安堵
失うのだろうか。
川の中に浮かび、今まさに魚を切りつけんと構える彼女の後ろ姿を見た瞬間、そんな言葉が頭をよぎった。
何を失うのか、そんなことも判然としないまま自分の中に浮かんだ想いにぎょっとする。
だめだ、まだ、だめだ。そんなふうに急かされているような気分になった。
強迫観念に近いそれに背中を押されるように竜胆は逢の手を取る。しかし彼女の細い掌を握った瞬間、竜胆は酷い違和感に眉を潜めた。
待て、まてまてまて。
誰だこれは。
こいつは――どっちだ?
最初は水に満たされた、自分達がさっきまで居た世界とはほんの少しだけズレている空間、いわば魚のテリトリーに入ったせいで分からなかった。そこら中に魚の匂いが散漫して、鼻が効かなくなっていたのだ。
だけど手を掴めるほど近づきその瞳を覗き込んで、竜胆は背筋に寒気が走ったのを感じた。
匂いはいつも通り甘ったるい鬼姫のもの、気配も弱々しい人間のものなのに、何故、肌が痛いほどに殺気だった妖気を纏っているのだ。
――何故、瞳が金に輝いているのだ。
だめだ、こいつを早くここから出さなければ、そうしなければきっと何もかもが駄目になる。
もはや予兆のようなその考えに突き動かされるように、竜胆は力任せに逢の腕を引き上げた。そのままこの場を去るべく泳ぐ。
ちらりと振り返って見た魚は、依然として悠々と水中に揺らいでいた。見逃すのか、何を考えている。
場合によっては、いや、ほぼ確実に戦闘になるだろうと思っていただけに、逢が逃げることを許容している魚の態度は気持ちが悪かった。
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光が差し込む水面を思いっきり殴る。水の抵抗で腕は重く勢いは出なかったが、それでも魚の領分との境界を破る程度の力はあったらしい。バリバリと氷が砕けるような音を立てて水面からゆっくりと落ちてくる透明の破片を避け、太陽光に揺らめき水晶のように光る水面をかいた。水から顔を出した途端に水を蹴っていた足が川底の砂利につく。大気は真夏の焦げ付くような光に熱されてムワリと暑く、木立の間から聞こえてくる日暮らしの鳴き声が耳を刺した。戻ってきたのだ。
「ちょっと灰色―!!逢は!?逢は無事なの!?」
次の瞬間には蝉よりもかしましい声が突き刺さる。うるせえ。逢の体を抱き上げて岸辺に上がると、その瞬間橙妹は腕から奪い取るように逢を抱え、日にあたり温かくなった砂利の上に寝かせた。そうして呼吸を確認しては安堵の息をつく。まるで攫われた我が子を取り戻した母親のような反応だった。その光景に僅かに首を傾げる。こいつらこんなに仲良かったか?
ともあれ、逢には橙妹が付いている。ならばこっちは――
「おい、橙姉。お前の仕事だろう。しとめてこいよ」
目線で今しがた自分が出てきたばかりの川面を指す。妹から少し離れた場所に居る姉は黙って肩をすくめた。
もともと、長い事封じられたままだった魚が復活したらしいので、人に被害を及ぼして騒ぎ立てられる前に「なんとか」してくれというのは橙姉の仕事だった。ただ、魚は巧妙に自らの領域に身を隠していて鼻が利く橙でも探し出すのは骨が折れる。だから手伝いを頼まれたのだ。見つけ出してやったのだから後は自分で何とかしろ。
「早くしないと俺が壊した結界の割れ目、ふさがるぞ」
「分かってるわよ。手伝いありがと。……鬼姫を巻き込んで悪かったわ」
最後の一言は目を伏せて地面に零すようにポツリとつぶやいた橙姉は、そのまま川の中にザバザバ入っていった。
最初は逢をも囮に使う気なのではないかと少しばかり疑っていたが、橙姉妹の反応を見るにそうでもないらしい。疑って悪かったなと心の中で姉妹に詫びておいた。声に出して詫びる気は今のところさらさら無いが。
逢は気絶しているのか、静かな顔で目を閉じている。気配はいつも通りの弱弱しい人間のものに戻っていて、そんなことに自分でもちょっと意外なほど安心した。よかった、間に合った。ただいつまでも川原に寝かせていくわけにもいくまい。小石やなにかでデコボコしていて体が痛くなりそうだ。
「おい、橙妹。俺は逢を連れて帰るから、お前はここで姉を待て。どうせすぐ戻ってくるだろ」
「は!?それだったら私が逢連れて帰る!」
「だめだ。つーかお前玄関のドア思いっきり壊したろ。直すの誰だと思ってんだ。もうお前はしばらく片平家の玄関に触んな」
「そっ……それとこれとは関係ないでしょー!?」
「わめくなうるせえ。だいたいお前、オネーサマ待ってなくていいのか?」
「うっ…………でも、姉様は強いわ……。あんな魚なんかに姉様は負けない。……でも、逢は馬鹿みたいに弱いじゃない……脆弱すぎて不安なのよ」
目を離すと死んでしまいそうだと、俯いて瞳を揺らす橙妹の姿に溜め息をつく。もしかしたら自分も逢のことを考えている時は同じような顔をしているのかもしれない。
「……大丈夫だ。こんな脆弱でもこいつの体自体は鬼だ。それに、俺が居る」
不器用な腕を上げて橙妹の頭を撫でる。撫でたつもりだったが大幅に揺れた夕日の色の髪と胡乱な表情を見るに、頭を掴んで揺らしただけだったのかもしれない。
「まかせろ」
「…………う、ん」
「片平家出禁はマジだからな」
納得したらしき橙妹に一言だけ付け加えて背を向けると、後ろから雄たけびが聞こえた。
「はああああ!?灰色の冷血―!!」
うっせえ黙れ。
若干の八つ当たりが入っていたことは認める。しかしこちらだって逢にちょっかいかけてきたあの魚類を今すぐ三枚におろしたくてイライラしているのだ。
そう思いながらも逢をおいて川に戻らないのは、ほんの少しの恐怖からだった。
今は逢の傍を片時も離れたくなかった。橙妹がそう感じたように、目を離した瞬間にこいつが消えてしまうのではないかという不安に付きまとわれてしょうがなかったのだ。人間の心はあまりにも脆弱すぎるから。
逢を抱えて川沿いの山道を下っていく。腕の中の体重は本当に人間一人分なのかと疑ってしまうような重さで、風が吹けば飛んでしまいそうだと目をすがめる。実際は鬼の体なのだから見かけよりずっと丈夫だと分かっているのに、逢だと思うとどうしても不安になってしまう。ぽきりと、何気ないきっかけで折れてしまうのではないかと。
実際だいぶ消耗しているだろう。僅かな間とはいえ魚の領域内に居たのだ。……ちらりと頭をよぎった可能性については、考えないことにした。目を覚ました逢はもう今までの逢では無いかもしれない、なんて。
静かに切れている竜胆さん。