月夜と鬼
その女を見たのは、本当に偶然だった。
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竜胆はその日、仕事を終えて夜の繁華街をフラフラと歩いていた。パーカーのフードを深く被っているにも関わらず、通行人とぶつかることはない。フードからはみ出た濡れ髪から乾ききらない雫がポタリと落ちた。
仕事が終わったら水をかぶって血の匂いを落とす。それは竜胆のポリシーだった。血の匂いなど纏っていたくない。一刻も早く落としたいとすら思う。彼女が聞いたら、それは矛盾だ。そんな仕事をしているくせにと笑うだろうか。
竜胆はつい最近出来たばかりの「彼女」を思い出してクスリと笑った。
逢は不思議な娘だ。殺しに来たと言ったのに怯えも揺れも無い、まるで老木の洞のような空虚な瞳で此方をまっすぐと見返してきた。かと思えば恋がしたいなどと夢見がちな少女のようなことを言い出す。実際少女なのだから、そんなことを考えてもおかしくはないのだが。
なぜだかあの全て諦めたような空気を纏う彼女とは、とことん縁の無い言葉のような気がしたのだ。今時の、ただの娘だというのに。
その違和感に興味を引かれて、気がついたら条件を了承していた。選ばせてやるとは言ったが、こんなに長期戦に持ち込むつもりなどなかったのに。
おかげで掛け持ちでいくつか仕事をやらざるおえなくなってしまった。
そんなふうにして現状を作り出した原因の娘のことを考えていた時だった。通り過ぎようとしたビルの間の薄暗い横道。その闇の中で何かが動いたような気がして、竜胆は足を止めた。
目をこらしてよく見てみたが、特に何も無い。しかしそのまま視線をなんとなくビルの上に移した竜胆は、普通人間社会で見るものでは無い光景を見た。
人が、跳んでいた。
煌々と光る赤い満月を背後にビルとビルの間を、あきらかに人間ではない跳躍力で。
こちらが見ていることに気がついたのだろうか。夜空を舞うその影が、一回ビルに着地した後、こちらへ向かって飛び降りてきた。
一般的な人間が落ちれば普通グシャグシャになる高さを、人影は猫のように難なく着地する。一拍遅れて背に流された長い髪がフワリと舞った。
深く被ったキャスケット帽、口元は巻かれたストールに隠され見えない。何処かの学校の制服だろうか、深緑のプリーツスカートから伸びた足は真夏だというのにロングブーツに覆われていた。
そうして、星のように瞬いた金の目がこちらを真っ直ぐに睨む。目があったと思った瞬間、何故か一瞬心臓が音を立てて跳ねたような気がした。
まるで、気高き孤狼を見たかのような、そんな印象。
「ふん、悪鬼がうろついておるから狩ろうと思うたのに、お前フランシスカとローデルハイドの縁者か」
澄んだ声が響く。耳馴染みのいいその声をよく知っているような気がして、竜胆は言われた言葉の意味を理解するまでに少しかかった。
「なんだそれ、誰と間違えてる?俺はそんな奴知らないぜ?」
「知らなくてもお前は二人の血縁だよ。お前の匂いはあの女によく似ている」
「それを言うならお前も俺の知ってる奴によく似ているよ」
彼女とはずいぶんと違う雰囲気だけれど。
「ふん、そうだろうよ」
思いがけない肯定を匂わせる声に、どういうことだとと問い返すより早く、少女は竜胆に背を向けた。
「何処行くんだ?」
「……お前には関係なかろう」
少女は肩越しに竜胆を振り返るようにして睨むと少し不快そうに眉間にシワを寄せ、目をふせるようにして渋々答えた。何かに答える時に目をふせるようにする、そんな仕草すらなんだか彼女に似ているような気がして竜胆は可笑しくなった。ついついそのまま彼女にするようにキャスケットの後頭部を撫でると、今度こそ完全に振り返った少女に射殺されそうな殺意に満ちた目で睨まれてしまった。
「さわるな」
ブンと振りかぶられた腕を避け、竜胆はついでとばかりにその鋭い爪の手を掴んだ。避けていなければ今頃顔が血まみれだ。
