風邪の日
とんでもないことに気付いてしまった。どうやら自分は思ったよりも同居人に心を許しているらしい。
一人でも、一人じゃなかった。それでも寂しかったというのか。いきなり与えられた他人の温もりに動揺して、それでもいつか消えるものなのだと線を引き、なのに気がつけばその温かさにみっともなくすがり付こうとする自分を知った。
だって、竜胆が、あんな顔で笑うから。
醜態だ。なんというかもう醜態以外の何物でもない。自分を殺す相手に取りすがってどうする。欲しいのは臓腑が焼けるような執着じゃない。甘ったるい箱庭だ。
しかし逆に良かったのかもしれない。二つ並べられた茶碗、話しかけたら返ってくる声、隣り合う体温、その全てに幸せを感じ始めた自分。一人でも構わないのだと凍らせた意識を溶かされる危険な気配。きっとこれ以上このまま放置すれば自分の見たくない部分まで踏み込むこととなっただろう。今ならまだ間に合う。
線を、引くべきだ。目に見える明確なやつを。
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案の定というべきか、風邪をひいた。
いつもは体調が悪くなっても一時的なもので、翌日に続いたり本格的な不調になることは無いのだが、いかんせん今回は状況が状況だった。竜胆はずぶ濡れのまま布団に入ってきていたらしい。起きた時点で逢の服を含めて布団が水気を吸って重たくなっていた。これではどれだけ温かい布団を被っていても無駄というものだ。
今朝竜胆に飲まされた謎の液体のおかげか熱はそんなに出ていない。むしろ風邪をひいたにしては症状が軽すぎるくらいだ。それでも立ちくらみが酷く床からは起き上がれそうになかった。
意識が朦朧とする。カーテンの向こうの空は焼け付くような色で輝いているの気付き、どうも自分はあれからまた眠っていたらしいと初めて理解した。
「おー、起きたか」
「りんどう……?」
物音を聞きつけたのだろうか、静かにドアを軋ませて顔を覗かせた竜胆は、逢を見てのんびりと部屋へ入って来た。
「びっくりしたぜー、薬湯飲んだと思ったらそのまま倒れて布団へ逆戻りだもんなー」
どれ、という言葉と共にピタリと額に掌が付けられる。水仕事の途中だったのかヒンヤリと冷たい温度が気持ち良くて、逢は目を瞑った。
「ん……下がってきてはいる、でもまだ熱あるな……」
昼間の奇妙に静まり返った部屋に竜胆の低い声が響く。
「今朝の薬湯はあれで切らしてるんだったな……逢、葛根湯でも買ってくるから大人しくしてろよ」
その言葉に目蓋を開ける。横になっている体がクラリと揺れた気がした。どこかに落ちてゆくような感覚。それが熱のせいなのか心のせいなのか、分からなかった。
掌を離して離れようとする竜胆の服を、やっとの思いで伸ばした重たい腕で掴む。それは反射に近い行動だった。瞼裏に昨日の闇がちらつく。熱に浮かされた脳ではもう何も考えられない。
こちらを振り返る竜胆を納得させられるだけの上手い言い訳を考えるのに精一杯で、自分の心情など把握していられない。逢は掴んでいたパーカーの裾を無理やり離し、しぼりだすような声を出した。
「く……薬はいいから、何か食べたいの……」
作って、と上目遣いにお願いすれば、竜胆は仕方なさそうに肩をすくめた。
「しょーがねーな。何が食べたい?」
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
「冷凍庫のスーパーカップでいいか?」
「迷わずラクトアイスを選択するあたり愛を感じない……」
「真夏に雪を要求してくるような奴にはそれで充分だ。それだけ下らないこと言えるなら大丈夫そうだな。粥を作ってやるから食え。食わないなら口に突っ込んでやるけど」
「それ実質選択肢一つだよね?」
もっと労わってよと呟くと食わなきゃ体力戻らないだろ。と返ってきた。病気の治し方がスパルタすぎる。この人もしかして病気でも動き回ってる人を見たら「寝なきゃ治らないだろうが」とか言いながら気絶させるんじゃないだろうか。
「わーかったよー。食べるよ食べる。食べるから早く作って」
そう言って部屋から手早く竜胆を追い出すと、逢は枕に頭を押し付けながら苦く笑った。
大丈夫、口はいつも通りすべらかに言葉を吐き出している。好調だ。きっとさっきのだって病気で少し弱っていただけのことだ。熱がひけば、こんな感情消える。消えるに決まっている。
危険信号を受信してラインを決めようと思ったばかりなのに、さっそく駄目になりかけているなんてことない。
もう自分は離れられなくなってしまったのではないだろうか。そんな微かな不安に蓋をするように目を閉じる。暗い視界の中で冷たさの残っている額だけが竜胆の気配を色濃く残していて、まるでそこに本人が居るような奇妙な錯覚に逢は唇を噛んだ。