、ガラにもなく安心したのだ。あぁ、大丈夫。コイツはまだ大丈夫だ。美しいものを見て美しいと「笑う」ことができるなら、大丈夫。そう思って。
竜胆は手近にあった丈の長い草を数本むしると、リースを作るように丸く編み込み始めた。元々手先は器用なのだ。あっというまに作り終わったそれに摘みとった一輪の百合を差し込む。そうしてできた冠を花畑を眺める逢の頭にそっと乗せた。
本当は花冠のようにしようと思ったのだが、きっと逢は嫌がるだろうと思い直し止めておいた。なんとなく、自分のために無闇に咲いてる花を散らすのを良しとしないような、花は嬉しいけれど咲いていた花が自分のために摘まれたかと思うと花に申し訳ないと思ってしまうのではないかというような、そんなイメージが逢にはあった。
だが一輪くらいは許してほしい。だって竜胆は柔らかく笑う逢にどうしても白く薫る花を飾りたいと、衝動的に思ってしまったのだから。
「……ありがと…」
びっくりしたように百合から竜胆に視線を移して条件反射のように礼を言った逢の顔を覗きこみ、その瞳が予想外の事態に見開かれていることに気付いて竜胆は笑った。
「うん、綺麗だ。逢」
例え嫌悪や苛立ちに歪んだ顔でもいいから、感情を語る黒曜石のような瞳を見ていたかった。現に、装飾品を渡した時の、それこそ装飾品のような言葉より、今の一言の方が何倍も嬉しいのだから。
願わくは次に竜胆のせいで見る表情は、笑顔がいいなとすら思う。
この娘はもっと、世界が美しいことを知ればいい。もっと此処に執着すればいい。
仕事内容を考えれば自分がどれだけ酷いことを言っているかは分かる。いずれはこの百合のように彼女も手にかけるのに。でも、そう思わずにはいられなかった。そう望む自分はたぶん外道なのだろう。
それでも、いいから。いつか憎んでもいいから、今は、笑って。
「綺麗だよ」
もう一度ぽつりと呟き逢の頭を撫でると、三秒後には逢の顔が瞬間湯沸し器のような勢いで真っ赤になったので、竜胆は分かりやすい反応に笑いながら逢の手を取った。
ああ、そんな顔が見たかったんだ、と。
「日が暮れてきた。帰ろう」
家へ――自分と逢の、帰る場所へ。
手をつなぐと、触れあった場所の分子レベルの細胞はお互いに混じりあって一つになって境界線がなくなるらしいですね。すげぇ