「ぅおっと、そう怒んなって。ついうっかり。まあ、それはいいとして、お前が何処行こうと確かに自由だけど、せめて人里をうろつくつもりなら爪はしまえ。それからビルの上を飛んだりとかも止めろよ」
「余計なお世話だ」
「うるせぇ、自己保身の延長線上だ。お前みたいなのが一般人に見つかるとゴシップ誌とかが騒いで超迷惑」
その言葉に少女は嘲笑うように目をすがめた。
「そちらこそ、一般人を気取るつもりなら私を見て悲鳴の一つでも上げたらどうだ?そして逃げ惑うがいい」
竜胆は肩をすくめてその言葉を流す。少女の言葉は正論だが、そうして衆目を集めた場合は双方が大変困った立場に陥るのである。
かたや人間の括りの外に居て、かたや警察のお世話になりそうな商売だ。
「まあいいけど。その帽子は絶対取んなよ」
「……よく分かったな」
「さっき頭撫でた時に手に当たった」
驚いたように目を見張る少女にニシシと笑うと、また不愉快そうに睨まれた。つくづくよく睨んでくる少女だ。もしかして嫌われているのだろうか。頭を撫でたのがよっぽど気に喰わなかったのかもしれない。
少女に嫌われるのは、なんだか嫌だった。だがその思いに反するように、もっと少女を怒らせてみたいとも思う。
満月のように金に染まる瞳が怒りを、感情を宿して爛々と輝く様の、なんと美しいことか。まるでそれは宵の明星の光のように路地裏の闇の中で竜胆を惹きつけた。
薄暗がりの中でス、と背を伸ばして佇む少女は、未だこちらを睨んでいる。そういえば少女の名前すら知らないことに今更ながら思い至った。
通りすがりに、偶然出会っただけの異形の少女。ただそれだけのことなのにここまで興味を引かれるのは何故だろうと竜胆は己に首を傾げる。もしかしたら、少女が妙に彼女に似ているせいかもしれない。
「お前の名前、なんていうんだ?」
「……ふん、しょうがない。フランシスカの血縁であるお前には敬意を払ってやる」
だから俺はフランシスカとかいうソイツを知らないんだって。そう言葉にする前に少女が動いた。
頭に被ったキャスケット帽を取り胸元に持ち、膝を折るようにして僅かに身体を傾ける。
目をふせて礼をとるその少女の額には―――二本のねじれた角。
「鬼姫紅葉が娘。授けられた名はアヤメ――自分では殺女と名乗っている」
漆黒の長い髪が夜風にザワリと揺れる。目をふせたその姿は、やはり逢とよく似ていた。
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「ただいまー」
「あ、おかえり竜胆。ていうかオハヨウ」
居候している逢の家にたどり着く頃には、夜が明けていた。目をこすりながらノソノソと起き出してきた逢と出くわしたので、とりあえず抱きしめる。世にいう恋人というものはおそらく四六時中こんなことをやっているのであろう。
「……竜胆、血の匂いがする。仕事帰り?」
「ああ。……匂うか?川で落としてきたつもりだったんだけどな」
「ああそう……川!?だからちょっと藻の匂いもするの!?うわああちょっともう離して!!移る!藻の匂いが移る!!」
腕の中でジタバタ暴れるくぐもった声が面白くて、竜胆は笑いをこらえて腕に力を込めた。
「いいじゃん。共有しようぜ。なんか世のカップルって大体みんなこんな感じのことやってるんだろ?」
「そんなのカップルに対する偏見だ!藻の匂い共有するカップルなんて居るかー!!ぎゃあああ本当に離して!藻の匂いがする女子高生なんて嫌ああああああ!」
腕を離して逢の顔を覗きこむと、心底迷惑そうな、不快と嫌悪を織り交ぜたような複雑な色の目をしていた。間違っても恋人に向ける類の目では無いと思う。
でも、流れの止まった湖面のような顔よりは、ずっと好ましい。
竜胆は逢が全力で嫌がるにも関わらず、もう一度強く彼女を抱きしめた。
人間外に遭っても動揺しない竜胆。
ファンタジー色強くなってきたなあ・・・・・・